立山日和。

立山連峰の山々を眺め富山県内を徘徊する日々を綴ったフォト日記。2014.11.3.までは友人の中国旅を毎日掲載した。

ナチュラルに

2009年05月29日 | Zenblog
 人知の限りを尽くして、人間はあらゆるものを作り出し、作りかえ、破壊も容赦なく繰り返してきました。人の住む社会もその人知のなかに入るでしょう。そこで元気を得ることもあるでしょうが、疲れ果てることもあります。
 
 どうしようもなくなったとき、そこに自然があるというのは大きな救いです。ここ数日なんとかナチュラルになれないものかと思いました。竹林の七賢ではありませんが、自然の中で自然体でいられるというのは、至上の喜びではないかと思います。

 多少ギクシャクする相手であっても、ナチュラルに接することができれば、こちらもナチュラルになって、自然と流れるものがあるのではないかと思います。反ナチュラルや非ナチュラルとはあまり付き合いたくないです。
 何を言っているのか分からないでしょうが、反ナチュラルと言おうか非ナチュラルとも言えるものにここ数日ぶち当たってしまって、疲れ果てました。そこから来た諦めないし憧れの感懐です。

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「自虐史観」

2009年05月29日 | Zenblog
 一昨日の朝日新聞に全面広告で「この国をどうすれば幸福にできるのか。」「大川隆法、いま、国師として提言する。」が出ていました。幸福の科学という宗教団体が幸福実現党の名で来たる選挙で旗揚げしようとしているらしいのです。いまは国難の時代だからあるべき国の姿をどうデザインすべきかを述べよう、というのです。「国の未来をデザインする幸福実現党宣言」「日本の繁栄を守るために、国家の気概」などの本の宣伝がなされています。
 「憲法改正」「国家戦略」「憲法九条は憲法違反」「自虐史観」・・・などの言葉が並んでいます。そして大川隆法自身を「国師」(つまり国家の師表たる高僧に朝廷から与えられる称号)と称えています。

 私は、人間は矛盾に満ちたもので、その矛盾に苦しみ克服しようとした果てに人と神の前に立ったのが宗教家ないし宗祖とよばれる人だと思っています。決してあらゆることを見通すことができて、宇宙の真理が自明のもののように分かっていた人ではありません。大川隆法氏はすべてが彼自身には自明のものとして分かっていたかのようにそのデザインを語ります。つまり神の上の神の存在なのです。織田信長以上です。彼には自分に対する煩悶があるのだろうかとふと思ってしまいます。

 「自虐史観」という言葉があります。いかにも苦い言葉です。わざと自分を痛めつけようとするかのような響きです。しかし、私が日本人という立場に立てば、「なぜあんな過ちを犯してしまったのだろう」という悔やみきれない思いに立ち至ります。「あれはあれで良かったのだ」などとはとうてい思えません。前に進もうと思えばこれは無視しては通れないし、この前提に立たないことには「あのときはあのとき、いまの状況はあのときとは違う。」などということにもなりかねません。自虐のような思いは、自分の身に刻みつけておくべき宝のような傷跡です。過ちは二度と犯すべきではありません。

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