flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

岐南 三宅

2007-01-31 00:00:57 | 街道・宿場町

 下印食から三宅の地にさしかかる。
古来、河野嶋の一部、木瀬と呼ばれていた時期があったという。
近世には「御成道」(お成り街道)が村を通り、尾張藩歴代城主が岐阜にお成りに向かうために整備された道といわれている。
 村の西側には正治元年(1199)創建の三宅山浄福寺があり、天台宗から後浄土真宗に改宗した。近くには「親鸞聖人御旧跡」があり、門弟が道場を設け親鸞を招いた地といわれている。戦国時代、兵火に遭うまで存在した道場跡には、親鸞生誕八百年の昭和42年に銅像が建てられ、いわゆる河野門徒の歴史を伝えている。
また、浄福寺南には高富大龍寺末の如意寺があり、円空仏が安置されている。
 旧村の中央には亀の宮と呼ばれる三宅八幡神社が鎮守し、由緒によると天正十六年(1588)創建と伝えられている。ここで奉納されていた文楽(義太夫と人形芝居)は、この地の住人岩田善六が大阪文楽の豊松清十郎を招き、清十郎はこの地で文楽を伝え広めたものという。墓は村の東に建てられている。
また、三宅村の南には延喜式神明帳にされる旧郷社であった石作(いしづくり)神社がある。
          
 三宅を後にし、手力蔵前に向かう。

(河野門徒関連記事:竹鼻 黒田 円城寺

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吉良道 大塚

2007-01-30 00:00:08 | 街道・宿場町
(平坂街道 蒲郡市大塚町)
 宝飯郡旧赤根村から紫川を渡ると、大塚村となる。
私の記憶の中には海水浴場があった光景も残るが、今は埋め立てられラグナマリーナとなった。
大塚には、街道筋に付き物の常夜灯及び秋葉灯篭を高台に塀で囲う習慣があり、東から字中島、西島、勝川、十能の地にその灯篭が立っている。
東大塚には天文十年(1541)に領主岩瀬氏が再建したという素盞鳴神社、西大塚には元和八年(1622)創建の神明社が鎮座している。
 道程は、海岸大塚特有の地形、緩やかなアップダウンを繰り返し、星越峠へと達する。
      
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岐南 下印食

2007-01-29 00:00:03 | 孝霊天皇流族関係記事

 文字通り岐阜市の南に位置し、木曽川を境に愛知県(飛地)と接する羽島郡岐南町。
平成の大合併により、岐阜市となると思われたが、当面は単独の道を選んだ。
現在のところ唯一の駅、名鉄線岐南駅を降りると、そこは旧下印食(しもいんじき)村。
古来、北を流れる境川が木曽川の流れであった頃、この辺りは尾張国葉栗郡であったという。天正時代の木曽川氾濫によって流路が変わり、美濃国に編入され羽栗郡となり、中島郡と併合し羽島郡となったといわれている。先回の合併解消には、様々な理由を耳にするが、過去の地縁による考えもあるのだろうか。
 村鎮守は八剣神社である。参道は東海道線によって分断されている。
境内には「池田輝政鎧かけ松」の史跡があり、輝政勢はこの地で休息した後、岐阜城攻めをしたという。当時からの松は残っていない。
 旧集落の東端には役場がある。
岐南への目的の一つに、羽島地域は我が祖先の足跡がある地ではないかという情報をいただいたことがあり、それにより訪れた。予め習知しているこの地での関連語句に、河野、三宅、村上、宮川、土岐がある。因みに我が家の旧姓は河野である。一つ目の関連史跡、河野専光寺内には元弘三年(1333)吉野攻めの際、村上彦四郎義光は妻の岩根女(いわねじょ)を義光の乳母が住んでいたこの印食の地に置いて出陣していった。そして義光は戦死し、それを知った乳母は身を投げ、妻もこの地で最期を迎えたという、その墓が存在する。また、専光寺付近には印食城という城があり、土岐氏族の仙石次郎左衛門が住していたと伝えられている。
 村上氏は伊予においては河野配下の水軍である。それら事跡を尋ねることもあり、今回はあえて平日を選び教育委員会を訪ねた。
羽島郡は共同で教育委員会を運営する珍しい団体である。旧川島町が各務原市へ、旧柳津町が岐阜市へそれぞれ合併したため、笠松町とニ町となった。この地域の地名に関する歴史書を現在編集されている方が町図書館におられることを紹介していただいたが、休館日であったため後日訪ねることとした。
 岐南町の資料をいただいて下印食の地を後にし、東隣三宅集落へ向かった。
        
(関連記事:御成道伏屋 竹鼻 黒田 円城寺 川手

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小浜ヶ池

2007-01-28 00:00:26 | 水のほとり
(三島市立公園 楽寿園 静岡県三島市 日本の歴史公園100選130番)
 小浜ヶ池は、柿田川と同じ湧水の地であり、富士山三島溶岩流の浸透を経て湧出する池であるが、周辺市街地化、地下水汲み上げ等により水量が著しく低下している。年間通じて一定しない水量だが、この日は水位マイナス2mを超え、溶岩流跡の岩肌が一面に姿を現していた。
 湧水がまだ豊富であった昭和5年(1930)には、ミシマバイカモ(三島梅花藻)がこの池で発見されている。
 小浜ヶ池を源とする川、用水路には源兵衛川があり、水量減少や一時期家庭排水、ゴミ投棄によって環境が悪化したが、湧水保護運動同様市民運動が起こり水辺として復活、三島の街を潤している。
 楽寿園は池の周囲を明治23年、小松宮彰仁親王の別邸庭園として造園したもので、戦後は市に移管され国指定天然記念物に指定された。三島駅前に位置して、周囲にビルが林立し、些か違和感を覚えるが、71,850㎡の敷地内には、郷土資料館、動物園、遊園地等があり、学習観光施設として運営されている。
           

(関連記事:音止滝
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Schooling

2007-01-27 21:00:59 | kourei-ki-日記-
 スクーリング授業が始まった。
この後更に、7教科の課題や単位取得試験が待っている。
社会人が故に、手帳が真っ黒な状態が続く…。
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信濃往還 中村 定池 根古屋

2007-01-27 00:00:14 | 街道・宿場町
(伊那街道 吉田往還 新城市豊島)
 宝飯郡東上から境川を渡った街道は、設楽郡に入ると中村に差し掛かる。
現在、旧道の大半は豊川堤防、河川敷となってしまったが、北寄りに向きを変えるところからの道は現在でも残っている。
街道の西側は中村、東側は定池村であった。
そして道は溜池の定池横を通り、根古屋村野田城下に辿り付き、東へと向きを変える。
(※明治元年に三村は合併し、豊島村となった)
この道筋も、明治中期からの県道改修で、根古屋から段丘下を西へ伸びる道が造られた。
安元元年(1175)信濃往還が設置されてから、永正年間に野田城が築城されるまで、街道は定池村から東進、中市場村、石田村と豊川に近いところを通っていたという。
 
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今夕の ほの山本宮

2007-01-26 22:00:07 | ご近所漫ろ歩き
 冬の ほのくに東三河平野。
遠くに本宮の山、吉祥の山、そして間(あいだ)川。
次第に雲が厚くなり、間もなく雨模様となる今日の夕景である。
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伊豆国分寺

2007-01-26 00:00:43 | ほとけのいおり

 天平時代、聖武天皇の詔によって各地に建立された国分寺の一つ。
戦国時代、北条氏、武田氏の合戦で兵火に遭い焼失した。その後慶長五年(1600)に法華宗蓮行寺として再興するも、安政大地震により倒壊。大正12年に日蓮宗として三度再興し、戦後になって本堂裏の礎石が国分寺の塔跡と断定された後、国分寺と改称された。
 塔の位置から伽藍配置が想定され、現在多くの住宅、道路にわたっていることがわかり、伊豆箱根鉄道線が寺跡中央付近を貫いている。
 その後、範囲確認調査が行われ、天平二町四方(214m四方)、伽藍地が縦天平百間(178m)・横天平八十間(142m)と確認された。
 
(関連記事:三嶋大社 三島宿

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吉良道 下佐脇

2007-01-25 00:00:42 | 街道・宿場町
(平坂街道 御津町)
 東海道吉田宿御油宿の間の小坂井を起点に、幡豆郡吉良(きら)及び平坂(へいさか)港まで通じていた街道。明治12年に県道となり、正式に平坂街道となった。
 現在は幅の広い白川が下佐脇集落の東側を流れるが、昭和8年に移設改修されるまでは幅が狭く、村内中央を蛇行する危険な川であった。故に街道は一度も白川を渡ることなく、隣村へ抜けていく道程であった。
現在でも新白川橋上流から安藤川合流を経て、旧街道筋である音羽川御所橋上流まで旧河道が残されている。
(写真3枚目は街道脇道、旧白川に架かる昭和4年1月築造の夏橋 平成10年10月31日撮影)
     
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三島宿

2007-01-24 00:00:21 | 街道・宿場町
(東海道十一番目 静岡県三島市)
 先回は三嶋大社を訪れたが、今回は清水町の後、三島の宿を訪れた。
東海道であった市街地の広小路、殆ど空襲を受けていないにも関わらず、街道筋の面影や建物は見当たらないが、往時は本陣二軒、脇本陣三軒、旅籠は七十四軒あったという。
四ノ宮川や源兵衛川、宮さんの川といった小浜ヶ池等の湧水を源とする川が街道を横切る。
一つ北側の路地(最後の写真二枚)が、東海道の前身である鎌倉街道だといわれ、隣接するところに伊豆国分寺が存在していた。
     
(関連記事:沼津宿
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冬の県都

2007-01-23 21:00:16 | kourei-ki-日記-
 先日「没後25年谷内六郎の軌跡‐その人と仕事‐」を観覧した。
週刊誌の表紙として連載されてきた絵。
一枚の素朴な絵の中には、子どもの目線と大人に対するメッセージが含まれている。

 この日はゆっくりとウィンドウショッピングをし、体重も更に増やす一日を過ごした。
 
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大木 山ノ奥

2007-01-23 00:00:51 | ご近所漫ろ歩き
(1993年1月19日撮影)
 我が家の隣りの集落、大木(おおぎ)
その本宮山に連なる山裾、土々川の源流に、山ノ奥という数軒の民家が建つところがある。
 近年、付近を通る道路が整備され、この集落も次第に変化しつつある。
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戸倉城 泉頭城

2007-01-22 00:00:17 | 城郭・城下町

(駿東郡清水町)
 柿田川の湧水地、柿田川公園を散策していると、川と地面の構造がどことなく城郭の雰囲気を感じた。
柿田川を下り、清水町公民館に寄ると、そこで公園が城跡であることがわかった。
 泉頭城は、七つの郭で構成され、自然の堀割と人工堀割により構成されている。
弘治年間(1488~1505)に築かれ、北条氏臣多目周防守、荒川清兵衛が守っていたという。
南隣の戸倉城と同じく、甲相駿同盟が結ばれていない天文二十三年(1554)以前と、永禄十二年(1569)以後は武田氏に対する城となった。
 
 徳倉橋を渡り、南側の搦手口とされる方向から戸倉城域に入る。
居館跡があったという龍泉寺を横目に河岸に立つ竪岩を過ぎ、登山口に差し掛かる。
戸倉城は狩野川が取り巻く標高76mの本城山と、それに連なる丘陵に築かれた城である。
展望台のある頂は主郭跡であり、太平洋戦争中に高射砲施設が設けられたため遺構が残らないが、富士や狩野川、舟で泉頭城と連絡していたという柿田川の合流点が望める。
西側の丘陵へ下る途中には見張台にしたという天狗岩や堀切、岩崖の下には金刀比羅神社が建つ。
下方に傾き風化した下り辛い石段を下り、西郭の麓を歩くと八幡神社に辿り着く。そして更に西側の烏帽子岳には物見の太鼓櫓があったという。
 大手門があったとされる北西側から川郭の存在した北側を歩き、元の搦手へと戻った。
        
 北条氏によって守られていた戸倉城も天正九年(1581)北条氏臣笠原範定が武田氏臣となったことにより泉頭城との争乱が起きた。然し間もなくして織田信長による甲州攻めが終わると、武田氏から北条氏のものに戻った。
そして天正十八年(1590)豊臣秀吉による小田原の役の後、廃城となったという。
(関連記事:三枚橋城

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吉田往還 篠束 長山

2007-01-21 00:00:03 | 街道・宿場町
(伊那街道 愛知県豊川市下長山町・宝飯郡小坂井町篠束)
 小坂井莵足神社裏手、東海道の分かれ目から曹洞宗大城山龍徳院の横を通り、篠束(しのづか)の集落へと入る。そして曹洞宗天牛山医王寺前を通り、篠束神社横、伊那街道新道と交差し、そして前芝村からの「市道」と合流して長山の集落となる。
 街道の南側は、長山城という城があった。そして上善寺の前を過ぎると、牛久保の町である。明治中頃に伊那街道が整備される前は、この道程であった。また、鎌倉街道の一つ、二見道も篠束を通っていたといわれている。
  忘れ去られた旧道。然しその雰囲気は今でも漂っている。
   
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狩野川

2007-01-20 00:00:37 | 水のほとり
 伊豆半島の最高峰、天城連山から発し、沼津で駿河湾へと注ぐ川、かのがわ。
全長約46kmの中で標高差が1000mを超し、死者行方不明者が千名を超した狩野川台風など、ここでも大きな災害をもたらしてきた。然しながら、この地方の農業や産業にも多大な影響を与えてきた流れでもある。
 上流域では、特産の山葵を育てる清水、また富士の清水を含む柿田川が流れ込む。
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