男澤惠一・家系と先祖のBLOG

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

金運上昇パワースポット 箱根神社

2010年06月30日 | その他
箱根神社、別名九頭龍神社は、金運上昇のパワースポットして注目されている。

御祭神は、箱根大神(ハコネノオオカミ)様をお祀りし、本年御鎮座1252年を迎えました。箱根大神様とは、御三神の総称で、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)を祀る。


箱根全体が、富士山からの強い龍が走るパワースポットですが、中でも箱根神社は強力!

山のふもとが龍穴あり、山の上にある奥宮がパワースポットと言われている。

起業するとき、新しいことを始めるとき、奮起して頑張りたいときに訪れたいところ。

不景気を箱根神社の金運で吹き飛ばそう!

景色も最高!

日本家系調査会
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温井 姓

2010年06月29日 | この名字のルーツは?
「温井」とは、温かい水が出る井戸。またはその土地。

なんとなくホッとする名字だ。

温井摩耶さんという女優さんがいた。

全国4487番目で、温井姓は約2,400人。

能登国鹿島郡温井邑発祥、出自不詳。ほか甲斐、武蔵、羽前に。現在、関西に多い。群馬県でもお目にかかります。

日本家系調査会
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貫 姓

2010年06月28日 | この名字のルーツは?
大貫、綿貫など貫が付く名字はけっこう多いが、「貫」となると少なくなる。

貫とは道が貫いていることを意味する。

貫姓は全国11224番目で約590人。

豊前国企救郡貫庄発祥、桓武平氏長野氏族。現在、福岡県に多い。

日本家系調査会
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和太 姓

2010年06月27日 | この名字のルーツは?
和太とは「にぎた」または「にきた」と読み、良い田んぼの意味。

47637番目で全国約20人とごく少数の姓。

和泉国大鳥郡和田郷発祥、和太連(中臣氏族)の後裔。

現在、山口県などに存す。

日本家系調査会
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聖将 上杉謙信 家訓

2010年06月26日 | 全国戦国武将
武田信玄との5回に及ぶ合戦の後、謙信は頭を丸める(出家)が、その後も、義のための戦いをせざるを得ない状況は続く。

49歳で亡くなるまでに16か条の家訓を残す。

謙信の遺骸は米沢に移され大切に祀られた。

上杉家訓は受け継がれ、米沢30万石は徳川300年の時代も生きながらえた。

自分の領土の拡大や子孫を残す生存競争に必死だった武田信玄や織田信長は廃れた。

謙信には子はいなかったが、我欲の無かった謙信の意向を受け継いだ上杉家は存続した。

以下がその家訓である。


1. 心に物無きは時は心広く体泰なり:心に余計な事を考えなければ、心は穏やかでいられる。

2. 心に我儘なき時は愛敬失わず:わがままなことをしなければ愛敬は失われない。人としての魅力の事。

3. 心に欲無き時は義理を行ふ:欲深い者は義理堅い行動は出来ない。

4. 心に私なき時は疑うことなし

5. 心に驕りなき時は人を敬ふ

6. 心に誤りなき時は人を畏れず

7. 心に邪見無き時は人を育つる:邪見とはよこしまな考え。

8. 心に貪りなき時は人に諂うことなし:心に貧欲な気持ちがないならば、人に対しおべっかを使う事も無く、謙る必要もない。

9. 心に怒りなき時は言葉和らかなり

10. 心に堪忍ある時は事を調う

11. 心に曇りなき時は心静かなり

12. 心に勇みある時は悔やむことなし

13. 心賤しからざる時は願い好まず:心が貧しくなければ、余分な願いことなどをもたない。

14. 心に孝行ある時は忠節厚し :親に孝行する心があれば、主君に忠節を尽くす心も厚い。

15. 心に自慢なき時は人の善を知り

16. 心に迷いなき時は人を咎めず:心に迷いがなく自分自身が自信を持って下した決断であれば、責任は自分にあり、他人に責任転嫁しようとは思わない。

来月8日に長岡市内にて、男澤惠一・家系繁栄教養講座 「シリーズ1:聖将上杉謙信公」と題して講演会を行います。近くの方は是非、ご参加ください。

日 時:7月8日(木)(8月5日、9月2日の3回シリーズ)
午前10時会場 10時30分開演
会 場:ハイブ 長岡

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聖将 上杉謙信(後)

2010年06月25日 | 全国戦国武将
謙信には、不犯(ふぼん)伝説なるものがある。

不犯とは?生涯、正室、側室を持たず・・・結果的に実子もなかった。

「英雄色を好む」「子宝を残すことが第一」の戦国時代に、なぜ?

そのため男色説、性病説、不能説、なんと女性説など、諸説溢れている。

漫画では謙信が女性という設定で描かれたものもあり、GACKT(ガクト)が謙信を演じたときに髪を長くして「女性謙信」を意識したという。

女性説を唱える人の資料を調べたが、史実的根拠に乏しいと思われる。それは、無いでしょう。

春日山城下にあった大乗院、長海和尚から真言密教の戒律(女犯戒、肉食妻帯戒など)を授かっている。

人格のベースを形成する、14歳までの7年間の少年時代に、仏門に入っていたことの影響は大きいと思われる。

生真面目すぎる謙信は、これをしっかり守っていたのだろうか?

戦に勝つためにも不犯戒を守ろうとしたという説もある。

戦のないときは、毘沙門堂で祈りをささげる日々であったという。

避けられない合戦に明け暮れる人生ならば、自らを「毘沙門天の化身」とし、天意に任せたのだろう。

謙信は死を恐れなかったといわれる。

自分を無くすためにも戦に取り組む謙信の姿は、なんとも悲劇である。

謙信の人生を見ると、「人生とは不本意で不可解なもの」と思えてならない。(続く)

来月8日に長岡市内にて、男澤惠一・家系繁栄教養講座 「シリーズ1:聖将上杉謙信公」と題して講演会を行います。近くの方は是非、ご参加ください。

日 時:7月8日(木)(8月5日、9月2日の3回シリーズ)
午前10時会場 10時30分開演
会 場:ハイブ 長岡


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聖将 上杉謙信

2010年06月24日 | 全国戦国武将
享禄3年1月21日(1530年2月18日)に生れ、天正6年3月13日(1578年4月19日)49才で死去。

虎千代(幼名)→長尾景虎→上杉政虎→輝虎→不識庵謙信 と改名している。

父:長尾為景、母:青岩院(虎御前)養父:長尾晴景、上杉憲政

越後の虎、越後の龍、聖将、軍神と呼ばれた。

戒名:不識院殿真光謙信

家紋:長尾氏の「九曜巴」から上杉氏の「竹に飛び雀」に。

榎木孝明さん演じる「天と地と」の上杉謙信が強く心に焼きついている。

略奪、領土争い、欲望ギラギラの下克上の戦国時代に異色の存在だった。

謙信は7歳から14歳まで修行僧として仏門に入る。

兄景が病弱だったため、やむを得ず代わりに武将としての道に入る。

27歳時に出家騒動を起こしていることから、武将には向かない性格と思われ、不本意で自家撞着な人生だったと推察される。

頼まれたら断れない性格・・・武田信玄が勝頼に「謙信は頼むといえば、決して断わるようなことをせず、きっと力を貸してくれる」と遺言していたという。

宿敵だった謙信の、私利私欲のない生き方、純粋な姿に最後には信玄も影響されたのだろう。

謙信は大酒呑みでも知られているが、けっして越後の寒い気候のせいだけではない。

自らの宗教的信条と、義の為の戦いとはいえ、相反する合戦に明け暮れる現実とのギャップに苦しんでいたのではないだろうか?

「殺傷戒」を犯すうしろめたさを酒で紛らせていたに違いない。

現実は一生を血生臭い合戦に明け暮れた。

戦の天才であったが、領土を増やしていない。治世の力量はなかった。

私利私欲や天下を取る為の戦いではなく、義のため、正義のための戦いであった。

まさに保守派で新しい時代を創造する発想は無かったようだ。

旧時代の秩序回復に必死だった。(続く)

日本家系調査会

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徳川秀忠

2010年06月23日 | 全国戦国武将
秀忠の兄、徳川信康は英邁の資質を持っていたと伝えられ家康の期待も大きかったが、信長の娘である妻・徳姫の訴えで母の築山殿とともに武田家内通の濡れ衣を着せられ、信長の命により遠江二俣城で切腹させられた。また築山殿は家康の命により遠江富塚で家臣に殺されたという。

法名は「騰雲院殿隆厳長越大居士」。

切腹は家康が信長に要求された為というより、家康と信康の対立が原因という説が唱えられるようになった。 (また、死んだのは替え玉であるという生存説もある。)

徳川秀忠は天正7年4月7日(1579年5月2日)~死没 寛永9年1月24日(1632年3月14日)

秀忠は秀忠や家康と比較され、「凡将」と評された。

家督継承者の立場に立った後も、関が原の合戦に遅参するなどの失策が見られ、そのため、将軍職を継いでからも家康の指示を受け続ける。家紋の三つ葉葵紋は継承。

しかし、家康死後も徳川の家風を守り、確実に嫡子家光への将軍継承を果たした。変えないことも大きな実績だろう。

戒名は「台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士」。


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小西行長

2010年06月22日 | 全国戦国武将
小西行長(こにし ゆきなが)は安土桃山時代の大名。

弘治元年(1555年)~慶長5年10月1日(1600年11月6日)

もとは堺の商人だった。そのためか墓所は(岐阜県垂井町の禅幢寺と、)大阪府堺市南区堺公園墓地内にも供養塔がある。

キリシタン大名として知られる。洗礼名はアウグスティヌス(アゴスチノ)。

主君は宇喜多直家→豊臣秀吉→秀頼。

朝鮮出兵のとき、加藤清正と先陣を争ったことでも有名である。

関ヶ原の戦いで西軍の将として奮戦したが敗北し、キリシタンのために切腹を拒否して斬首された。

家紋は、中結祇園守紋。よく見ると紋の中に巧みに十字架を隠してある。この家紋を用いる前は、擬装を施さないクルス紋を用いていたようだが、秀吉のキリスト禁令を受けての変更と考えられる。祇園守紋は主にキリシタンが用いたようだ。

池田氏や立花氏も祇園守を用いるがキリシタンかどうかは不明。

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過剰な欲望は幸福の敵

2010年06月21日 | 自己啓発と引き寄せ
自己啓発セミナー等の本を読んだり、セミナーに参加すると、ほとんど「思ったことが実現する。富も名声も・・・」というような話しを聞く。

「そうか!願えばいいのか」とばかり、欲をかきすぎると良い結果は実らない。

あげくの果てに「自己啓発セミナーは、たいしたことがない。ダメだ。ウソだ」と結論を出してしまう人がいます。

強欲、過剰な欲望は、幸福の敵である。また、嫉妬は成功の敵である。これらは自滅に導く感情だ。

人はほとんど、他人の優位に立ちたいと思う。そのこと自体は決して悪いことではない。

しかし、動機が自分さえよければという強欲が主体に立ってしまうと、悪意、敵意、利己心、不正直につながる。

これは、マイナス思考である。マイナス動機でよい結果が実るはずもない。

ただ「儲かりたい」「結果を出したい」「良くなりたい」と願うのではなく、「他人の役に立ちたい」「喜んでもらいたい」「幸福にしてあげたい」という考えを動機とすれば、同じことをやっても結果は全く違ってくる。

強欲に結果を願わなくても、宇宙の法則が働かないはずがあろうか。

日本家系調査会

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