男澤惠一・家系と先祖のBLOG

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

浄土真宗 本願寺派のお仏具の飾り方

2009年06月30日 | 仏壇の知識
浄土真宗系は金仏壇になります。
ご本尊は、阿弥陀如来様の立像で、絵像が一般的です。
その両脇の向かって右側に親鸞聖人の絵像、左側に蓮如上人の絵像をお祀りします。

日本家系調査会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心の充電癒しの霊場案内:那須三十三所観音霊場

2009年06月29日 | その他
およそ三百年前の天保二年、下野・白河の観音百堂を巡拝し、寺堂ごとに歌を献じた巡拝記「下野・陸奥百観音巡礼記」(大金重貞記)がある。それは、東三十四、南三十三、西三十三観音の三コース、合わせて百寺堂(霊場)である。

 後に東三十四霊場の内、主な寺堂、その他、雨、西霊場から選び合わされ、那須三十三観音霊場が組織された。 大正、昭和初期までは、これら百観音、三十三観音巡拝は盛んであったが、時の変遷とともに衰退してまった。

 しばし時が過ぎ、十数年前、大いなる観音力により、以前のそれらを基とし、那須郡十市町村にわたる三十三ケ寺の結縁あって、現在の「那須三十三観音霊場」が再興された。

 上古代遺跡、那須連山、那珂川、そして那須野ヶ原の大自然こ抱かれたこの地こそ「観音霊場」の姿そのものである。

 観音さまは「人の音(ことば)と心を観じて苦労を解脱せしめる仏様」である。 巡拝することにより、観音さまのお導きをいただき、あなたご自身の、まことの宝をもとめて下さることを祈ります。

三十三番札所馬頭院住職 高野 雅文
http://www.nasu33.com/

写真:那須三十三所観音霊場 第23番札所 関東九十一御薬師霊場 第62番札所 東国花の寺百ヶ寺 写真でも解るようにここは大きな天狗のお面があるそうです。

日本家系調査会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏像ブーム3:慈悲と知恵の象徴、阿弥陀如来

2009年06月28日 | その他
 「阿弥陀如来」は四十八願をかけて厳しい修行をされた末、悟りを開いて如来になられた仏さんで我が国では一番多く礼拝されております。「極楽」と言えば阿弥陀如来が居られる浄土のことですがキリスト教の「天国」に対して我が国では極楽と言われるくらいポピュラーな言葉となっております。

 どんな悪行をした者でも「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土に往生できる、との考え方を浄土信仰といいます。末法の時代に入ったとされ世の中に不安が広まった平安時代に日本でも浄土信仰が発展し、それが根付いた。現在でも阿弥陀如来は浄土宗、浄土真宗の本尊となっています。浄土系の宗派は阿弥陀如来一尊ですがしかし、逆に阿弥陀如来といえば浄土系だけではなく色んな宗派でも尊崇されております。

ちなみに、あみだくじの「あみだ」は、阿弥陀如来に由来しています。あみだくじは、室町時代から行われていましたが、今日のくじと違い、真ん中から外に向かって放射線状に人数分の線を書いて、それを引いたものでした。そして、これが阿弥陀仏の後光に似ていた事から、この名がつきました。今日のあみだくじとは違っていますが、名は今でも継承されています。


日本家系調査会


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飛鳥馬姓

2009年06月27日 | この名字のルーツは?
なんて読むんでしょうか?

「とぶとりうま」ではありません。

これで「あずま」さん。

出自は不明です。

アズは崖、マは間で、崖地に住んでいた人たち。

日本家系調査会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浄土真宗 大谷派のお仏具の飾り方

2009年06月26日 | 仏壇の知識
浄土真宗系は金仏壇です。
ご本尊は、阿弥陀如来様の立像ですが、絵像様が一般的です。
その両脇の向かって右側に“帰命尽十方無碍光如来”の十字名号、
左側に“南無不可思議光如来の九字名号を祀ります。

日本家系調査会

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主な宗派の開祖・本山

2009年06月25日 | 仏壇の知識
天台宗 最澄(伝教大師) 比叡山・延暦寺

真言宗 空海(弘法大師) 高野山・金剛峰寺

浄土宗 源空(法然上人) 京都・知恩院

浄土真宗
(本願寺派)親鸞聖人(見真大師)京都・西本願寺

浄土真宗
(大谷派)十二世今日如 京都・東本願寺

臨済宗 栄西 京都・妙心寺
京都・南禅寺
鎌倉・建長寺
鎌倉・円覚寺

曹洞宗 道元(承陽大師)
蛍山(常済大師) 越前・永平寺
鶴見・総持寺

日蓮宗 日蓮上人 身延山・久遠寺

時宗 智真(一遍上人) 藤沢・清浄光寺

黄檗宗 隠元 京都・萬福寺

日本家系調査会

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏壇の種類・各部名称

2009年06月24日 | 仏壇の知識
1.仏壇の種類
仏壇はその材質によって金仏壇、唐木仏壇、新仏壇に分けられます。金仏壇は西日本中心に、唐木仏壇は宗派を問わず関東地方で多く用いられます。
●金仏壇
金仏壇は、桧や杉の白木に漆を塗り、金箔を押したもの。室町時代に浄土真宗の蓮如上人が仏壇の安置を説き、極楽浄土の象徴として普及しました。
●唐木仏壇
東南アジアで産出される黒檀・紫檀をはじめ、けやき・桜・鉄刀木(たがやさん)・桑・ 桐などの高級木を用いた仏壇。唐木は木目が美しく、風格のある素材として知られている。
●新仏壇
プラスチックなどの新素材を用いた仏壇。最近ではマンションや洋風住宅に合わせた近代 的な仏壇も販売されている。
2.仏壇の名称
→写真参照
3.仏具の役割と謂れ
●茶湯器
茶や湯または水を入れる容器。水は生命の根源であり、あらゆる生物を生かす「布施」の行にあたります。(浄土真宗では茶・水を供えません)
●燭台
一般的に燈明は2つで、対に飾ります。2本のローソクは暗黒の世界を慈悲の光で照らし、煩悩の闇を智慧の燈明で抜け、お釈迦さまの教え「法を燈とせよ、自らを燈とせよ」の2燈を表しています。
●花立て
花は風雪に耐え、人目のつかないところでも美しく花を咲かせ、実を結びます。六波羅密の「忍辱」の行にあたります。
●香炉
焼香のとき香を焚く器。焼香は六波羅密「精進」の行に相当する供養で、煩悩や執着を離れ、人のために働く仏道精進を誓うものです。
●仏飯器
ご飯を仏さまに伝える容器。お釈迦さま葉5年間の断食の苦行やめ村娘(スジャーターの捧げる乳粥をすすって体調を整えた後、深い禅定に入りました。飯食(ぼんじき)との食事のことで、「禅定」の行と同じとされ、報恩感謝の表れとされています。
●高杯
お菓子や果物などを供える器。三角に折った半紙の上に、季節ごとの初物を仏に供え、豊 かな実りに感謝しましょう。
●リン
お勤めのはじめやお経の区切りに打つもの。普通は二つ打ち鳴らすことになっています。はじめは軽く打ちますが、これは仏への慈悲をねがうものです。二つ目はやや強く打ちますが、自分自信の信仰と私への帰依の誓い、仏の心を一つにすると言われています。
●木魚
お経の調子を調えるために使います。魚は夜も目を開けているところから、怠惰や惰眠を覚えますという意味もあります。
●打敷
仏前に飾られる敷物です法事やお盆、お彼岸、お祝いごとなどに用います。
●その他
このほか、香を入れる香合、線香差し、常花、灯篭、経机などがあります。


日本家系調査会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橘氏

2009年06月23日 | この名字のルーツは?
橘(たちばな)氏は、古代日本に活躍した氏族。和銅元年(708年)、県犬養宿禰三千代が元明天皇から橘宿禰(たちばなのすくね)の氏姓を賜ったことを淵源とする。その子、葛城王が橘諸兄へ改名した後、諸兄の子孫は橘氏を称した。諸兄は、はじめ橘宿禰の姓を受け、その後、橘朝臣の姓を賜与された。平安時代に入ると、橘氏の多くは橘朝臣を称した。

いわゆる四姓、源平藤橘の一つであり、平安時代中期まで代々公卿を輩出したが、その後は橘氏公卿が絶え、以後振るわなかった。

橘氏の実質上の祖は県犬養宿禰三千代とされている。三千代は天武朝から命婦として仕え、文武天皇の乳母をつとめたともされ、後宮の実力者として皇室と深い関係にあった。三千代ははじめ美努王の妻となり、葛城王や佐為王を生んだ。694年に美努王が大宰帥として九州へ赴任すると、代わって藤原不比等の夫人となり、藤原光明子(光明皇后)らを生んだ。和銅元年11月25日、元明天皇の大嘗祭に際して、天武天皇治世期から永く仕えてきた三千代の功績が称えられ、橘の浮かんだ杯とともに橘宿禰の氏姓が賜与された。

三千代が天平5年(733年)に没すると、同8年11月11日に三千代の子の葛城王と佐為王が橘宿禰の氏姓継承を朝廷へ申請し、同月17日に許された。葛城王は橘諸兄へ改名し、佐為王は橘佐為を称した。諸兄は既に天平3年から参議に就いて議政官(公卿)を勤めていたが、天平9年には大納言へのぼると、翌10年には右大臣へ、同15年には左大臣へ昇進し、聖武・孝謙両天皇の治世期に太政官首班として政治に当たった。天平勝宝2年(750年)正月16日には朝臣の姓を賜り、これ以降、諸兄は橘朝臣と称した。

橘氏の歴史の中で最も権勢を誇ったのがこの諸兄の時期である。諸兄が天平勝宝9歳正月に薨去すると、その子橘奈良麻呂は、藤原仲麻呂との政権争いに敗れ、同年7月に謀叛の疑いをかけられ獄死した(橘奈良麻呂の乱)。

その後、しばらく橘氏が議政官(公卿)に名を連ねることはなかったが、奈良麻呂孫の橘嘉智子(檀林皇后)が嵯峨天皇皇后となると、状況は一変した。当時、皇后を輩出した臣下氏族は藤原氏のみであり、橘氏からの立后は貴族社会における橘氏の地位を上昇させた。弘仁13年(822年)に橘常主(奈良麻呂孫)が約70年ぶりの橘氏公卿となり、さらに嘉智子出生の皇子が仁明天皇として即位すると、嘉智子の兄橘氏公が外戚として目覚ましい昇進をとげ、承和11年(844年)には右大臣に至った。一方で、橘氏傍系の橘逸勢(奈良麻呂孫)が承和の変により排斥される事件も発生したが、嘉智子が健在の時期に橘氏は総じて勢力を大きく伸長している。橘氏の子弟教育を行う大学別曹学館院は、嘉智子により設立されたものである。

9世紀半ば - 10世紀後半の時期の橘氏公卿は、橘峰継(氏公長男)、橘広相(奈良麻呂5代の孫)、橘澄清(常主曾孫)、橘良殖(常主孫)、橘公頼(広相6男)、橘好古(広相孫)、橘恒平(良殖孫)ら7名にのぼった。その多くは参議または中納言どまりであったが、好古は大納言まで昇進した。永観元年(983年)に参議在任3日で没した恒平を最後として橘氏公卿は絶えた。

以降、橘氏は受領クラスの中下流貴族となり、中には地方に土着する者も現れた。例えば藤原純友の鎮圧のために大宰権帥として九州へ下向した参議橘公頼の子孫は、そのまま筑後に土着して武士となり、筑後橘氏を称したとされている。

中央では好古の孫にあたる則隆の子孫が嫡流として続き、中世にはこの系統から橘氏唯一の堂上家で、代々橘氏長者となった薄家を輩出した。しかし、薄家も山科言継の子で薄家に養子入りした諸光(以継)の死により16世紀後半に断絶した。

その後、江戸時代に地下家として、外記方の青山家(中務省史生)・深井家(賛者)、官方の和田家(弁侍)などが橘姓を称し、中でも深井家は薄家の直系(祖の定基を以継の子とする)とされている。また、江戸時代後期の学者である頼山陽は薄家の庶流の末裔といわれている。


日本家系調査会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころの充電癒しの霊場案内:武蔵野三十三観音霊場

2009年06月22日 | その他
写真は、武蔵野三十三観音霊場第19番、入間市・法栄山遍照院東光寺
武蔵野三十三観音霊場は、昭和15年開創の比較的新しい霊場です。
近年武蔵野三十三観音霊場会が再結成され、観音信仰に命の救済を求める人々への
一環として、本サイトが開設されました。

人生にはさまざまな喜怒哀楽があり、好不調があります。
その折々に、武蔵野三十三観音霊場を参詣されることができれば幸いに存じます。

http://www.musashino-kannon.com/index.htm

日本家系調査会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏像ブーム2:理想的人間としての釈迦如来像

2009年06月21日 | その他
仏像ブームで、最近はつげや白檀などの仏像が、ご本尊としてではなく、置物として売れているようです。人はなぜ仏像を求めるのだろうか?

上座部仏教における釈迦牟尼仏
上座部仏教(いわゆる小乗仏教)では、釈迦牟尼仏は現世における唯一の仏とみなされている。最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢(アラカン 如来十号の一)と呼ばれ、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられた。

造形化された釈迦如来
釈迦如来を表す梵字釈迦如来は、インド以来、広く仏教の流布した地域で造像されるようになった。その中心は、実在の釈迦の伝記としての仏伝を絵解き風に造形化したもの、あるいは、その一場面を単独で造像したものなどであった。

日本では、誕生像 苦行像 降魔像 説法像 涅槃像
などとして造像が行なわれた。なかでも説法像が一番一般的な造形であり、説法印などによって、釈迦が法を説く姿を表現している。

作例としては、奈良の法隆寺金堂、京都の蟹満寺の銅像、奈良の室生寺金堂、京都の大報恩寺の木像などが著名である。また、京都清凉寺の瑞像を模した清凉寺式釈迦如来も広範に流布している形式である。

釈迦三尊として祭壇に置かれる場合が多い。脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩が多い。法華宗・日蓮宗では三宝尊(一塔両尊)の形式がとられることが多い。これは中心が題目の書かれた多宝塔(宝塔)で両脇に釈迦如来と多宝如来が祭祀者から見て左右に並び、その下に僧としての日蓮像がある。

日本家系調査会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする