藤原姓 秀郷氏流
平安時代に武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏を出自とする豪族。久安6年(1150)頃、政光がはじめて下野国賀郡小山(栃木県小山市城山町)に移住して小山氏を名乗りました。政光は源 頼朝の信頼厚く、鎌倉幕府において重用されました。平氏追討戦、文治5年(1189)の奥州合戦にも小山氏兄弟(朝政・宗政・朝光)は参陣し武功をあげました。
朝光は父・小山政光の跡を継ぎ、宗政は長沼氏、朝光は結城氏を名乗り、小山3兄弟はそれぞれ独立した勢力となりました。下野国(栃木県)南部地区の一勢力に発展しました。
南北朝期(1336~92)の小山城主・小山義政は、下野国守護に任ぜられ、小山氏の全盛期を築きました。下野で小山氏と互角の勢力を持つ宇都宮氏との争いの中、鎌倉公方足利氏満が、小山氏追討を諸将に命じ、小山氏の乱(1382~86)が勃発しました。その結果、平安時代から下野国に君臨してきた小山宗家は断絶しました。
同族の結城基光の次男・泰朝が、小山氏を名乗り再興をしました。孫の小山持政の代になると、小山氏は勢力を盛り返し、幕府軍に味方して結城合戦に参戦し、下野守に任ぜられましたが、文明年頃(1470前後)断絶し、一族の山川氏から養子・小山成長が入り家名を存続させました。
天正年頃になると、結城氏・小山氏・那須氏連合と宇都宮氏・佐竹氏・小田氏連合がお互い牽制しあう状況になりました。また上杉氏と北条氏の台頭によって関東地方には大きな転換期が訪れました。北条氏と上杉氏が越相同盟を締結した後、北条氏は着実に勢力を拡大し始めました。下総(千葉県北部)の古河・関宿などの諸城を攻め、ついに小山氏領に侵攻して来ました。天正3年(1575)居城・祇園城を陥落させ、小山秀綱は佐竹義重を頼り逃亡しました。
その後、北条氏は、小山秀綱を一配下になることで小山氏復帰が認められたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐で、北条氏は没落し、結城氏のもとに再興を願いました。江戸期に小山氏は水戸藩士となります。
北群馬郡榛東村の小山氏、館林の小山氏、榛名町の小山氏、伊勢崎市の小山氏などは、藤原姓秀郷流小山氏を祖とし、家紋「二つ巴」を使用しています。天正18年の小田原征伐で北条家の傘下にいた小山氏の一族が分散し、地方に土着したと伝えられています。
日本家系調査会
平安時代に武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏を出自とする豪族。久安6年(1150)頃、政光がはじめて下野国賀郡小山(栃木県小山市城山町)に移住して小山氏を名乗りました。政光は源 頼朝の信頼厚く、鎌倉幕府において重用されました。平氏追討戦、文治5年(1189)の奥州合戦にも小山氏兄弟(朝政・宗政・朝光)は参陣し武功をあげました。
朝光は父・小山政光の跡を継ぎ、宗政は長沼氏、朝光は結城氏を名乗り、小山3兄弟はそれぞれ独立した勢力となりました。下野国(栃木県)南部地区の一勢力に発展しました。
南北朝期(1336~92)の小山城主・小山義政は、下野国守護に任ぜられ、小山氏の全盛期を築きました。下野で小山氏と互角の勢力を持つ宇都宮氏との争いの中、鎌倉公方足利氏満が、小山氏追討を諸将に命じ、小山氏の乱(1382~86)が勃発しました。その結果、平安時代から下野国に君臨してきた小山宗家は断絶しました。
同族の結城基光の次男・泰朝が、小山氏を名乗り再興をしました。孫の小山持政の代になると、小山氏は勢力を盛り返し、幕府軍に味方して結城合戦に参戦し、下野守に任ぜられましたが、文明年頃(1470前後)断絶し、一族の山川氏から養子・小山成長が入り家名を存続させました。
天正年頃になると、結城氏・小山氏・那須氏連合と宇都宮氏・佐竹氏・小田氏連合がお互い牽制しあう状況になりました。また上杉氏と北条氏の台頭によって関東地方には大きな転換期が訪れました。北条氏と上杉氏が越相同盟を締結した後、北条氏は着実に勢力を拡大し始めました。下総(千葉県北部)の古河・関宿などの諸城を攻め、ついに小山氏領に侵攻して来ました。天正3年(1575)居城・祇園城を陥落させ、小山秀綱は佐竹義重を頼り逃亡しました。
その後、北条氏は、小山秀綱を一配下になることで小山氏復帰が認められたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐で、北条氏は没落し、結城氏のもとに再興を願いました。江戸期に小山氏は水戸藩士となります。
北群馬郡榛東村の小山氏、館林の小山氏、榛名町の小山氏、伊勢崎市の小山氏などは、藤原姓秀郷流小山氏を祖とし、家紋「二つ巴」を使用しています。天正18年の小田原征伐で北条家の傘下にいた小山氏の一族が分散し、地方に土着したと伝えられています。
日本家系調査会