男澤惠一・家系と先祖のBLOG

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

先祖供養は遺伝子のビタミン剤

2013年12月31日 | 家系鑑定とアドバイスなど
今日は大晦日。なにをして過ごしますか?大掃除?紅白歌合戦それともダウンタウンの大晦日SP?

大晦日こそ先祖供養納め日です。

一年間のご先祖の加護に感謝しましょう。

先祖供養は自分の遺伝子のビタミン剤です。

ビタミン不足で直ぐ身体が弱体化することはありませんが、慢性的に不足するとやがて病気になってしまいます。

今の日本は、病気の状態かどうかはわかりませんが、高度経済成長期と比較すると、だいぶ精神的には弱ってきていると思います。いくら小手先でやろうとしても勢いが有りません。

ある学者が、日本の弱体化は学校で道徳を教えなくなってから、家庭で先祖供養しなくなってから・・・と言っていました。

全くやってないわけではないでしょうが、だいぶ薄れてきています。一理あるなと思いました。

日本が元気だった高度経済成長期は偶然に来たのではなく、日本人の頑張りの蓄積です。

その頑張りの根っこに有ったのが、道徳と先祖供養ではないかと思います。

この二つが無い人は根っこの無い人。遺伝子の元気が無くなってしまいます。

家系も元気が失せてきます。結婚運や子宝運が無いとか・・・。

家系も元気が無いとすれば、先祖供養というビタミン剤が足らないのです。

日本家系調査会

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丸に山形入りに蛇の目

2013年12月30日 | 家紋いろいろ
とても珍しい家紋です。長野県上伊那郡の調査でお目にかかりました。

ヘビの目に似ているので“蛇の目紋”と呼ばれるが、もとは弓の弦を巻きつける革製や藤製(藤の蔓などで作ったもの)の輪を図案化したもので、古くは弦巻(つるまき)紋と称しました。

戦国末期頃から“蛇の目紋”と呼ばれるようになりました。弦巻紋が紋章として用いられた理由は、武具であり、その形が単純な同心円的なためと思われています。

徳川期の使用家は、大名で細川、戸田、松平、石川、京極、加藤氏が用いており、幕臣では50余家が用いました。

流派別にみると、藤原氏利仁流から出た氏族が比較的多いです。

山は泰然自若(たいぜんじじゃく)として高くそびえる姿が尊ばれ信仰されてきました。

紋章として選ばれたのもその美しさと信仰的な意味があるでしょう。

山のもつ神秘性と不動の姿から家紋が生まれたと思われます。

山の形を写実的に表現したものを“山紋”、幾何学(きかがく)模様にアレンジしたものを“山形紋”といいます。

日本家系調査会
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渡辺星(三つ星に一文字)

2013年12月29日 | 家紋いろいろ
渡辺氏の家紋は、三つ星に一文字で、通称「渡辺星」と呼ばれている。渡辺氏の独占紋である。

25通りもあるワタナベと名乗る方の90%がこの渡辺星の家紋とのこと。大変な数字である。

三つ星は、天文学で言うと、オリオン座の中央部に直列する三つの恒星をさす。中国では、これを三武、または将軍星といい、それぞれに大将軍星、左将軍星、右将軍星と呼んだ。

紋章は、この星を品のように配列し、武神の象徴として信仰した。

一文字には、敵に打ち勝つという思想が含まれているという。

日本家系調査会
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隅立て四つ目

2013年12月28日 | 家紋いろいろ
分類は、目結(めゆい)紋。目結とは鹿子絞りのことで、布を糸で結び白い染め抜きを残す模様のことです。

目といっても、眼ではなく、“間”の意です。結は文字通り結び会うことで、人と人との団結を意味しています。

家紋として初めて史籍に現れるのは、佐々木高綱公で、やがて目結紋は近江源氏の代表家紋となり、佐々木一族が用いています。

徳川時代では、大名・幕臣70家余の緒家が用いています。

現在でも目結紋は数多く用いられます。近江地方は少なく、東北の青森、秋田、岩手、宮城で多く使用されています。

日本家系調査会
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下がり藤

2013年12月27日 | 家紋いろいろ
藤はマメ科の蔓性落葉木で山野に自生します。4、5月頃長い総状の紫や白色の蝶形の花をつけます。藤紋はこの藤の葉と花を紋章化したものです。藤は『万葉集』『西宮記』『古今著聞集』に描かれ、藤原氏の栄華を極めた時代であり、当然文様としても流行し織物などに描かれました。

『藤』が家紋として史籍に初めて現われるのは『見聞家紋』で、讚岐の大野氏、摂津の伊丹氏、河内の由佐氏、美濃の伊賀氏、近江の箕浦氏、播磨の小寺氏などです。徳川時代になると、藤紋を用いる氏は『寛政重修緒家譜』によると、大名・幕臣など160家以上の氏が用いました。このように藤紋は我が国の代表的家紋の一つです。

使用氏の内訳をみると、藤原氏族が圧倒的に多いのが特徴で、分布としては、全国いたるところで見られます。

日本家系調査会
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埼玉県の根岸家由来

2013年12月26日 | この名字のルーツは?
全国の根岸氏は、2010年電話帳では7800軒あり、1位埼玉県2,600軒、2位群馬県1,600軒、3位東京850軒でした。
埼玉県内では、深谷市260軒・本庄市255軒、熊谷市180軒、羽生市126軒、秩父市123軒、行田市119軒でした。
群馬県内では、伊勢崎市349軒、前橋市245軒、高崎市173軒、太田市135軒、藤岡市120軒でした。
全国の中でも、埼玉県と群馬県の県境の市町村に、根岸氏が特に集中していることが分かりました。

当地域の根岸氏は数系統ありますが、桓武平氏熊谷氏流根岸氏が名族として有名で、比企郡根岸村(嵐山町)を領し根岸氏を称しました。その後一族繁栄し、戦国期には松山城主、深谷城主、鉢形城主、忍城主等に仕えました。戦国末期から江戸初期にかけての戦いの後、諸藩に仕えたり、各地に土着して帰農しました。
その他の流派として、清和源氏加賀美氏族根岸氏(埼玉郡柏戸村“加須市”)、騎西城主(きさいじょう・加須市)・小田氏族根岸氏、武蔵七党の小野姓猪俣氏(児玉郡美里町大字猪俣に本拠)の根岸氏等があり、また秩父地区にも根岸氏の集落があります。

桓武平氏熊谷氏
武蔵国熊谷郷(熊谷市)を所領して、熊谷と称した一族です。
初代・熊谷直貞は、桓武平氏(桓武天皇)・平直方の孫の平盛方の子。平直貞と称します。父・盛方は鎌倉幕府執権の北条氏の本家筋であったが、何らかの問題を起こし追討されたといいます。別説では宣化天皇を祖とする丹治姓・私市氏の熊谷直季が熊谷氏を名乗っており、その孫の熊谷直孝の後継として平氏の一門である平直貞が養子に迎えられたといいます。
武蔵熊谷氏ともいい、熊谷直家の子・直重が本拠とします。以後比企郡根岸村(嵐山町)、和泉村(滑川町)を知行し、戦国期まで存続しました。
一族は安芸熊谷氏、長州熊谷氏、三河熊谷氏、陸奥熊谷氏等あり、各地で活躍をします。

桓武天皇-葛原親王-高見王-平高望-国香-貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-熊谷直貞-直実-直家-直重

日本家系調査会
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千切り紋

2013年12月24日 | 家紋いろいろ
長野県松本市の丸山家の調査でよくお目にかかった家紋です。

千切りは、織機の部分のひとつで、縦糸を巻いておく、中央がくびれた工字形をした棒のこと。また、木や石などに埋め、かすがいとして締め合わせるちぎり締めのことも意味する。

形が単純合理的で美しく、互いに堅く契り絶対離れることがないというめでたい吉祥的な意味があります。
徳川期に、清和源氏支流の松平、千村、岩波、小城の各氏、藤原氏利仁流の川口氏、藤原氏支流の若林、黒部氏、藤原氏秀郷流の内藤氏、良峰氏族の丹羽氏らが家紋として用いています。

日本家紋総覧に、遠江国から起こる藤原氏族勝間田支流の丸山氏が、千切り紋を使用しているとあります。
家紋の事典に「仁科明盛の二男盛慶が日岐城主となり丸山肥後守を称す。また日岐城丸山氏を祖とする甲斐山梨郡の丸山氏は勝間田氏の後裔を称し、また小笠原氏、武田氏などを称するものあり。」「勝間田弾正忠光時の三世左京亮宗秋が横須賀丸山に住して丸山氏を称すという。子孫信濃国に移り、また甲斐国に移り武田氏に仕える。本来は前項と同族か」とあります。

千切り紋は、小笠原流で、旗本大将の丸山氏、日岐氏、岩波氏、門葉の二木氏等が用いています。
丸山氏が千切り紋を用いるのは、主家・小笠原氏との契を結び拝領したと思われ、筑前守政友、日岐丹波守盛武、丸山丹後守貞政、同左馬之助の系統がこれを定紋とし、揚羽蝶は替紋として用いている。
小笠原氏時代は丸山氏本来の揚羽蝶よりも主家から拝領した千切り紋の方が権威を持ち、はばがきいたのでしょう。
明科町史に「明科七貴の丸山氏の多くは千切り紋を用いているが、安曇の豊科方面の丸山姓の人達もこの紋所である。小笠原系の人々が多く用いたとあるので、丸山氏は小笠原氏との契を結び拝領した紋と考察できる。」「丸に千切り紋は、上押野、下押野、明科、光の丸山氏が用いている。」「蝶紋は、桓武平氏系の代表紋とされる。」

日本家系調査会
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桔梗

2013年12月23日 | 家紋いろいろ
桔梗は山野に自生するキキョウ科の多年草で、秋の七草のひとつです。夏から秋にかけて青紫色の鐘形の花をつけます。古くから人々に親しまれた桔梗は当然、文様としても多く用いられました。その可憐な姿はいかにも優しく、女性的なため、代表的な女紋の一つとされています。種類は家紋の中でも多い方で、百種以上にのぼります。
桔梗紋は、名族・清和源氏頼光流土岐(とき)氏とその一族の代表家紋です。土岐氏の家紋は「土岐桔梗紋」と呼ばれ、通常の桔梗紋の花弁がやや菱形なのに対し、三角形で大きい。土岐一族が繁栄し、桔梗紋発祥の美濃地方(岐阜県南部)は、最も桔梗紋の分布が多い地域です。使用家も中部から西に広がっており、ベスト10に入る有名紋です。
他にも明智光秀、加藤清正、坂本龍馬もこの家紋を使用しました。
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原家由来について

2013年12月22日 | この名字のルーツは?
全国の電話帳で原家は4万2千余軒あり、多い順に長野県(3400軒)、神奈川県(3200軒)、東京都(2600軒)、愛知県(2200軒)、埼玉県(1800軒)となり、首都圏とその周辺の県に集中しています。
東京都では、八王子市(200軒)、世田谷区(180軒)、大田区(120軒)、町田市(110軒)、足立区(100軒)となっています。
原家の発祥地は全国各地に多数あり、先祖由来を一ヵ所に特定することは困難ですが、首都圏周辺の発祥地であることは間違いないでしょう。原氏の代表的な先祖由来を記載します。
藤原南家工藤氏族
駿河国(静岡県)発祥の豪族にして、駿河郡原村より起ったといいます。尊卑分脈に「入江馬維清-工藤大夫維仲-師清(原 権守)-清仲(遠江権守)-清行(原 四郎)-清益(原 三郎)-忠安(右兵衛)」と載せ、また、工藤大夫維仲の弟「入江権守清定-蒲原権守清実-武者所清親-池屋二郎清章-祐清(原 八郎)」とあります。
師清の孫・三郎清益は、源 頼朝の幕下に参じ、西国に転戦しました。戦後、戦功により本拠を本郷(静岡県掛川市本郷)に移し、文治元年(1185)本郷城(掛川市本郷字古城)を築いて、原氏代々の居城としました。源 平盛衰記に原 三郎清益を載せ、平家物語にも名前が見え、義経に従軍しました。鎌倉期は、御家人となりました。
相模国(神奈川県)の原氏もこの後裔が多く、また武蔵国橘樹郡(神奈川県橘樹郡“たちばなぐん”)の名族としても知られるようになりました。

清和源氏土岐氏族
美濃国(岐阜県)の豪族で、郡上郡、恵那郡原村(岐阜県恵那郡山岡町原)より起こります。土岐の一門にして尊卑分脈に「頼光七世孫・土岐判官光行-五郎光定-隠岐孫太郎定親-師親(号・原 彦次)-師実(原 弥次郎)-頼継」とあります。
師親は、常陸国信太庄(茨城県稲敷市)の地頭を勤めたようです。後孫は、関東管領上杉憲方に従って関東に下向し、常陸国信太庄に入部して戦国末期まで勢力がありました。甲斐国(山梨県)に移った一族は、武田信虎・信玄二代に仕えた原 加賀守昌俊・昌胤・昌勝の三代は、奉行衆として活躍しました。
南北朝期は、南朝方の守護代として原氏の名が見えます。
安土桃山期の原 長頼氏は、織田信長に仕えて各地を転戦。のちに豊臣秀吉方に仕え、慶長3年(1598)美濃(岐阜県)太田山城主となります。この後孫と伝います。

桓武平氏千葉氏族
下総国(千葉県)の大族にして、匝瑳郡原郷(香取郡多古町染井)より起こります。千葉系圖に「下総権介常兼(千葉大夫)の弟常房(鴨根三郎)-常余(原 四郎)」とあります。千葉介兼胤の後見人となって以降は千葉宗家の筆頭家老として宗家を支え、小田原北条氏からも「他国衆」として独立した勢力を認められました。一族は、信濃国(長野県)の下條家や甲斐国(山梨県)の武田家に仕えました。友胤の子・虎胤は武田信玄配下の名将「甲陽の五名臣(ごめいしん)」に数えられた勇将で、「鬼美濃」と呼ばれました。五名臣は原 美濃守・小幡山城守・横田美中守・多田淡路守・山本勘助。
安房の原氏。千葉満胤の四男胤高が下総国千葉郡小弓に築城して原氏を名乗りました。
胤歳の時に武田氏に仕え、子・胤従が八王子千人同心となった一族がいます。
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群馬県渋川市の島村家由来について

2013年12月19日 | 家系鑑定とアドバイスなど
武蔵七党 丹党
「埼玉県の苗字」に、武蔵七党 丹党 加治氏族と伝え、加治刑部三郎左衛門景季→島村石見守(仕北条氏政、領武州島村)
「家紋の事典」には、武蔵七党 丹党 紀氏族と伝え、6つある家紋の中に「丸に違い鷹の羽」があります。

「丹党は、武平の代に結成し、平安後期(1100年頃)から鎌倉期(1185年頃~1333年)にかけて、武蔵国入間郡・秩父郡、児玉郡西部(本庄市・神川町付近)にわたって繁栄した武士団です。
丹党系図では第28代宣化天皇の子孫である多治比の後裔とされています。丹氏、新里氏、榛沢氏、安保(あぽ)氏、青木氏、高麗氏、長浜氏、勅使河原氏、中村氏、中山氏、大関氏、加治氏、横瀬氏、薄(すすき)氏、白鳥氏、岩田氏、野上氏、井戸氏、小鹿野氏、大河原氏などが分出しました。
丹党・児玉党・猪俣党などの武蔵武士団は、南北朝期(1336~92)に新田義貞(南朝廷側)についた為、新田氏の敗北(延元3年“1338年”)と共に弱体化あるいは没落していきました。さらに上杉弾秀の乱(応永23年“1416”)では弾秀に味方した為、鎌倉公方の足利氏に所領を没収されました。武士団の一党一族という結束が解かれていくようになりました。」

八崎城主・長尾氏家臣
八崎城は、白井城主(子持村)・長尾景仲氏が支城として周辺の守りを固めるために築いた城です。長尾氏は八崎城に城代を置いて守らせたと考えられます。
元亀3年(1572)に武田家家臣・真田幸隆氏が白井城を攻略し、長尾憲景は利根川を越えて八崎城に退きました。天正10年(1582)北条高広が八崎城を攻め落としました。天正11年(1583)長尾政景が城主となり、次いで天正18年(1590)兄・輝景の跡を継いで白井城主となるが、同年小田原征伐で前田利家に攻められ白井城の落城と共に八崎城も落城となった。
永井実平の書状に「八崎城は、三原田の永井出羽実利が城代をつとめ、米野の蛭川新左衛門、永井大学、萩原越後、吉田甚之丞、永岡刑部左衛門、塩谷勘解由左衛門、小保方左京、中島藤右衛門、及び足軽50人がここにつとめていた」と記されています。
島村氏は、長尾氏の家臣として戦国期から八崎村に居住し、八崎城が落城後当地に帰農したと推測されます。

日本家系調査会
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