男澤惠一・家系と先祖のBLOG

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

夢占い 落ちる

2013年05月31日 | 夢占い、ジンクスなど
自分が高いところから落ちる夢は、不安心の反映です。

目が覚めたとき、息が苦しかったり、汗だくになっていたりします。

落ちるとは、本来ある位置から転落を意味します。

築いてきた地位や名声、財産を失うのではないかという不安を抱えているときに見ることが多いです。

四柱推命占い クリエーション

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長野県北澤家由来

2013年05月30日 | この名字のルーツは?
真田昌幸氏の家臣
中世、信濃国佐久郡北澤(佐久市)より起こる北澤氏。
天正14年(1586)北澤勘解由は真田昌幸氏より佐久郡内の地を、文禄元年(1592)には小県郡塩尻(上田市)の地を充てがわれました。また、北澤清兵衛も昌幸氏から海野(東御市本海野)の地を充てがわれた。その後、文禄3年(1594)に戸隠山代官(長野市戸隠)となり、戸隠神社(長野市戸隠3690)の建立に当たりました。
北澤氏一族は、戦国期に小県郡や長野市付近に移り栄え、江戸期には各地方に帰農して行きました。

〔中世の東信濃〕
信濃国海野庄(長野県東御市本海野)より始まる滋野氏は、鎌倉期には信濃全域(長野県)から上野国吾妻郡(群馬県)に至るまで勢力を伸ばし、滋野支流を名乗る支族が広がりました。海野氏・望月氏・禰津氏は特に「滋野氏三家」と呼ばれ、嫡流またはそれに準じる家柄とされました。
海野氏は、信濃国小県郡や佐久郡を中心に名族として栄えました。
海野氏(大伴氏が土豪化した説や禰津氏の支流説等の他説あり)の傍流は、小県郡真田郷を領し真田氏を称しました。
真田氏は天文10年(1541)の海野平の戦い(天文10年“1541年”に信濃国小県郡で起きた合戦。甲斐国を統一した甲斐守護・武田信虎と、村上義清や諏訪頼重など武田と結んだ信濃国人の連合軍が小県郡へ侵攻し、小県郡を領する滋野一族・海野氏、禰津氏、望月氏、真田氏などとの戦い)で敗れ、真田幸隆氏は上杉憲政家臣・上野国箕輪城(群馬県高崎市箕輪町)の城主・長野業正の下に身を寄せました。上杉氏の援助による旧領奪回が困難になると、信濃侵攻を行っていた甲斐の武田晴信(信玄)に仕えて旧領を回復すると共に、各方面で活躍し、次第に真田氏の勢力基盤が築かれていきました。武田家中においても真田一族は、有力武将として重用され、武田24将に真田信綱・昌輝(幸隆や昌幸が入ることもある)が入りました。
真田氏は、武田氏の滅亡(天正10年“1582”3月)後、北条氏、徳川氏、蒲生氏、豊臣氏等に仕え戦乱の世を生き抜きました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信濃国水内郡牟礼宿について

2013年05月29日 | 日本の歴史、地域の歴史
長野県上水内郡飯綱町大字牟礼を調査し、牟礼宿の歴史がわかりました。
「牟礼」の地名は、江戸初期やそれ以前「牟連井」「む禮い」「室飯」「室井」などと称されていました。
承久3年(1221)島津忠久が、承久の乱の勲功の賞として太田荘地頭に補せられ、牟礼地方はその後中世を通して島津氏一族の支配下にありました。鎌倉期末、島津氏の一族の二人が当地方を別々に支配したらしく、矢筒城主(飯綱町牟礼矢筒字城山)は、戦国期は島津権六郎だったといわれています。戦国期は、上杉氏や武田氏の勢力状況によって、当地を治める島津氏の立場が大きく変わりました。
牟礼宿が発足したのは、慶長16年(1611)9月3日で、それまで矢筒城下にあった表町の集落が、鳥居川と八蛇川に挟まれた谷間の要塞の地に移転しました。第一に水便に恵まれていること(宿場に不可欠の用水が道路の中央に通している)、第二に宿の出入り口に枡形が設けやすいこと(宿場町は成立当初から戦国時代の軍事目的に沿ったものであったから、両端に防御のためのかぎの手“枡形”を設けた)などの理由があったと思われます。慶長15年(1610)9月松平忠輝が、「む禮い町」に宿場条目を出したことから、この頃牟礼宿の町造りが大体完了しつつあったと考えられます。
宿場の機能を果たす本陣・問屋など重要な場所には、近郷近在の名門の家系が立地しました。最初の本陣・小川家は、武田信玄公家臣・大日方美作と記され、現在の上水内郡小川村高府字下末の大日方英雄家から派遣されたものとなっています。小川家は財をなし、“上の酒屋”と呼ばれ、豪農で問屋をも兼ね、持高147石余でした。次に小川家と縁のあった高野家が本陣となり幕末まで続きました。高野家は酒造水車農業を営み、資産は約100石弱を有す豪勢でした。牟礼宿には小川家と高野家の二大勢力が生まれ、宿の運営に甚大な影響を与えました。後に小川家と高野家は対立し、東西に分れ幕末まで続きました。
牟礼宿の家数は、安永6年(1777)121軒、安政5年(1858)166軒で、御伝馬屋敷は両年とも48軒でした。宿の田畑の所有面積が多く農村と変わらない程度ありますが、百姓林が無いことから、本百姓が少なく兼業農家だったことが推測されます。
高持十五石以上の百姓を「大前」といい、それ以下は「小前」といい、無高の百姓を「水呑百姓」と言いました。
参勤交代による北国街道(牟礼村内を通る)は、寛永末期頃(1640年頃)からといわれ、北陸・越後の諸藩の大名が毎年のように通行しました。大量の通行は宿場にとって、乗駕籠や荷物の運搬のための人馬の徴集の負担などは大変でしたが、人馬の旅籠賃、宿泊に伴う宿調達品の買い上げ、荷物運び人足稼ぎ等の駄賃収入、わらじなどの買い替えなど宿場に大きな潤いをもたらしました。牟礼宿の常時人足馬は25人、25疋が原則となっていましたが、とてもこのような大量の徴集には応じきれず、宿内役外屋敷はもちろん、出作、枝村の動員や近村の雇人馬が半数近く必要でした。宿場の人馬継ぎ立ては、当初から役屋敷によって、その間口の広さに応じて勤める軒割(のきわり)でした。しかし、江戸中期以降、通行量の増加、貨幣経済の発展と、宿場内の戸数増加による細分化と貧富の差の拡大によって、相対的に大部分を占める小前層の負担が重くなり、軒割では維持出来ない状況になりました。役屋敷の小前の人達は、負担の公平を求めて、村の全戸がその田、畑、屋敷の持高に応じて宿場勤めをする高割要求が行われた。
弘化4年(1847)3月の大地震は、ほとんどの家屋敷が潰れ、火災も発生する大被害となりました。嘉永5年(1852)の大洪水も、牟礼宿に大きな災害をもたらしました。

日本家系調査会 無料「家系鑑定」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憑依(ひょうい)現象の実際

2013年05月27日 | 家系鑑定とアドバイスなど
最近、お客様から聞いた話ですが、お子様に精神病になってしまい、病院に通うが治らないので、あるお坊様を訪ねて聞いてみると霊の仕業だと言われ、そのお坊様から指導を受けるようになってから徐々に良くなってきたようです。

そのお坊様は、著書も多数あり「精神病は病気ではない」と言われているようです。

どんな本なのか?あまり霊的世界にはまり込むと危険ではないかという心配もあったので、チェックのためにお客様から借りて一冊読んでみました。

読んでみると客観性があり理論的で、著者のインテリジェンスを感じるような正統派の本でした。

そのお坊様と出会う前は、いろいろな宗教に入り、お布施や祈祷、先祖供養などそうとうお金もかけて来られましたが、効果のほどはわからないと言われていました。

お子さんを見ていると、複数の霊が出入りしているようですが、それが先祖の先祖の霊なのか、或いは先祖を恨んでいる他家の霊なのかはわかりません。

そのお坊様の指導を受けて良いほうに向いているのは、その指導が正しいか、或いはお客様が信じきったからだろうと思われます。(良くなると信じることで良い運気を引き寄せる)

こういう話は目に見えない世界なので全く信じない人も多いですが、家系調査を仕事としている私は日常的に良く聞く話です。(家系に関心を持ち調べようと思う人は、こういう話を信じる人が多いのです。)

死んだ人の霊が霊界に行かずに出てくるのは、生きている間に霊界の存在を信じないで「死んだら終わり」と思っていた人です。

死亡した後も自分がこの世に存在していると思っていると言うのです。

ですから、先ず、そのお坊様は、「あなたは死んだのだ。霊界に行きなさい。」と説得するようです。

しかし、簡単でないのは、同時にこの世に大きな未練や執着、恨み等を持っているようです。

このような霊的ハザードに苦しむ人が少なくありません。

日本家系調査会 無料「家系鑑定」





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夢占い 赤ちゃん2

2013年05月25日 | 夢占い、ジンクスなど
今月5月3日にも「夢占い 赤ちゃん」を投稿しましたが、その分の追加です。

赤ちゃんは新しい命、新しい命の誕生ですが、その赤ちゃんが自分自身を意味していることがあります。

それは、新しく生まれ変わることを意味します。

生まれ変わるような体験をするのでしょう。

今までの価値観が崩れ新しい価値観が入るなど、思想的、哲学的刷新を経験するのかも知れません。

或いは仕事等が切り替わることで、第二の人生を出発するなどの意味もあります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結婚運のない人は

2013年05月23日 | 家系鑑定とアドバイスなど
最近、結婚運がないのでは?という質問や問い合わせが多いので、今日は少しそのことに触れておきたいと思います。

先祖からの影響というものを抜きに考えますと、結婚運に限らず、物事がとんとん拍子に行く人、運が良い人は他人への配慮ができる人です。

他人への配慮ができる人は孤独や悪運にはなりにくいでしょう。たとえ運が悪いときでも、それほど悪くはなりません。他人から協力や援助を得られるからです。

そういう人は、常に相手の立場に立って物事を考えるので相手が信頼し、ビジネス等もまとまりやすく、交渉にも成功し、異性関係も発展していきます。

それとは逆に、悪気はないけれど、相手に対する配慮が乏しい人は、気がきかない人、自己中心、姑息な人、一緒に居ても楽しくない、付き合いたくない人という印象を持たれ、せっかくチャンスが来てもものにできません。

本人は悪気はないので、そのことに気付かず、「何故、自分は運がないんだ?」となります。

基本的に、運を良くしようと思ったら、開運方法や先祖供養等と共に先ずは利他愛です。

しかし、この利他愛も、ソンディー心理学を用いたソンディーテストでは二通りあって、ごく身近な人を愛す人と、マザーテレサのように広い人類愛を持つ人です。

どちらが価値があって一方はないという様なものではなく、両方ともバランス良く必要です。

広い人類愛を説くが、私生活、夫婦関係が滅茶苦茶といった博愛主義者や宗教家もいます。それでは身も蓋もありません。

私は、運がないという人に会ってみると、「他人への配慮」ということを先ず感じてしまうことが多くあります。

しかし、どんな人にも運の良いとき、悪いときがあります。

宇宙、自然界にも周期があり、季節にも春夏秋冬があるように、運気にもバイオリズムがあります。

四柱推命は特に、人の生年月日と生時から、その人の運気のリズムを解明した学問です。

人格に問題なくても、たまたま運が悪かったというという人も少なくありません。

特に結婚する適齢期に運が落ちている人はたいへんです。

もう一つは家系の流れ、先祖からの大きな流れです。その流れが繁栄に向かっているのか、安定した流れなのか、今にも枯れそうな流れなのかによって、当然、家系の中の個人に大きく影響を及ぼします。

先祖からの流れは個人の運気に大きく影響を及ぼし、子孫の夫婦観、家族観、異性に対する見つめ方、或いは性格にも及びます。

人はまさに家系の結実、歴史の結実です。

わが家系はどういう家系なのか?

自分の家系の流れを良く知って、長所や課題を理解しておく必要があります。

それが将来の難を避けて人生を歩むためには必要不可欠要素です。

日本家系調査会 無料「家系鑑定」


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夢占い プロポーズ

2013年05月21日 | 夢占い、ジンクスなど
好きな人からのプロポーズの夢は、求婚したい、或いはされたい願望の現われでしょう。

見ず知らずの人や想定外の人へのプロポーズは、生活においての変化が訪れる暗示です。マイナスイメージが強くなければ良いほうに変化するでしょう。

四柱推命占い クリエーション
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夢占い 家系図の夢

2013年05月20日 | 夢占い、ジンクスなど
あるお客様が見た夢ですが、しみの付いたぼろぼろの家系図が出てきて、付いたしみをご本人が一生懸命取っていたようです。

先祖が夢の中に出てきて何かを訴えている、或いは家系図が出てくるのは、先祖が伝えたい、悟って欲しい内容があるからです。

それは供養して欲しいと訴えているわけですから、家系図を作成してみることで、供養しなければならない理由がわかります。

しみが付いてぼろぼろになっている状態は、そのまま家系の状態を表します。

問題の多い家系の先祖が救いを求めて、わかってくれる子孫に出てきたのでしょう。

こういう夢を見る人は供養心がある人です。無い人には出てきません。

あなたがしっかりと供養をしてあげることです。

また、家系図の夢は財産が入り込んでくるという意味もあります。

家系図は相続を意味するので、先祖伝来の土地や財産の相続という意味もあります。

どちらの意味かは判断しにくいですが、二つの意味は関連しあっているので、いずれにせよ供養をしっかりしておいたほうが良いでしょう。

供養をすることで、大きな財産が入り込んでくるかもしれません。

日本家系調査会 無料「家系鑑定」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結婚運がない人には人生の哲学が必要

2013年05月19日 | 家系鑑定とアドバイスなど
「身内の○○さんは結婚運が無いのです。」という相談を良く受けます。

だいたいこういうケースで相談に来る人は本人ではなく、親や身内の方です。

確かに家系図を書いてみると、家系に結婚していない人が他家と比較して多いのが目立ちますが・・・。

ところで、昭和20年代から比較すると、結婚しない男女の比率が3倍前後になっています。

テレビドラマでも「結婚しない男」「結婚しない」などが高い視聴率になっているのは、結婚しないという選択肢が市民権を得た感があるのでしょう。

特に女性の比率が高くなっており、結婚しない理由としては、「結婚しなくてもお金に困らない」「男はめんどうくさい」「結婚したい男がいない」などが多いようです。

こういう人たちは要するに、結婚運が無い人ではなく、結婚しない人なのです。その気がないのです。

本当に結婚したくて困っていれば、親や身内が相談に来られるのではなく、本人が来ます。

もし本人に聞くことができれば、「そりゃぁ、結婚したいですよ。」と言うでしょうが、なにがなんでもという感じではないでしょう。

こんな相談を受けても力が抜けていきそうです。「家系鑑定」どころではありません。

このような家系は結婚や夫婦の愛情関係に問題が多いため、結婚に対するマイナスイメージが多く、少なからず子孫が影響を受けています。

子供の頃から、母親が父親の愚痴をこぼすのを日常的に聞いているなど、原因があります。

このようなマイナスイメージが代々にわたって蓄積されています。

根っこが深いのです。

そもそも人は何故、結婚しなければならないか?何故、夫婦の愛情関係を築くことが大事なのか?

このへんの哲学的なことから話をしてあげなければなりません。

人生に対するしっかりした哲学がないと、なんのために生きているのか、そんなこともわかりません。

目的もなく、いっかりとした設計図もなく物を作るようなものです。ろくなものが出来上がりません。人生も同じです。

なりゆきで生きている人は、結果もなりゆきです。

今は一人で気楽かもしれませんが、老後は寂しいものでしょうね。

日本家系調査会 無料「家系鑑定」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

廿日さん

2013年05月18日 | この名字のルーツは?
「はつか」さんはきわめて稀少な苗字で出自は不詳。現在、大阪府大阪市に見受ける。

廿の付く苗字は多く、廿日出さんは約180人で安芸発祥と言われ出自は不詳。現在、広島県豊田郡豊町に多い。

廿日岩さんは約160人で出自は不詳。現在、北海道に多い。

他に廿日市 はつかいち

廿三日町 にじゅうさんにちまち

廿三日 にじゅうさんにち

廿九日 ひずめ

廿五里 ついへいじ

廿日市市 はつかいちし

廿樂 つずら

廿山 つづやま

廿代町 にじゅうだいまち

廿六木 とどろき

廿代 にじゅうだい

廿枝 はたえだ

廿里 とどり

廿木 はたき

廿軒家 にじつけんや

廿原 つづはら

廿里町 とどりまち

廿六日町 にじゅうろくにちまち

廿治 はたち

廿屋 つづや

廿野 つずの

廿日岩 はつかいわ

廿浦 つつらうら

廿千 はたち

廿楽 つづら

最近、「弐拾」さんという苗字に出会う。出自はまったく不明ですが、もしかすると「廿」との関連かもしれません。

日本家系調査会 無料「家系鑑定」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする