奥の細道の旅をしたのは45歳のとき、人生の盛りでした。しかし、滑川では疲れていた、と思います。随行した門人曽良の「曽良旅日記」に「元禄二年七月十三日申ノ下尅、滑河ニ着、宿暑気甚シ」とあります。写真の左下の石の黒い面に彫られているのが、この文言です。
芭蕉は旧暦3月27日に江戸を出発し、7月13日にここに来るまで3ヶ月半が経っています。陸奥から北陸に入って、親不知の難関から黒部川を初め立山を源とする多くの川々(「黒部の四十八ケ瀬とか呼ぶ数知らぬ川々」)を苦労して渡り、疲れ切って、今でいう9月初旬のある日の午後4時ごろ、滑川にたどり着いたのです。そして、フェーン現象の熱風が、疲れた体を痛めつけたのです。俳句は残していません。
じめじめとした暑さではありませんが、夏の富山に吹くフェーン現象の熱風はただものではありません。越後から越中にかけての道が険しかった上に見舞われたこの暑さでした。実際に旅をするということは、そういうところにも身をさらすことなんですね。
翌日、越中をさらに西に進んで詠んだのが、「わせの香や 分け入る右は 有磯うみ」。「わせ」は早稲、「有磯海(アリソウミ)」は、広くは富山湾、狭くは新湊・高岡・氷見あたりの沖のことです。翌々日、加賀の金沢に入る頃やっと人心地ついたようです。
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芭蕉は旧暦3月27日に江戸を出発し、7月13日にここに来るまで3ヶ月半が経っています。陸奥から北陸に入って、親不知の難関から黒部川を初め立山を源とする多くの川々(「黒部の四十八ケ瀬とか呼ぶ数知らぬ川々」)を苦労して渡り、疲れ切って、今でいう9月初旬のある日の午後4時ごろ、滑川にたどり着いたのです。そして、フェーン現象の熱風が、疲れた体を痛めつけたのです。俳句は残していません。
じめじめとした暑さではありませんが、夏の富山に吹くフェーン現象の熱風はただものではありません。越後から越中にかけての道が険しかった上に見舞われたこの暑さでした。実際に旅をするということは、そういうところにも身をさらすことなんですね。
翌日、越中をさらに西に進んで詠んだのが、「わせの香や 分け入る右は 有磯うみ」。「わせ」は早稲、「有磯海(アリソウミ)」は、広くは富山湾、狭くは新湊・高岡・氷見あたりの沖のことです。翌々日、加賀の金沢に入る頃やっと人心地ついたようです。
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