(愛媛県今治市登畑 2012年8月14日)
霊仙山麓、富田川(頓田川)に面するこの地に、三宅川永昌入道越智通常(みやがわえいしょうにゅうどうおちみちつね)は館を構えた。通常は最初、先祖からの領地である伊勢国宮川(三重県伊勢市)を領していたが、永禄十二年(1569)一条兼定の招きに応じて土佐国赤岡・岸本(高知県香南市)に転じ、長宗我部元親と戦ったが戦い利なく敗退し、越智・河野姓時代からの所縁の地である伊予国越智郡登畑に転じて館を構えた。天正十年(1582)生涯異端であった通常は安芸竹原(広島県竹原市)で討死し、子の通安(常安)はその父の生涯から武門を捨て、父の亡骸をこの地に埋葬、祖先からの菩提を弔うため天祐寺を建立した。
(愛媛県今治市小泉 2006年11月30日)
寺伝では大宝年間(701-4)行基が巡錫の折、村人が請うて本尊となる毘沙門天を刻んだものという。その後、河野家、大祝家(おおほうり:三島氏)によって諸堂の整備が行われた。
(曹洞宗龍徳山天祐寺 愛媛県今治市町谷)
慶長九年(1604)武門失脚した三宅川惣兵衛越智通安が拝志郷寺川に祖先菩提のため創建したのが始まりである。通安の子で町方年寄役の次右衛門常定が寛永十二年(1635)東村に移転し、釈迦如来像を安置した。然し、富田川(頓田川)の氾濫により倒壊し、歓喜寺山麓の現在地に移転した。境内の思源碑は祖先の歴史を刻んだものである。
(愛媛県今治市高市 2006年11月29日)
「伊予風土記」によると神亀五年(729)九月二十五日山城国愛宕郡木舟大明神(京都市左京区貴船神社)を勧請したのが始まりであるが、祭神は大山祇命(おおやまずみのみこと)を祀る。河野氏族である高市氏(土佐藩士武市半平太は末裔)がこの地に移り住んだ際に大三島より勧請し、一時は高市神社と称した。
(愛媛県今治市上徳字高森 2006年11月29日)
頓田川沿いに鎮座する三嶋神社は、旧徳久村との合成地名である上徳の前身、旧上神宮(かみかんのみや)村の鎮守である。神亀五年(728)河野氏祖である国司小千益躬(おちますみ)が大三島より勧請した伊予八社の三島宮の内の一社であり、地名の高森(こうのもり)は、鴻の森や河野森、或いは国府の森と書き、伊予国府を意味するともいわれる。境内には「大神宮さんの岩(天皇さんの岩)」と呼ばれる岩がある。昔、姫が頭に乗せて遠方から持ってきて積み重ねたという言い伝えや、雨乞いの際に岩の上で舞を舞った言い伝え。また、祭神である大山祇命(おおやまずみのみこと)が金襴に包んで着物の袂へ入れて持ってきた岩と伝わっている。
大神宮さんの岩
(愛媛県今治市東村 2006年11月29日)
白鳳元年(672)越智守興によって仙遊寺の別寺、法相宗新興寺として創建された真光寺は、藤原純友の乱の際に兵火に遭いその後再興され真言宗真光寺となった。更に鎌倉時代後期には華厳宗新光寺となっている。南北朝時代には北朝細川頼春が新光寺に陣を敷いて世田山の南朝大舘氏明と戦い、氏明は首級に挙げられ、この新光寺で首実験に供された。そして豊臣秀吉の四国征伐の際に再び兵火に遭い、天和元年(1681)現在の真言宗真光寺と改められ再興されている。
(神奈川県藤沢市江ノ島 2006年3月18日)
弘安五年(1282)巨福呂坂切通(こぶろざかきりどおし)から鎌倉入りしようとした一遍は、北条時宗に阻止されたため、片瀬で布教を行った。そのとき、江ノ島の島民が飲み水に窮していたため、岩屋に程近いこの場所で水を掘り当てて助けたと伝わる。
(しょうこくじ 臨済宗萬年山相國承天禅寺 京都市上京区今出川通烏丸東入上ル相国寺門前町)
前日の貴船川床料理主人の強い勧めで相国寺を初めて訪れる。相国寺は明徳三年(1392)足利義満によって建立され、開山は夢窓疎石とされる。また、建立の資材は伊予河野氏が用意したとされる。然し、完成僅か二年後に、寮舎から出火し全焼。間もなく再建が開始され、応永六年(1399)には高さ360尺(109m)の大塔が完成するも、応永十年(1403)落雷により焼失した。更に応永三十二年(1423)には全山焼失。応仁の乱(1469)と天文の乱(1549)では兵火により焼失。天明の大火(1788)では法堂以外を焼失している。このように度重なる火災に遭いながらも、足利氏、豊臣氏らの加護によって再建されている。
同志社大学西側に再現された相国水路の石垣
塔頭 瑞春院
県有形 蔵経塔
重文 法堂 慶長十年 豊臣秀頼寄進
県有形 勅使門
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