男澤惠一・家系と先祖のBLOG

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

家紋地図 中国

2023年07月04日 | 家紋いろいろ
戦乱のときは兵が往来した中国地方。山口県周辺はよく調査に行きました。安芸には、「丸に離れ三引」の吉川・鳩紋の熊谷・「左三つ巴」の小早川など鎌倉御家人が多く西遷したことから関東ゆかりの家紋が多い。
大内家「唐花菱」はルーツである多々良氏の「唐花」を誇示。中国地方の覇者「一文字に三つ星」の毛利家の本拠地。
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家紋地図 四国

2023年07月03日 | 家紋いろいろ
四国は、阿波・讃岐・伊予・土佐の四つで四国と呼ばれました。
阿波は「三階菱」の三好氏一族、讃岐は「三階松」の讃州藤氏、伊予は「折敷に三文字」の河野氏、土佐は「一条藤」の一条氏がそれぞれ本拠とした。戦国時代四国に勢いが有ったのは「酢漿草」の長宗我部氏です。
四国は調査でまわること度々でした。土佐國の瑞山こと武市半平太「四つ柿葉」が印象的でしたが、徳島の武市家は河野氏の流れを組むだけあって、折敷に三ではありませんが丸に三文字でした。
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家紋地図 九州鎮西

2023年07月02日 | 家紋いろいろ
源平合戦で壇ノ浦で平家が滅んだ後、平家没官領を設けたり、蒙古襲来から鎌倉幕府は領地に下向することを命じたりした。杏葉紋の大友・隅立て四つ目紋の少弐・九曜に半月紋の千葉・右三つ巴紋の宇都宮氏等の鎌倉御家人系が勢力を持っている。
その他並び鷹紋の菊池氏、三つ星紋の松浦氏、柳川守紋の立花氏、大村瓜紋の大村氏、有馬瓜紋の有馬氏等が目立つ。
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家紋地図 九州薩南

2023年07月01日 | 家紋いろいろ
九州は、筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・薩摩・大隈の九つの国で九州と呼ばれました。私が直接、調査したのは宮崎県、熊本県、福岡県ですが、九州の南のほうは薩南と呼ばれます。歴史をみると関東御家人や武士が何度か遠征に行っていますが、そのまま定着した一族も多いと思います。
こうして家紋地図を見ると、鹿児島と宮崎県一部の島津氏、庵木瓜紋の伊東氏、杏葉紋の大友氏、熊本県では檜扇紋の隈部氏、並び鷹羽の菊池氏、違い鷹羽の阿蘇氏等を思い出します。
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家紋いろいろ 烏紋

2023年04月21日 | 家紋いろいろ
もっとも身近にいる鳥の部類に入るでしょうが、あまり好かれないのは、大きくて真っ黒な姿と泣き声ですかね。中国の神話では三本足の烏が太陽の中に住むと考えられていました。神武天皇が熊野から大和に入るときに、大和のヤタガラスが道案内をしたといわれています。那智烏紋は熊野権現の御使鈴木氏に用いられ、軍旗にも使われ家紋になりました。今ではサッカー日本チームのシンボルみたいになっています。鈴木さんは神主が多く、紀州の穂積一族と言われていますが、真面目に東北まで神道の布教に出かけた一族が東北にいます。福島県でお会いした鈴木さんはヤタガラスの家紋でした。

日本家系調査会

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オシドリ紋

2023年04月03日 | 家紋いろいろ
めずらしいオシドリの家紋です。オシドリは夫婦仲のよい象徴です。仲が悪くなりそうになったら家紋をじっと見る。離婚ストッパー家紋ですね。近衛家・伊達家の替え紋として用いられた。
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家系譜新聞 家紋調査の実際

2023年03月29日 | 家紋いろいろ
特集:家紋調査の実際
家紋の歴史
最近、家紋に対する質問が多くなりましたので、思いつくところを何回かに分けて説明させていただきたいと思います。
家系調査の仕事を35年くらい行っていますが、いままでに家紋のない家系は出会ったことがありません。家紋は一つだけという家系がほとんどですが、中にはいくつも家紋を持つ家系もあり、私が出会った人は家紋が6つあるそうです。そういう家系は、昔、先祖が殿様から賜った等の伝承が残っていました。

家紋はその家の家筋を表す重要なロゴマークでした。鎌倉時代からという人が多いですが、実際はもっと古い時代から家紋を持っている家系も少なからずあります。武士が戦に出たとき、武功を立てると、それが大きな出世につながります。ですから戦の時は自分の存在をアッピールするために幟や武具、馬具などに思いっきり家紋を入れました。
家紋が一般庶民に浸透したのは、やはり江戸時代になります。分家すると少しずつアレンジしたり、丸が有るとか、太枠だとか細枠だとか、種類もどんどん多くなりました。家紋のアレンジもその家の人にしかわからない小さなアレンジもあり、証文の偽作を防止したとも言われます。同じ家紋でも数十種類に及ぶことは珍しくありません。家紋の数は数万種類あると思われます。名字は29万(諸説あり)と言われ、名字と家紋の組み合わせでルーツを特定すると言われます。(そこはなかなか単純ではないのです。)

家紋でルーツがわかるのか?
K家を調べたとき、姓氏辞典や郷土史にも記載がなく、あるのは先祖からの伝承だけですが、文書が見つかったわけではありません。単に先祖の願望が、いつの間にか伝承になっているだけかも知れません。家紋辞典を調べても一種類しか載っていませんでした。こういう時は実際に家紋の分布を調べるしかありません。
ところが、予想だにしない複雑な現状を見ることになりました。その家系は分家しても同じ家紋を守らない家系でした。これには面喰いました。通常、出自がはっきりしていて、それを誇りにしていれば当然、代々その家紋を必ず守ります。それらのことが無い家系だと思いました。姓氏辞典や家紋辞典に出ていないはずです。かつて調査した先人達がわからなかったから、書き残していないわけです。わからなかったときも、調べたことを記録として残してくれたらよいのですが、そういうことは市販された本には絶対に載りません。
家系調査は簡単ではありません 
資料が多く見つかるようでは当方に調査依頼をしてきません。わからないから依頼されるのです。そんな時、わかったことをいくつか箇条書きにしてみます。そのような情報の断片が多くなれば、あるとき、点と点が線になる時があります。いくつもの線が交わったとき、大きな可能性が浮かんできます。その可能性に合致する情報を収集します。そうすると一つの結論が導き出されます。家系調査の仕事をしていると、新たな郷土史の発見、新たな系譜学の発見があります。

家紋辞典や姓氏辞典は全て正しいか?
 ある有名な亡歴史学者が、K家は新田源氏であると書かれている書物に出会いました。何故ならば代々の墓を調べると家紋が二つあって、一方が新田源氏の中黒紋だというのです。普通の家系調査員はこういう資料を根拠に「当家は新田源氏です。」等と言うのですが、ルーツの本を書いているような人の中には、単なるリポーターのような人もいて、古老の口伝をそのまま本にしてしまう学者も思います。しかし一旦、本に出してしまうと間違った情報が後世に残ってしまいます。それが定説になってしまいます。そんな事例がたくさんあります。
 ところが、そのK家の墓を調査してみると、中黒紋は江戸の末期に作られたもので、もう一つの家紋の墓はもっと古く、数も無数にありました。その学者は実際に墓を見ないで本を書いていたわけです。
 家紋辞典を見ると、まったく歴史的な繋がりが確認されないのに、単に隅立て四つ目紋だから佐々木氏流だとか、五三の桐紋だから清和源氏だとか書かれています。(眉唾だと思ってください。)系譜学を二流三流の学問にしてしまったのは、こんな本が世に多く出回っているからでしょう。〇〇氏流だというのなら、その根拠が必要で、殿様の国替えの歴史があるとか、先祖が何藩に所属していたとか、人の移動を歴史的に証明するとか、出自を明らかにするのなら、証拠となる正しい情報が必要で、そのためには見えないところで地道な努力を積み重ねることが大切と思います。他人の家系と思わず自分の家系だったらどう思うか?自分の家系だったら妥協などしないはずです。家系調査には効率とか損益分岐とか、それらは無用どころか有害です。
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家紋でルーツがわかるのか?

2023年03月16日 | 家紋いろいろ
K家を調べたとき、姓氏辞典や郷土史にも記載がなく、あるのは先祖からの伝承だけですが、文書が見つかったわけではありません。単に先祖の願望が、いつの間にか伝承になっているだけかも知れません。家紋辞典を調べても一種類しか載っていませんでした。こういう時は実際に家紋の分布を調べるしかありません。
ところが、予想だにしない複雑な現状を見ることになりました。その家系は分家しても同じ家紋を守らない家系でした。これには面喰いました。通常、出自がはっきりしていて、それを誇りにしていれば当然、代々その家紋を必ず守ります。それらのことが無い家系だと思いました。姓氏辞典や家紋辞典に出ていないはずです。かつて調査した先人達がわからなかったから、書き残していないわけです。わからなかったときも、調べたことを記録として残してくれたらよいのですが、そういうことは市販された本には絶対に載りません。
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家紋の歴史

2023年03月15日 | 家紋いろいろ
最近、家紋に対する質問が多くなりましたので、思いつくところを何回かに分けて説明させていただきたいと思います。
家系調査の仕事を35年くらい行っていますが、いままでに家紋のない家系は出会ったことがありません。家紋は一つだけという家系がほとんどですが、中にはいくつも家紋を持つ家系もあり、私が出会った人は家紋が6つあるそうです。そういう家系は、昔、先祖が殿様から賜った等の伝承が残っていました。
家紋はその家の家筋を表す重要なロゴマークでした。鎌倉時代からという人が多いですが、実際はもっと古い時代から家紋を持っている家系も少なからずあります。武士が戦に出たとき、武功を立てると、それが大きな出世につながります。ですから戦の時は自分の存在をアッピールするために幟や武具、馬具などに思いっきり家紋を入れました。

家紋が一般庶民に浸透したのは、やはり江戸時代になります。分家すると少しずつアレンジしたり、丸が有るとか、太枠だとか細枠だとか、種類もどんどん多くなりました。家紋のアレンジもその家の人にしかわからない小さなアレンジもあり、証文の偽作を防止したとも言われます。同じ家紋でも数十種類に及ぶことは珍しくありません。家紋の数は数万種類あると思われます。名字は29万(諸説あり)と言われ、名字と家紋の組み合わせでルーツを特定すると言われます。(そこはなかなか単純ではないのです。)
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小暮氏家紋2

2021年05月18日 | 家紋いろいろ
群馬県太田市新田反町町の小暮氏はほとんど丸に違鷹紋でした。

伊勢崎市内も多く「伊勢崎風土記」に小暮主水は乾﨑七騎の一人と書かれている。

小暮批右衞門を代々襲名している家が伊勢崎市太田町にある。

伊勢崎藩のご用達を勤め名字帯刀を許されている。
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