男澤惠一・家系と先祖のBLOG

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

倉賀野氏

2010年08月09日 | 家紋いろいろ
自宅から数キロの距離に倉賀野城跡がある。

高崎市倉賀野町 県道121号上町信号を南へ数百メートル先の突き当たりに公園があり、そこが本丸跡。

小さな公園には碑が建っているが城跡らしさはない。

周りは落ち着いた住宅地で烏川から涼しい風が吹いてくる。

しかし、周りを歩いてみると、城跡を中心に倉賀野神社、八幡神社などがあり、お堀があったと思われる起伏があちこちに見られた。

烏川の向こうは河川敷の高碕市民ゴルフ場。昔、よく練習に行った。

川が大きく直角に曲がる箇所に倉賀野城が建っていたわけで、流れも激しく、当時は現在よりも水量が多く川を越えてまでは攻めて来れなかった。

昔は川を利用した交易が盛んに行われ、倉賀野は河港、宿場町として栄えた。

狭い範囲に久品寺、永泉寺、安楽寺、林西寺など寺が多いことに驚く。

また、浅間山古墳、大鶴巻古墳、小鶴巻古墳など多く存在するところを見ると、昔から多くの人々が住んでいたことがうかがわれる。

ちょっとした歴史スポットです。

家紋は団之内ニ松竹。(私は)これは全くはじめて見る。

倉賀野氏は武蔵七党児玉氏流といわれる。

倉賀野城の歴史は以下の通り、

武蔵児玉党の一派秩父三郎高俊が倉賀野氏を名乗り、その後は上杉憲政幕下の重臣であったが、天文15年(1546)武州川越の夜戦で倉賀野行政が戦死。

その後は倉賀野党十六騎が城を守った。

武田信玄が西上野に進出してくると倉賀野城にも攻め寄せ撃退はしたが、内部分裂もあり永禄8年(1565)ついに落城。信玄は翌年、箕輪城も落した。

その後、信玄は倉賀野城南西方向2.5㎞の高地に 根小屋城を築き北条氏に備えた。

武田氏滅亡後、倉賀野氏は滝川一益に従い、撤退後は北条氏に従った。

そして天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐によって落城。当時の城主倉賀野秀景は小田原に籠城し、小田原城落城直後に死去し倉賀野城の歴史の幕を閉じた。

※以下のホームページが面白く、参考になります。
上州高碕倉賀野巡り

日本家系調査会
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8 コメント

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倉賀野秀景の子孫です (金井レオカ)
2010-08-17 06:50:45
倉賀野秀景を検索していて、このブログに辿り着きました。
私の父は倉賀野秀景(金井淡路守)の直系十七代目にあたる子孫です。
金井家家系図もあります。私は長女ですが…数年前から金井淡路守の事を調べております。いろいろ情報ありましたら、詳しく教えていただけないでしょうか?!
倉賀野秀景の子孫? (金井浩)
2012-07-26 01:29:19
私も金井淡路守の子孫だと聞いています。たぶん金井淡路守の次男で高崎の下小塙町に分家として地所を与えられずっときていると聞いています。昔、調べてもらったので、間違いないと思います。蔵に古文書があるのですが、時間もないし、みてもよく判りません。、
子孫の方へ (金井淡路守)
2014-05-26 15:30:39
久しぶりにこのブログを開きましたら、金井淡路守の次男の子孫の方のコメントがあり、驚きと嬉しく思います

私のところに金井淡路守の史実本がありまして、次男の存在は知りました。
史実本には戦国の大変厳しい領地での、いち大名として生き抜いた金井秀景の武将としての苦悩、凛として壮絶な生きざまが(群馬の歴史小説家の方の書いた多少、金井を美化した内容だったかもしれませんが(笑))書かれてありまして…改めて先祖に敬意と感謝の気持ちを持ち、先祖に恥ずかしくない生き方をせねばと実感いたしました。
ここにお知らせいたします
倉賀野秀景の長男の子孫です (金井 貴志)
2014-09-17 04:50:22
金井淡路守の長男が、倉賀野城の落城後に今自分が住んでいる所に移住しました。長男 掃部のお墓が近くの神社にあります。家系図をたどると、清和天皇にたどり着きます。家のお墓には宗家と刻印あります。自分で17代目です。最近、前橋の鳥羽町の金井家の方が、訪ねてきました。刀の譲渡する古文書や、秀景の肖像画がありました。父が早く他界したのですが、探してみたら情報となる物が残ってました。
金井秀景の先祖は? (金井家)
2014-10-29 01:50:10
はじめまして。
金井家の研究をしています。
倉賀野金井家の家系図では、秀景の先祖はどこまでさかのぼれるのでしょうか?
以前、「上州路」という本で特集が組まれた時には、先祖は新田氏流の金井家の分流だと書いてありましたが、それを裏づける資料が見当たらないのです。
↑の回答です (金井 貴志)
2015-04-10 01:26:37
家の家系図で 先祖をさかのぼると 清和源氏 (清和天皇)が原点です。
分流は、新田義貞(源義貞)の家系図により 倉賀野城主 金井淡路守の父(新田三郎長義)が金井の地名をとり、金井となりました。
上記は、日本家計家紋研究所の発行した、金井一族という限定100部の本に記載されています。 
金井淡路守の子孫です。  (choco)
2019-02-24 23:41:28
秀景と検索し、このブログを拝見しまして嬉しくなりコメントさせていただきます。

父から倉賀野倉賀野とよく聞いていましたが、長い間先祖のことはよく存じませんでした。祖父の先祖がつい何年か前に金井淡路守が先祖にあたるという事を知りどんな方だったのだろうと思いを馳せていました。
苦悩と凛とした武将・・・他にもどんな方だったのかご存知でしょうか。

それと、長い間気になっていることがあるのですがもしご存知でしたらご教授いただけますでしょうか。神奈川県に金井という地名があるのですが、これは金井家に所縁があるところなのでしょうか。
金井淡路守の父である金井信濃守の兄弟の子孫です。 (青木家)
2019-04-02 23:31:30
はじめまして、
私の先祖は、松本右衛門重友といいます。その兄弟には金井信濃守といい、その子は金井淡路守、金井筑前守、英勝三人です。先祖は千葉氏といわれています。遠戚である松本さんが所蔵している家系図をもとに調べています。
最近、私は金井筑前守の子孫である高崎藩の家老・深井家について調べています。もう少し詳しく知りたいです。

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