男澤惠一・家系と先祖のBLOG

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

2024年3月号特集:日本人はどこから来たか?

2024年02月28日 | 日本の歴史、地域の歴史
YAP遺伝子の分布
日本人はどこから来たのか?いつも話題になります。「もともと日本文化などというものはなく、中国や朝鮮から伝わった。」と教え込まれてきました。ほんとうにそうでしょうか?
日本語は他に類を見ない謎の言語と言われていること、父親から息子に受け継がれるYAP遺伝子も、中国や東アジアの人々にはない特徴が有り、一部の中東地域(イスラエルなど)、一部のチベット人と日本人だけが持つようです。
この地図は縄文人的特徴を持つ人々と渡来系(中国や朝鮮半島等からの渡来)の特徴を持つ人々の分布地図です。北海道は中間的、平均的で関東地方の分布と同様に見えます。また、アイヌの人のデータは入っていないと思われます。
 いままで渡来人は九州北部に上陸したと学んできましたが、このデータを見ると全く違った傾向です。九州は全体的に縄文系に近いです。
渡来系の人たちの人口増加は関西や四国に移動してから成されたのかも知れません。人口密度の多かった関西を中心に広がりを見せています。もともと居た縄文系は関東以北と九州地方や離島に残ったと思われ、人の移動が多い地域は混ざり合っていったと考えられます。(各県50人から調べたと書かれていますので、参考程度ですね。)
縄文時代は1万年を超える(16,000年という説がある)と言われ、戦が無かった平和な時代と言われ、渡来系の人々が入ってから、日本も戦や争いが多くなったと考えられています。
ちなみに日本人の持つ縄文系のYAP遺伝子は、ヒトのために尽くすのを喜び、がんや放射能にも強いと言われています。

日本旧石器時代は世界最古
 今まで日本は、旧石器時代は無かったと考えられ、縄文時代以前は誰も住んでいなかったということになっていました。
ところが昭和21年(1946年)に相沢忠洋氏が、群馬県みどり市の岩宿で発掘をしていたら、関東ローム層の中から磨製石器を発見し、今から35,000年前と推定されました。その後も次から次へと磨製石器が発見され、一番古いものは38,000年前とされました。これはなんと、世界最古です。
世界では約10,000年前から磨製石器が使われたというのが常識です。古いと言われているオーストリアで26,000年前、中国大陸では15,000年前です。朝鮮半島においては7000年前からと言われています。
もしかすると人類文明発祥は日本ではないだろうか?(なにをもって文明とするかはそれぞれの判断ですが)
 磨製石器の前は打製石器があり、石を砕いて作った石器で、打製石器は偶然にサルが作ったものもあるようです。しかし、磨製石器は絶対、サルには作れません。手の指の構造が違うからです。道具を作れるということはそれだけの知能が有ったからです。
 四大河川から出た四大文明や、日本文化は中国や朝鮮半島から来たという学説が多いですが、それらは疑問視しなければなりません。新しい所から古い所に流れるわけが有りません。水は高い所から低い所に流れると一緒です。人類最古の釣り針は沖縄で発見され、今から23,000年前のものでした。当然、世界最古です。考古学の技術的発展、DNAやゲノム解析が進む中、いろいろな真実が明らかになっています。教科書を書き換えなければなりません。
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決着つかない邪馬台国論争

2024年02月16日 | 日本の歴史、地域の歴史
 魏志倭人伝に邪馬台国と書かれていると云われているし、女王卑弥呼が統治していたなどと教科書にも書かれている。本当だろうか?実際には「邪馬壹國」と書かれている。
 それをある歴史学者が壹を臺の間違いだろうとして、邪馬台国にしてしまった。たしかに似ている字ではあるが、壹は壱であり(現代では)一である。臺は台である。あきらかに違っている。つまり邪馬一国が正しいことになる。
 また邪馬台国はどこに有ったか?などと150年も論争していますが、いまだに不明のままです。書かれている距離をまともに捉えると、フィリピン辺りに行ってしまいます。
 これは、大国から挨拶に来たとか、とてつもなく遠方から訪れたと言いたいわけです。つまり国の力を誇示するため大袈裟に表現している可能性が有ります。1000里は100里くらいだと思ったほうが良いわけです。
 また、国がどこに有るかという情報は、正確な地図が無かった当時では重要な軍事機密です。いつ攻めて来られるかわからない訳で、そのような重要な事をその通り書くはずがないと考えます。
 またこれらの事は日本の古文書には一切書かれておらず、邪馬台国を証明することもできません。それなのに(夢見る)邪馬台国だけがひとり歩きしています。
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日本旧石器時代は世界最古

2024年02月16日 | 日本の歴史、地域の歴史
 今まで日本は旧石器時代は無かったと考えられ、縄文時代以前は誰も住んでいなかったということになっていました。ところが昭和21年(1946年)に相沢忠洋氏が、群馬県みどり市の岩宿で発掘をしていたら、関東ローム層の中から磨製石器を発見し、今から35,000年前と推定されました。その後も次から次へと磨製石器が発見され、一番古いものは38,000年前とされました。これはなんと、世界最古です。
 世界では約10,000年前から磨製石器が使われたというのが常識です。古いと言われているオーストリアで26,000年前、中国大陸では15,000年前です。朝鮮半島においては7000年前からと言われています。もしかすると人類文明発祥は日本ではないだろうか?(なにをもって文明とするかはそれぞれの判断だが)
 磨製石器の前は打製石器があり、石を砕いて作った石器で、打製石器は偶然にサルが作ったものもあるようです。しかし、磨製石器は絶対、サルには作れません。手の指の構造が違うからです。道具を作れるということはそれだけの知能が有ったからです。
 中国や朝鮮半島から来たという学説が多いですが、それらは疑問視しなければなりません。新しい所から古い所に流れるわけが有りません。水は高い所から低い所に流れると一緒です。人類最古の釣り針は沖縄で発見され、今から23,000年前のものでした。当然、世界最古です。考古学の技術的発展、DNAやゲノム解析が進む中、いろいろな真実が明らかになっています。教科書を書き換えなければなりません。
 
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日本人はどこから来たか?

2024年02月16日 | 日本の歴史、地域の歴史
 日本人はどこから来たのか?いつも話題になります。「もともと日本文化などというものはなく、中国や朝鮮から伝わった。」と教え込まれてきました。ほんとうにそうでしょうか?
 日本語は他に類を見ない謎の言語と言われていること、父親から息子に受け継がれるYAP遺伝子も、中国や東アジアの人々にはない特徴が有り、一部の中東地域(イスラエルなど)、一部のチベット人と日本人だけが持つようです。
 この地図は縄文人的特徴を持つ人々と渡来系(中国や朝鮮半島等からの渡来)の特徴を持つ人々の分布地図です。北海道は中間的で関東地方の分布と近く見えますが、これはアイヌの人のデータは入っていないと思われます。
 これを見ると、渡来人は九州北部に上陸したと学んできましたが、このデータを見ると全く違った傾向です。九州は全体的に縄文系に近いです。渡来系の人たちの人口増加は関西や四国に移動してからなされたのかも知れません。人口密度の多かった関西を中心に広がりを見せています。もともと居た縄文系は関東以北と九州地方や離島に残ったと思われ、人の移動が多い地域は混ざり合っていったと考えられます。(各県50人から調べたと書かれていますので、参考程度ですね。)
 縄文時代は1万年を超える(16000年という説がある)と言われ、戦が無かった平和な時代と言われ、渡来系の人々が入ってから、日本も戦や争いが多くなったと考えられています。ちなみに日本人の持つ縄文系のYAP遺伝子は、ヒトのために尽くすのを喜び、がんや放射能にも強いと言われています。
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分限帳に出てくる役職名

2023年07月14日 | 日本の歴史、地域の歴史
江戸時代に大名家家臣の名や禄高、地位、役職などを記した帳面を分限帳といいます。身分、役職はほぼ下記のようになっています。
御一門家:藩主の正室に生まれた男子。藩主の一族として特別の待遇を与えられた家柄。
寄合衆:藩の大切な政務に参与する家柄。家老はこの家から選ばれる。
騎馬:外出、行列、戦に乗馬できる身分。
中小姓ちゅうごしょう:騎馬につぐ家柄。ほとんどが城下に住んだ。
歩行かち:中小姓につぐ家柄で、城下や外城に住んだ。
足軽:小者と呼ばれ、戦時の食料運搬、戦死傷者の始末、罪人の逮捕護送その他の雑務に従事した。
その他:士分の待遇を受ける者に、医師、茶道家、大工、神官、山伏、舟頭、鍛冶等がある。
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渋沢姓

2023年07月13日 | 日本の歴史、地域の歴史
最近、母方が渋沢家というお客様にお会いしました。
渋沢姓は群馬県と埼玉県に集住しています。清和源氏(甲斐源氏)逸見氏流がルーツといわれ、甲斐国北巨摩郡渋沢村が発祥地です。武蔵国榛沢郡血洗島(埼玉県)の渋沢栄一が著名です。
「澁澤 榮一」は1840年3月16日(天保11年2月13日)~ 1931年(昭和6年)11月11日。家紋は丸に違い柏。戒名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。日本の豪農出身の武士、官僚、実業家、慈善家。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。
日本近代化の父。論語とそろばん。日本的倫理の発信者。
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日本の地名 軽井沢

2023年07月12日 | 日本の歴史、地域の歴史
 遠く県外からお越しになったお客様を、ホテルを予約していた軽井沢にお送りした。今日はレンタカーでお嬢さんと一緒に河口湖に向かっているころでしょう。
 軽井沢は日光と並び昔から避暑地として有名な観光地として知られ、ショー宣教師が教会を作ったことからキリスト教的避暑地のようなイメージが有り、これも日光と似ている。軽井沢は五街道の一つである中山道に軽井沢宿という宿場町があった。明治時代には軽井沢駅ができ、大正時代に軽井沢町という地名になったといいます。地名由来は浅間の噴火で軽石が多い地域なので軽石沢が軽井沢になったというが諸説ある。「かるいざわ」で知られているが、群馬の老人の方々は「かるいさわ」と呼ぶので、ほぼほぼ「かるいさわ」で通っている。写真は大好きでいつも行ってる雲場池。
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日本の地名 岩村田

2023年07月11日 | 日本の歴史、地域の歴史
長野県佐久市に岩村田という地名があります。地名の由来については文献等は残っていませんが、イワムラとは岩が群れるという意味があり、そこに田んぼが付いています。岩村田宿は、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十二番目の宿場でした。当時、岩村田藩1万5千石の城下町であり商業の町でしたが、宿場としては本陣が無く旅籠も最盛期で8軒と少なかったようです。岩村田宿内の戸数は350軒でした。街の中央にはさびれた昭和の雰囲気の岩村田商店街があります。東部、鼻顔稲荷神社とは湯川を挟んで対岸に位置していた地域は岩村田遊郭がありました。
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日本の地名 高崎

2023年07月06日 | 日本の歴史、地域の歴史
群馬県高崎市に住んでいますが、高崎の地名は地形とは関係なく、慶長三年(1598年)に井伊直政が城名を高崎城と命名しただけの話しです。

高崎と言うと大分県大分市の高崎山とよく間違われますが、あちらは高い山尾根の突出した地をいう意味があります。

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「先祖を知れば未来が見える」改訂増補版 男澤惠一著
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篠塚城

2023年07月05日 | 日本の歴史、地域の歴史
今日は篠塚さんという人に会いました。新田家臣はご本人も知っていました。
篠塚城がありました。
所在地:群馬県邑楽郡邑楽町大字篠塚 八幡神社
主要城主:篠塚氏
元亨年間(1321~1324)に、新田義貞の四天王の一人・篠塚重広が築いた城です。遺構はほとんど残っていません。八幡神社に大手門があったといわれています。
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