「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

旋律だけはどうしても譲れない

2024年05月18日 | 音楽談義

村上春樹氏に関する新刊「村上春樹研究」を一読したところ、ご本人のジャズへの傾倒ぶりがひとしきり記載されていた。



肌合いが違う作家なので小説の方はあまり読む気がしないが、エッセイなどにおける「音楽についての的確な表現力」については、一目を置かざるを得ないので常に気になる存在ではある(笑)。

そして、この人はいったいクラシック派なのか、ジャズ派なのかずっと気になっていたが本書により氷解した。

圧倒的なジャズ派なんですねえ~。

手持ちのレコードはジャズが7割を占めているそうだし、文章を書く時にも一にリズムを重視し、次がハーモニー、そして即興性を盛り込むようにして完結させているとのこと。

クラシック愛好家として言わせてもらうと、音楽の3要素の一つとして欠かせないメロディ(旋律)ではなくて即興性というところに良きにつけ悪しきにつけ彼の本質が垣間見えるような気がする・・。

仮にクラシックが「ウェット」でジャズを「ドライ」だとすると、彼の小説も本質的には「ドライ」なので肌合いが違う原因がようやく分かった・・、もちろん私見ですよ~。
(以下、クラシック愛好家を「ウェット派」、ジャズ愛好家を「ドライ派」と呼称しよう)


さて、ときどき、このブログの読者層が「ウェット派」か「ドライ派」かを想像してみることがある。

現在の読者を1日当たり仮に1000人だとするとそのうちウェット派は200人ぐらい、ドライ派が500人ぐらい、そして音楽なら何でも好きという日和見タイプが300人といったところかな。つまり「2:5:3」というわけ。

もちろんあくまでも想像の域を出ないが、搭載しているブログの内容に応じたアクセス数から推し量ったものだから全然根拠が無いわけでもない。

言い換えると、このブログのセールスポイントは「実践的なオーディオ実験」にあるとみている・・、もちろん、大した内容ではありませんよ~(笑)、で、ドライ派はウェット派に比べて圧倒的にオーディオ愛好家が多いのでこの5割説の根拠にもなろうというものです。

そういうドライ派の中で息の長い交流をさせていただいているのが「I」さんである。

折にふれ、ブログのネタにさせてもらいたいへん感謝しているが、このたびジャズのアーチストについて興味深い情報を得られたのでご了解のもとに掲載させてもらおう。

実を言うと、これまでジャズは芸術よりも娯楽に近い存在だと思っていたが、少なくとも認識を改めようと思った次第(笑)。

それでは以下のとおり。

ジャズの話題に便乗して、好みのジャズ(奏者)について白状させてください。

学生運動最後の時代が自分の大学時代と重なり、その頃にジャズを聴き始めています。思想的にジャズが扱われる時代でしたが、そのようにジャズを聴いたことはありません。もっと個人的な芸術表現として聴いてきました。

娯楽でなく芸術として聴いていますので、ジャズ奏者に求めるものは、けっして偉そうに言うわけではないのですが「創造性・・探求性?」そして「矜持」です。

好きな(リスペクトする)奏者

<ピアノ>

バド・パウエル(比類なきドライブ感)

セロニアス・モンク(笑みがこぼれます)

ウィントン・ケリー(最高のハードバップピアニスト)

ビル・エバンス(ジャズピアノの・・・何と言ったらいいかわかりません)

<トランペット>
マイルス・デイビス(ウエイン・ショーターが参加する前までが帝王)

ブッカー・リトル(夭折が本当に惜しい)

ウィントン・マルサリス(批判にめげず頑張ってほしい)

<アルトサックス>

エリック・ドルフィー(早死にが悔しい。少なくともあと数年だけでも生きていてほしかった)

オーネット・コールマン(1964年のヨーロッパ・ツアーまでが眩しい)

<テナーサックス>

スタン・ゲッツ(うまい!それだけで凄い)

アーチー・シェップ(70年以降もいい演奏をしている稀有な存在)

<ベース>

ポール・チェンバース(はずせない)

(以下3人は白人。表現力が尋常ではない)

スコット・ラファロ、ニールス・ヘニング、ウルステッド・ペデルセン ジョージ・ムラーツ


<ドラム>(ドラムには関心が薄いのですが、強いて言えば)

フィリー・ジョー・ジョーンズ(上質な縁の下の力持ち)

ジミー・コブ(上に同じ)

トニー・ウイリアムス(超人なのに縁の下の力持ち)

偏ってますねえ(笑)

時代は1950、60年代がほとんど。楽器はアコースティック。ジャズ史的にいうと、ハードバップ・モード・フリー・ウルトラモダンになります。

ジョン・コルトレーンとソニー・ロリンズが入っていないのが不思議に感じられると思いますが、この二人へのコメントは不遜になりますので差し控えます。

以上のとおりだが、「I」さんのジャズとオーディオへの熱意にはいつも敬意を抱いている。

ところで、クラシックの場合は作曲家をはじめ指揮者や演奏家など好みの対象が広範囲に広がるが、ジャズともなると演奏家だけに収斂されていくのが特徴のようだ。

それだけ許容範囲が狭くなるというのか、ジャズファン同士の「口角泡を飛ばす」議論の要因にもなりそうな気がしている(笑)。

ちなみに、我が家ではときどきコルトレーンを聴いてみるのだが、どうもサッパリで皆が言うほどピンとこない。

   

素人なりに、この疑問を率直に「I」さんにぶつけたところ次のような返信があった。 

「コルトレーンについては私もそう思います。バップ、フリー等何を聴いてもピントきません。
 
とんでもなく尊大なことを言いますが、コルトレーンはジャズの勘所が判っていないのではないかと・・・私、死刑ですね(笑)
 
逆に勘所だらけで、それがくどくなっているのがロリンズかなと・・・2回目の死刑です。
 
コルトレーンはヴィレッジバンガードを良く聴きますが、実はドルフィーを聴くためです。
 
好きな演奏もあります。セルフレスネス(LP)のマイ・フェイヴァリット・シングスです。コルトレーンを聴いている人なら持っている1枚だと思いますので、機会がありましたら聴いてみてください。「おんなじヤー」かもしれませんが(笑)。」

以上、ドライ派は「演奏家」に対する熱の入れ様が一段と「ヒート・アップ」しているような気がします~。

最後に、「村上春樹研究」を通じて、ウェット派はとうていドライ派になれそうもないことを改めて痛感した・・、音楽における「旋律」だけはどうしても譲れないところだからね~、小説だってホロリと琴線に触れる ところがなくちゃねえ・・、と思うんだけどどうかな~(笑)。



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薄氷を踏むような人生

2024年05月17日 | 独り言

このところ、テレビの「モーニングショー」「アフタヌーンショー」では水原氏の裁判(アメリカ)の話題で持ち切りだ。

水原一平さん・・、MLBで大活躍している大谷選手の通訳を務めながら、その一方では賭博にのめり込み、同選手の銀行口座から無断で25億円余りの金額を引き出していたという。

いずれ発覚して大騒動になることは分かりきっているのにどうして・・、まったく不可解で 
魔がさした としか思えない。

これに関して、ふと20年ほど前の出来事を思い出した。

「県職員が強姦未遂」・・、 ちょっと信じられないような事件で、都会と違って田舎では公務員はそれなりの位置づけだし、ましてや率先して法律を遵守するべき立場にある公務員がなんてことを・・! 

事件の概要はこうだ。

容疑者(当時46歳)は ジョギングがてら午後6時頃に市内の大学建物に侵入。女子大学生を殴ったり床に押さえつけるなどして暴行、脅迫して乱暴しようとしたが未遂に終わった疑い。

被害女性からの届出を受けた県警が聞き込みなどの捜査を進めた結果逮捕に至る。本人は容疑を認めている。二人に面識はなかった。

こういう破廉恥罪で逮捕されるぐらいなら、むしろ役人にはつきものの汚職の方がまだマシというか 品がいい というものだろう(笑)。

ところが・・、容疑者の普段はとても評判がいいものだったのである。


「熱心な仕事ぶりだった」「信じられない」県庁の同僚らはそろって言葉を失った。G容疑者は部の主管課に在籍し予算編成から県議会対応など重要な業務をこなしており46歳で課長補佐級なので出世の方も順調そのもの。

さらにG容疑者を擁護する話が続く。以前同じ職場だった男性職員は「仕事ができるからこそ現在のポジションを任せられている。上司や同僚に対してはっきり物が言えるタイプで人望も厚かった」。

自宅近くの女性は「地区の体育部長などを務めていた。真面目な人柄で犯罪をするような人にはとても見えない」。

「魔がさした」のかもしれないが、なんとも愚かなことをしでかしたものである。本人にはまったく同情の余地がないが、被害者と犯人のご家族の心痛はいかばかりかと察するにあまりある。その後の風の便りでは離婚して消息不明だという・・、そりゃそうだよねえ。

さて、この手の犯罪については比較的寛容な態度で受け止めたり、あるいは厳しく断罪してみたりといろいろ個人差があると思うが、今回のケースはたまたま運悪くエアポケットに落ち込んでしまった可能性が高い。

 関連して、丁度「世界文学は面白い」(奥泉光×いとうせいこうの対談)という本を読んでいたら次のような話が掲載されていた。(102頁)



 「電車に乗っているとき、ふっと横に座っている女性のミニスカートの中に手を入れちゃったとしたら、俺の人生、終わるんだなあって。そんな欲望があるわけではないのに、何となく手を入れちゃったとしたら・・。」

男性諸氏にこういう思いをしたことがない方がいるとしたら、そういう人はまず「聖人君子」に近い存在だろうが、同時に無味乾燥で面白みのない人だと思う(笑)。

おそらくこの世には「大過なく人生を終える」人たちが大半だろうが、そういう人たちは一歩間違えばというスリリングな機会がたまたま無かったというだけ、言い換えれば好運(?)に恵まれただけで実は危険と隣り合わせの「薄氷を踏むような人生」だったのではなかろうか、なんてつい思ってしまうわけ。

何かの本(たしか小題が「時空を駆ける遺伝子」だったと思うが)で、長い目で見ると人間の肉体なんかは「一時的な仮の乗り物」に過ぎずDNA(遺伝子)こそが何代も続いて生き抜いていく本来の主役だという説を読んだことがある。

冒頭の公務員の事例では、本能としてできるだけ広く自分のDNAをばらまきたかったのかもしれない・・、もちろん許されることではないが(笑)。

それにつけても、犯罪者のうち地域社会で日頃から評判がよく「まさかあの人が・・」という犯人像が非常に多いような気がする。

それだけ日常的に抑圧されたものがあって何かを契機に爆発してしまうのかもしれないが、そういうものを発散する機会、たとえば趣味に熱中するなんかは非常にいいことだと思う。

ゴルフでもいいし、「音楽とオーディオ」でも何でもいい。

そして、後者は相手が要らず手軽に楽しめるし点がいいし、「好きな音で好きな音楽」を聴くといろんな欲望や怨念が全てとは言わないけれど一時的にも昇華できるところがいい。

そして、いずれ 天命 が尽きるとき
にどなたか熱心な方がシステムを引き継いでくれれば、「ありふれたDNA」を残すよりもずっと有意義のような気がしている今日この頃だ(笑)。



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真空管アンプに必要な「対決の構図」

2024年05月16日 | オーディオ談義

「AXIOM80」にウッドホーンを取り付けてからルンルン気分の毎日が続いている。以前にも増して「ええ音楽やなあ・・」とウットリしながらクラシックを聴く機会が多くなった。

もちろん自己満足に過ぎないけどね~(笑)。

いろいろと理論的には 問題があるかもしれない と脳裡の片隅で常に身構えながら自問自答しているのはたしかである。オ
ーディオは 一筋縄ではいかない ことをこれまで嫌というほど経験してきたから~。

で、その第一の課題はホーンの出口の音流の乱れが挙げられる。いろんな資料で指摘されているし、まったく目に見えないだけに始末が悪いが、違和感があるかないか 耳ひいては脳 を最大限に働かせる必要がある。

試しにJBLのホーンのようにハチの巣型(左側)を参考に、メチャ細かい網目を持った金網をホーンの出口に二重に張ってみた。見かけなんてどうでもよろし~(笑)。

        

一聴して、お~、なかなかいいじゃないか! 心なしか音が柔らかくなった感じがする・・(笑)。

これで「音流の乱れ」は素人なりにひとまず解決といこう。


次の課題は組み合わせるアンプだ。

めちゃデリケートな再生を誇る「AXIOM80」だけに、アンプ次第でころっと音が変わる、それはもう面白いくらいに・・。

今のところ我が家には9台の真空管アンプがあるが、つい先日の「AXIOM80を聴かずしてオーディオを語ることなかれ」(13日付)で述べたように、(AXIOM80に)ホーンを付けた途端に「お金のかかったアンプ」が軒並み総崩れの事態へ~。

ホーン効果により「AXIOM80」の能率が向上し、アンプ側の高出力(といってもせいぜい5ワット程度だが)が、かえって仇となっている感じかな。

言い換えると、10の能力を5割程度以下しか発揮できないためにオーバーパワー気味になって いびつな音 になっている・・。

その点、出力1ワット前後の低出力アンプたちが水を得た魚のように生き生きとしてきたのはご愛敬~、ほら、控えの選手たちが一軍に上がってきて延び延びと躍動している感じかな(笑)。

そして、そのうち目下のところこれら3台のアンプたちが しのぎ を削っている。



左側の2台は折に触れ紹介してきたと思うので、割愛することにして今回の 掘り出し物 はいちばん右側のアンプだ。

その概要は出力管「6SN7」をパラレル接続したもので、たまたま「TRIAD」(アメリカ)の出力トランス(プッシュプル用)が手に入ったので、数年前に知人に急遽組み立てもらったものだが、パワー不足でなかなか本格的な出番がやってこなかった。

前段管は「6SL7」(GEのニッケルプレート)、出力管は「6SN7」(アメリカ:レイセオン)、そして整流管は「GZ32」(英国:ムラード)という陣容。

極めてシンプルな構造で出力は1ワット未満だし、 お金がもっともかかっていない アンプだが実にしっくりくる・・(笑)。

これで、実力伯仲のアンプが3台揃って安心して音楽に浸れるなあ。

安心?

というのも、周知のとおり、真空管は消耗品なので使えば使うほど老年期にさしかかって能力が衰えてくるが、「姥捨て山」に行かせるタイミングが実に計りずらい、それに加えて音がいいとされる「ナス管」はもはや製造不能なので二度と手に入る可能性が薄い。

ちなみに、画像の真ん中に位置している「LS7」アンプはナス管だけど、1970年代前後のST管はオークションにもよく出品されているが、これが古い「ナス管」となると、もう滅多に見かけない・・。

このアンプはナス管じゃないと音色も半減、値打ちも半減するのに・・、したがって後生大事に使ってま~す(笑)。

そういうわけで、真空管アンプの場合「理想的な球」が枯渇して手に入らない恐れがあるので、1台に絞って使うのはたいへん危険である、せめて同クラスのものを2~3台揃えておくと安心~。

いわば「対決の構図」として、「三つ巴の戦い」なんて理想的だとおもうんだけどなあ~(笑)。



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優しく慰めてくれるシューベルトの音楽

2024年05月15日 | 音楽談義

読書でも音楽でも、そしてオーディオでもおよそ趣味と名がつく世界では微細な点まで他人と 好み が一致することはまず ない というのが我が経験則~。

したがって、他人のご意見は「参考にすれどもとらわれず」を堅持しているつもりだが、プロの音楽家が推奨する曲目ばかりは一度聴いてみたいという誘惑にかられることがしばしばある。

「鶴我裕子」(つるが ひろこ)さんが書かれたエッセイ集「バイオリニストは目が赤い」
を読んだときもそうだった。

             

鶴我さんは福岡県生まれで、東京芸大卒。1975年(昭和35年)にNHK交響楽団に入団され、第一バイオリン奏者を32年間務められた。

この本(新潮文庫)の50頁に、(鶴我さんは
「腹心のレコード」を2枚持っていて、愛聴し始めて20年、雨の日も風の日もこの2枚で心の支えを得ているという行(くだり)があった。

その2枚の内訳とは・・、フィッシャー=ディースカウの「シュトラウス歌曲集」と、もう一枚は「フリッツ・クライスラーの小品集」。

ディースカウは確実に後世に名前が残るほどの大歌手(バリトン)だし、クライスラーは1930年代頃を中心に活躍した名バイオリニスト。

さっそく、ネットで購入しようと
検索したところ両方ともに該当盤なし、仕方なくオークションを覗いたところディースカウは無かったが、クライスラーのがあった。

どんなに当時の録音が悪くてもクライスラーの演奏だけは「別格」と聞かされているので迷うことなく入札に参加し、スンナリ落札。

「フリッツ・クライスラーの芸術10CD」と「高音質復刻盤・オーパス蔵”クライスラー ヴァイオリン小品集”」。



そして、ディースカウの「(リヒャルト)シュトラウス」歌曲集についてだが・・、これはよほどのことがない限り、もう手に入りそうにない予感がする。そこで「You Tube」に望みをかけたところ、アルバムではなく単品があった・・、すぐに耳を傾けてみたところブログ主には少し縁遠い気がした。

仕方なく方向転換して間に合わせのつもりで、手元にある「冬の旅」(シューベルト)を引っ張り出して聴いてみた。ピアノ伴奏はイェルク・デムス。

ディースカウは生涯に亘ってこの歌曲集を7回録音しているほどの熱の入れようで、年齢に相応した歌い方があるのだろう。

          

この曲には少しばかりの想い出がありまして・・、

たしか40歳代前後の頃だったが、当時、大分市南部にお住まいのK先生(医師)宅にかなり出入りしていた。

ある地区の御三家と称された大病院の院長さんで、ご高齢のため既にもう亡くなられているが、広くて天井の高い専用のオーディオルームでタンノイのオートグラフを「TVA1」(M&オースティン)という真空管アンプ(KT88のプッシュプル)で駆動されていた。

今となってはオートグラフの音質は自分の求める方向とは違うと分かっているものの当時は深々とした音色に大いに感心し憧れたものだった。

そのK先生が愛聴されていたのが「冬の旅」だった。

「疎ましい冬の季節に旅をするなんて誰もが嫌がるものだが、あえてそういう時期を選んで旅をする。

人間はそういう困難な環境を厭わずに身をさらす気概が必要なんだ。医学生の頃に友だちと一緒にこの曲をよく聴いたものだよ」ということだった。

「冬の旅」というタイトルのほんとうの意味は必ずしもそうではなかったようなのだが、当時は知る由もなかった。

近年ではごく稀に聴く程度だったが、丁度良い機会とばかりじっくり腰を落ち着けて「新生 AXIOM80」で試聴してみる気になった。

音楽とオーディオは車の両輪ですからね!(笑)


短い生涯に600曲にものぼる歌曲を書いてドイツ・リート(芸術歌曲)の花を咲かせたシューベルトの集大成となるのがこの「冬の旅」。

亡くなる前の年に作曲されたもので、暗い幻想に満ちた24曲があまねく網羅されている。あの有名な「菩提樹」は5曲目。

季節的には春の真っ盛りというのに何だか肌寒く感じる中での鑑賞だったが暗いというか、沈痛に満ちた70分あまりの時間だった。

試聴後の印象となると、シューベルトの薄幸の生涯を全体的に象徴しているかのようだったが、こういう曲目を愛好する人っていったいどういう心情の持ち主なんだろうとつい考えてしまった。

少なくとも叙情的な接し方を超越した根っからのクラシックファンには違いない。

大いに興味を惹かれて、より深くシューベルトの森に分け入ろうと「You Tube」で「シューベルト名曲集」をじっくり聴いてみたが、 聴き馴染んだ親しみやすい旋律 が想像以上に豊富だったのには驚いた。

ほら、昔はNHKラジオで音楽番組を頻繁にやっていたが、その始まりのテーマ曲によく使われていたのが「三つ子の魂百までも」と、記憶に遺っているというわけ。

シューベルトの音楽のテーマは持続性というか発展性が はかなくて長続きしない 印象だけど、ときおりハッとする美しい旋律が出てくる・・、それがテーマ曲にピッタリというわけで、いわば「短編小説の名手」という感じかな~。

あっ、そうそう・・、何方かが 彼の音楽は老人を優しく慰めてくれる音楽 と言ってましたが該当者として正鵠(せいこく=急所)を射てると思いますよ~(笑)。


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オペラを聴くとなぜ頭が良くなるのか?

2024年05月14日 | 音楽談義

「犬も歩けば棒に当たる」という諺がある。

ご存知の方も多いと思うがググってみると、「棒に当たるとは、人に棒で殴られるという意味。本来は、犬がうろつき歩いていると、人に棒で叩かれるかもしれないというところから、でしゃばると災難にあうという意味であった。

現在では、“当たる”という言葉の印象からか、何かをしているうちに思いがけない幸運があるという、反対の意味で使われている。」

ときどき図書館に出かけて本を漁っていると、幸運にも思いがけない書物に 当たる ことがある。

「頭が良くなるオペラ」(著者:樋口裕一)
                                        

まず冒頭に「オペラを聴くとなぜ頭が良くなるのか?」とある。その理由とはこうである。 

「室内楽であれ、オーケストラであれ、オペラであれ、クラシック音楽を聴くと頭が良くなる。それが私の持論だ。

クラシックには微妙な音が用いられる。それにじっと耳を傾けることによって、物事をしっかりと落ち着いて思考する態度が身に付く。

変奏形式などに基づいて論理的に構成されていることが多い。それゆえクラシックを聴いているうちに自然と論理的な思考が身についてくる。

だが、オペラとなるとその比ではない。オペラは総合芸術だ。そこに用いられるのは音楽だけではない。

ストーリーがあり、舞台があり、歌手たちが歌い、演出がある。それだけ情報も増え、頭を使う状況も増えてくる。必然的に、いっそう頭の訓練になる。言い換えれば頭が良くなる」

とまあ、以上のとおりだが、自分の場合は別に頭を良くしようとクラシック音楽を聴いているわけではない。

聴いていて心地いい、場合によっては心を揺り動かされるのが楽しみなわけだが、目下の関心事のひとつは「ボケないこと」なので、一石二鳥になればそれに越したことはない。

本書では具体的に16の有名なオペラが挙げられており、“頭を良くする”ための聴きどころが懇切丁寧に解説されている。

我らがモーツァルトの三大オペラ「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」ももちろん入っている。 

この三つのうち、もし一つでも欠けていたら著者のオペラに対する見識を疑うところだったので好感度100点!(笑)

この中では、最晩年の作品「魔笛」が音楽的には「一頭地を抜いている」と思うが、「頭が良くなる」という見地からはおそらく「ドン・ジョバンニ」ということになるだろう。

いったい、なぜか?その理由を述べてみよう。 

このオペラはモーツァルトの「天馬空を駆ける」ような音楽には珍しいほどの人間臭さがプンプン臭ってくる男女の愛憎劇である。

ご承知の方も多いと思うが、まず簡単なあらすじを述べると、女性と見れば若い女からお婆ちゃんまで次から次に手を出す好色な貴族の「ドン・ジョバンニ」が、神を信じず人を殺した報いを受けて最後は地獄に堕ちていくというもので、第一幕の冒頭の出来事にこのオペラの大切なポイントがある。

ドン・ジョバンニが貴族の女性「ドンナ・アンナ」をモノにしようと館に忍び込むものの父親の騎士長に見つかり、争いになって騎士長を刺し殺してしまう。父を殺されたドンア・アンナは恋人ドン・オッターヴィオとともに犯人を捜し、復讐しようと誓うシーン。

五味康祐さんの著書「西方の音」にも、このオペラが詳しく解説されているが、この館の夜の出来事においてドン ・ジョバンニが父親を殺す前にドンナ・アンナの貞操を奪ったのかどうか、これがのちのドラマの展開に決定的な差をもたらすとある。

言葉にすることがちょっと憚られる 暗黙知 がこのオペラの深層底流となっているわけだが、こういうことはどんなオペラの解説書にも書かれていないし、もちろん本書もその例に漏れないが、このことを念頭におきながらこのオペラを聴くととても興趣が尽きない。

ちなみに、「西方の音」では二人に関係があったことは明白で「さればこそ、いっさいの謎は解ける」と具体的にその理由が挙げられている。

「もしかして・・」と疑心暗鬼にかられる恋人ドン・オッターヴィオ、素知らぬ風を装うドンナ・アンナ、そして臆面もなく他の若い娘にも触手を伸ばす好色漢ドン・ジョバンニとの三角関係、その辺の何とも言えない微妙な雰囲気をモーツァルトの音楽が問わず語らずのうちに実に巧妙に演出している!

楽聖ベートーヴェンはこの不道徳なオペラに激怒したとされるが、ロマンチストだったベートーヴェンと違って、モーツァルトは人間の機微に通じた世慣れ人であることがいやがうえにも感じ取れる・・。

というわけで、「ドン・ジョバンニ」をこういう風に鑑賞して想像力を逞しくすると頭の血の巡りが良くなりそう!(笑)

フルトヴェングラー指揮、以下クリップス、バレンボイム、ムーティなどいずれも名演だと思うが、前述の微妙な雰囲気を醸し出すのが上手いのはやはり「フルトヴェングラー」かな~。

ライブ録音なので音質が冴えず 茫洋 とした風情が漂っているのも寄与しているかもしれない・・(笑)。
          

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