今日が一番素敵

丁寧な暮らしを心がけながら、日々、折々のの心模様を素直に語ります。
今が一番素敵との思いを込めて。

原爆の日 奇跡的に命拾いした両親と私

2022-08-07 07:22:17 | 人生

8月6日の原爆記念日を、わたしは今年も元気に迎えることが出来ました。

私がこの世に誕生し、一年半後に起きた壮絶な悲劇でした。

この日を迎える度に思う事は、生死を分けたこの日の我が家の命運です。

父の事は、少し前の記事でも触れましたが。

前日まで出張に出かけ、その翌日は30分出社を遅らせて良かったために、奇跡的に助かりました。

 

画像はすべてテレビの映像を撮影した物です

 

同様の事が母にも言えます。

我が家の後ろの通りの奥様たちは、全員亡くなられたようです。

何故なら、勤労奉仕の順番の日だったからです。

もし8月7日が、原爆投下の日であれば、我が家は全滅でした。

父は定時に出社し、母も私を背負って勤労奉仕に出かけていたでしょうから。

 

 

その当日、焦土と化した市内を通り抜け、会社まで出かけた父の脳裏には、その悲惨な状況が頭にこびりついて離れる事は、一生無かったでしょうに・・・。

私が物心ついてからも、父も母も原爆の日の話を詳しく語ることは、全くと言っていいほどありませんでした。

たまには話して聞かせてくれたのかもしれませんが、私の記憶に余りありません。

 

それが教育上、正しかたかどうか?

それは何とも言えませんが・・・。

私は聞かされないで育ったことは、幸いな事だったのかもしれない、と思っています。

その負い目を感じないで、成長できましたから。

 

幼い時から、虚弱体質の所があり、よく熱を出し学校も休みがちでしたが・・・。

その時も、被爆のせいと思ったことは一度もなくて。

心に被爆者の意識が影を落とすことなく、成長することができました。

 

 

ところが、ある時から、自分は被爆者で、放射線の影響をもろに受けている人間、と強く思うようになりました。

その契機は、東日本大震災です。

SNSが普及し、誰でもネット空間で自分の思いや意見を語れる時代ですから、やむを得ない事と思うのですが・・・

その当時は、専門家だけでなく一般の人も声高に放射線の恐怖を叫ぶようなりました。

東京脱出と言う人もいる程でしたから。

 

それを目や耳にするたびに、福島を始めその近隣県に住む人たちの不安を案じないではいられなかった私です。

専門家の分析に任せ、もう少し声を落として語れないものかと。

被爆者である私自身も、そのせいで、とても複雑な気持ちに、当時はなりました。

 

 

幸いにも、次女のお婿さんは、科学者でしたから、私は彼の話を聞き、随分不安が和らいだものです。

でもそれ以来、私は3キロの地点で被爆した人間といった意識は以前より遥かに強くなり、今日に至ります。

もし今、被爆が原因で癌などの病を患っても、もう十分人生を生きながらえられましたから、被爆者の負い目を感じる事は全くありませんが。

 

昨日の平和式典は、かってないほど真剣に視聴した私です。

今ほど、将来の平和に確信が持てないことは、今までにはなかったからです。

子供達、孫たちの代まで、核兵器の使用は無論、戦争のない平和な世の中がはたして続くでしょうか。

平和への願いに包まれた平和式典を見ながら・・・。

平和の鐘の音に耳を傾けながら、

 

 

今の穏やかな暮らしが、孫の世代になるまでも、ずっと続きますように、と真剣に私は祈りました。

今後も被爆国の日本は、核兵器廃絶の実現のために一層尽力していただきたいと、強く願っています。

 

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