第一次世界大戦後の好景気で生まれた成金が、米相場への投機に手を染めシベリア出兵の動きとも重なって、凶作でもないのに米の値上がりは急速で3年で倍に、やがて3倍になっていきました。夫が遠くに出る漁師の家のお母(オカカ)たちは、富山の米を積み出す女仲仕をしたりしていましたが、家族に食べさせる米に極端に窮していました。貧富の格差が生み出した貧窮です。
1918(大正7)年7月、お母たちは水橋の「あばればば」と呼ばれた水上ノブをまとめ役として米穀店へおしかけ「米をよそへやらんといてくだはれ」「米を安う売っとくなはれ」と嘆願しました。やがて、滑川、魚津、岩瀬、生地、宮崎と富山湾沿岸に広がっていきました。警察が介入して解散させていましたが、滑川では、実力で米の積み込みを阻止したりもしました。やがて、石動や小矢部の内陸部にも波及しました。これが富山での「米騒動」の始まりです。この写真の場所が、お母たちが働いていた「はしけ場」です。ここまで米を運んで小舟(艀ハシケ)に乗せて沖で待つ汽船に積み込んでいました。
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