(神奈川県平塚市西真土)
昭和10年(1935)三角縁神獣鏡や管玉、銅鏃等が住民により発見され、発掘調査が行われた。昭和35年(1960)発掘時には粘土槨から変形四獣鏡、巴型銅器、玉類等が出土したが、間もなく古墳は破壊され、古墳の規模は分かっていない。平成8年(1996)古墳跡北西に西真土公園が開設され、真土大塚古墳の墳丘が再現されている。
(東京都千代田区大手町 都指定史跡)
天慶三年(940)関東八国府を攻撃し、国司を追放した将門の乱。将門は新皇を名乗ったため朝廷から反逆者とみなされ、下総国猿島郡石井郷(茨城県坂東市岩井)において藤原秀郷、平貞盛らによって将門は討伐された。将門の首は京の都大路で晒されたが、首を繋げて再戦したいと叫びながら武蔵国豊嶋郡芝崎村(大手町)に飛来してきたと伝わる。以後、村では疫病が流行した。首塚は神田明神の別当である天台宗日輪寺が管理したが、徳治二年(1307)他阿真教が供養したことにより疫病は治まり、日輪寺は時宗に改められた。
(神奈川県鎌倉市山ノ内 2016年3月30日)
明月院の背後には大小のやぐらと釈迦如来、多宝如来、十六羅漢が彫られたやぐらがある。平治の乱(1159)で討死した山内首藤俊通の菩提を弔うため、子の経俊が明月庵とやぐらを造り、後の明月院を創建した山内上杉憲方の墓が建てられたと伝わる。
(神奈川県鎌倉市山ノ内 2016年3月30日)
明月院の境内には鎌倉幕府五代執権北条時頼の廟と宝篋印塔がある。康元元年(1256)時頼がこの地に最明寺を建立し、没後は子の時宗によって禅興寺に改められた。禅興寺は明治元年(1868)廃寺となったが、塔頭の明月院が今に至っている。
(熊本県天草市本渡町本戸馬場・船之尾町 2015年5月11日)
寛永十四年(1637)に勃発した対幕府の一揆である天草・島原の乱によって、本戸城跡の一部が戦死したキリシタン達の埋葬場(千人塚)となった。一角にはポルトガル人医師で商人、宣教師であったルイス・デ・アルメイダ(1525-83)の記念碑がある。
(静岡県下田市一丁目 2015年4月27日)
真田幸村に仕えていたという老婆が香煎(麦を炒って粉末にしたもの)を喉に詰まらせ命を落とした。この地に葬られ、その後お参りに訪れた者の喉の病が治ったことから多くの参拝者が訪れるようになり、小堂が建てられたのだという。
(川崎市高津区諏訪)
多摩川の自然堤防上に位置し、墳頂に渡唐天神と刻まれた石像を祀ることから天神塚と呼ばれる。現状直径16m,高さ1.5mであるが、平成17年から20年にかけての発掘調査により、泥岩の切石積による片袖式横穴式石室と周溝、円筒埴輪が確認されており、6世紀後半と推定されている。
(神奈川県鎌倉市由比ガ浜 市指定有形文化財)
鶴岡八幡宮一ノ鳥居の程近くに畠山重保の屋敷跡と宝篋印塔がある。元久元年(1204)源実朝の御台所を迎えるため上洛していた重保は、北条時政の後妻牧ノ方の娘婿平賀朝雅と口論となり、朝雅と牧ノ方はこのことを時政に告げ口した。元久二年(1205)重保は当地にて、父の重忠は二俣川(横浜市旭区)において北条氏によって滅ぼされた。明徳四年(1393)に至り、この宝篋印塔が造立されている。
(京都市中京区壬生梛ノ宮町)
幕末、壬生寺は新撰組の兵法調練場として使われた。そのため後世、新撰組隊士十一名(局長近藤勇、局長芹沢鴨、副長助勤平山五郎、副長助勤阿比原栄三郎、副長助勤野口健司、副長助勤安藤早太郎、勘定方河合耆三郎、伍長奥沢栄助、伍長葛山武八郎、平隊士新田革左右衛門、田中伊織)の末裔らによって境内放生池の中島壬生塚に墓標、供養塔が造立されている。また、同所には壬生官務家の墓塔もある。