flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

世田谷新町

2016-06-30 00:00:00 | 街道・宿場町

(東京都世田谷区新町)
 桜新町と駒沢の間の町である。大山街道沿いの地であり、元々は桜新町も新町であった。町内にはかつて、玉川上水から分流し目黒川に至る品川用水が流れており、近くには元和二年(1616)創建の曹洞宗家岳山善養院や新町村鎮守の久富稲荷神社がある。
           

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赤塚山工房跡発掘調査

2016-06-29 00:00:00 | いにしえの人びと

(愛知県豊川市市田町東堤上 1992年3月19日)
 以前から「赤塚山古窯」として知られ、布目瓦が散見していた。赤塚山公園造成に伴う発掘調査によりロストル式平窯(火道の畝(うね)がある形式)4基と粘土貯蔵土抗、粘土こね場及び作業場等7棟の遺構(掘立柱穴・礎石)が検出され、出土した瓦から三河国分寺国分尼寺の瓦を焼成した窯であることも分かった。但し、出土した瓦から、国分寺創建当時の瓦ではなく、奈良時代後期から平安時代中期かけての改築の際に使われた瓦窯と推定される。
   土抗

(関連記事:赤塚山古窯 赤塚山1号墳発掘調査 赤塚山東池古墳発掘調査)

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上池台と洗足池

2016-06-28 00:00:00 | 水のほとり

(東京都大田区上池台)
 千束の南、旗の台の西は、洗足池から広がる高台である。周辺の湧水を集めた洗足池(面積40,000m2)は古来より用水として利用され、池から流れ出す水は「洗足流れ」として呑川に注いでいる。また、歌川広重の名所江戸百景にも『千束の池袈裟懸松』として描かれている。昭和43年(1968)に名付けられた上池台の一部は、かつて馬込村長原と呼ばれ、土地の人曰く中原街道沿いの地であったため、中原が長原に訛ったのではないかという。但し、洗足池に向かう低地が細長い地形をしているので、単に長い原であるかもしれない。今は住宅で埋め尽くされている。池のほとりには貞観二年(860)創建の千束八幡神社が鎮座する。神社と池の間には馬の像があるが、治承四年(1180)源頼朝が鎌倉へ向かう際、千束池の畔で陣を敷いていると、野馬が現れその嘶く声は天地を震わすばかりであったという。家臣が馬を捕らえてみると、青い毛並みで白の斑点がある馬であった。現れた光景が「池に映る月影のよう」であったことから「池月」と名付けられ、頼朝の乗馬とされたと伝わる。
  長原商店街
    中原街道
              

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牟呂松原用水頭首工

2016-06-27 00:00:00 | 水のほとり

(豊島管理橋 愛知県新城市豊島・一鍬田 1992年3月3日)
 昭和44年(1969)9月(右岸堤防接続部は昭和53年6月改築)に豊川に設けられた、牟呂用水、松原用水の頭首工(取水口)が生まれ変わろうとしている。この日は水資源開発公団豊川用水総合事業所新城管理所牟呂松原頭首工操作室を訪れ、同所職員から話を伺った。下流側に造られる新頭首工は、旧頭首工の幅員2m,長さ224.8mの管理橋に代わり、市と建設費を出し合い、車が自由に往来できる程の管理橋にするということであった。然し、竣工から20年余りで老朽化を第一理由に改築というのは、些か疑問を感じた。この日に先立ち、建設省中部地方建設局豊橋工事事務所一宮出張所で新頭首工の設計図を照会した。
   
 牟呂松原用水
 新頭首工築造地


(関連記事:海倉淵 天王祭)

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荏原千束

2016-06-26 00:00:00 | 漂い紀行

(東京都大田区北千束・南千束)
 目黒区洗足の南側は大田区千束である。共に「せんぞく」と読み、漢字が異なっているが、千束の方が従来からの漢字である。由来として、「千束」は稲千束の年貢の単位を表し、それを免除するという理由とされ、「洗足」は日蓮が療養のため身延山から常陸に向かう途中、池上宗仲の館に留まり、この地の大池(後の洗足池)で足を洗ったことを理由とする。(日蓮は本門寺を開山し、宗仲の館で没した)
      

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赤塚山1号墳発掘調査

2016-06-25 00:00:00 | いにしえびとの睡

(愛知県豊川市市田町東堤上 1992年3月1日)
 赤塚山公園造成に伴い、赤塚山の埋蔵文化財の発掘調査が開始された。「赤塚」の名の通り、赤土の山に古墳が存在するのは古くから知られ、鎌倉時代に盗掘されている。直径17m,葺石を持つと分かった古墳時代後期の円墳は、天井石が失われた横穴式石室の床面から、ガラス小玉や金銅装耳環が見つかった。
  横穴式石室
 北西から
 南から

(関連記事:赤塚山古窯 赤塚山工房跡発掘調査 赤塚山東池古墳発掘調査

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駒沢給水塔

2016-06-24 00:00:00 | STRUCTURE-構造物残影-

(東京都世田谷区弦巻 世田谷区地域風景資産)
 弦巻(つるまき)の住宅街の中に周囲とは趣の違う構造物が見え隠れする。大正12年(1923)に築造された、RC造、総容量5,500m3,円筒形の給水塔2基である。鎌田の砧下浄水所で多摩川の伏流水を取水し濾過、標高46mのこの駒沢給水塔に送られ、渋谷に供給した。平成11年に通常供給は停止されたが、非常用の給水施設として維持管理されている。
         

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豊川広瀬川原

2016-06-23 00:00:00 | 水のほとり

(愛知県新城市川田・八名井・宝飯郡一宮町東上・江島 1992年2月18日)
 かつての設楽郡、八名郡、宝飯郡の境であるこの辺りは、豊川(とよがわ)の瀬が広くなっていたため、広瀬川原、広瀬川と呼ばれた。現在は堤防により締め切られ、かつての面影はない。この場所の下流、鳥居松の瀬(宮出川の合流付近)には、次の伝説がある。鵜飼嶋村(1878-江島村)に鵜を飼う家があり、その家に一人の娘が奉公していた。然し、娘は急に何にも喋らなくなってしまったという。そのうち、娘は毎朝豊川に行くという噂が起こり、村の若者達がある朝こっそり娘の後をつけて行った。娘が豊川の河原に降りて行くと、対岸の川岸に一人の男が現れた。男は対岸の東上村の百姓で、二人は好き合っていた。然し、深く流れの速い豊川の淵のため、二人は会いたくても川を挟んでしか会えなかった。その光景を見ていた若者達によって、二人のことは村中に広まってしまった。娘は恥ずかしくて家から出ることもできなくなった。娘は思いつめて、死んでしまおうと真夜中に豊川の河原にやってきた。身投げのために娘が河原の石を袂に詰めていると、「死んじゃいかん」と、男の声が聞こえた気がした。「そうだ、死んでしまうより、この石で川の淵を埋めてあの人に会いに行けばいい」そう思った娘は、河原の石を次々に川に投げ込み始めた。やがて朝になり、川向こうに男が現れると、二人は川の両岸から石を投げ込み始めた。二人は毎日石を投げ込んだが、そのうち村人達も一緒になって石を投げ込んでくれるようになった。毎日皆で石を投げ、通りすがりに投げ、仕事のついでに投げ込んでいるうちに、いつの間にか十年の年月が経った。深い豊川の淵も、渡って行ける浅瀬になっていた。二人は浅瀬の真ん中で抱き合って泣き、それを見ていた両岸の村人達も、涙をこぼして喜んだという。
 清水川排水樋門
 殿田川
 殿田川排水樋門
 杉川排水樋門

(関連記事:境川 信濃往還 東上)

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いらか道

2016-06-22 00:00:00 | 水のほとり

(東京都世田谷区用賀)
 東急線用賀駅から西用賀通りを経て、環八通り沿いの砧(きぬた)公園に至る「用賀プロムナード」の一部である。この区間にはかつて下流が等々力渓谷となる谷沢川が流れていたが、昭和44年(1969)の区画整理時に側溝水路として改修され、暗渠となった。往時をイメージする流れを用賀プロムナード建設時の昭和61年(1986)に、淡路産の瓦(甍:いらか)と玉石で表現されている。
      

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シャラ川

2016-06-21 00:00:00 | 水のほとり

(愛知県宝飯郡一宮町東上 1992年2月16日)
 豊川(とよがわ)右岸の河岸段丘滝平台地から湧出し、古代の条里制遺構(宝飯郡東条:東上の地名由来)に沿って流れ、豊川(東上では広瀬川と呼ぶ場合がある)に注ぐ小さな川である。当初この川名を見たとき、付近が砂地であることから砂原(さはら)、水源付近に妙劉寺や墓地があることから、舎利(しゃり:遺骨)、髑髏(しゃれこうべ)等からきているものと考えたが、豊川右岸堤防築造に伴う排水樋門設置の際、銘板に標示する川名を地元の小学生が考えたものであることが分かった。

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海浜幕張

2016-06-20 00:00:00 | 漂い紀行

(千葉市美浜区ひび野)
 久し振りの京葉線による千葉入りであった。昭和42年(1967)に計画された千葉海浜ニュータウン計画に基づき、昭和55年(1980)に埋め立て完了、昭和61年(1986)京葉線海浜幕張駅が開業した。駅周辺の商業地は「タウンセンター」と称し、その外側には、企業社屋が連なる「業務研究地区」がある。辺りは埋め立て地だけあって首都圏でありながら空間に余裕があり、愛知県を思い出させる光景であった。然し、幕張メッセの催しによっては、ダフ屋が多くみられ、新しい街並みが実は虚構であるかのようにも感じ取れた。
 

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足山田開発

2016-06-19 00:00:00 | 水のほとり

(愛知県宝飯郡一宮町足山田 1991年12月22日)
 キャッスルヒル城山カントリークラブ造成による足山田地区の開発が始まり半年程になる。開発内には黒谷川本流支流、黒谷池、西川、城山古墳群、膳棚古墳群、向山古墳群、足山田城跡等、多くの自然や史跡が存在する。景気も下降線の今、先々の破綻は目に見えている。広大な敷地は全て地元の地権者が所有し、ゴルフ場の親会社マキタが借りる形となっているが、返す際は元の状態にするというものの、不可能な程の開発が行われていた。黒谷地内では二の沢が暗渠化されて以前の面影が全くなくなっており、二の沢と黒谷川の間にある黒谷1~3号墳付近の樹木が伐採され、山肌が露出していた。三の沢はコンクリート被覆がされ、足山田城の屋敷跡であった水田は跡形もなくなっていた。黒谷池は水際に石垣が組まれ、その外側はホールグリーンになるようである。池からは幾つもの水路が結ばれいたが、グリーンに薬剤を撒くため、直接黒谷川に水が流れないよう、濾過池に誘導するもののようであった。一番印象的であったのが、近くの県道脇に開発事業者である城山開発が建てた「川の汚れは心の汚れ!黒谷川 西川 清流と森に緑を」と矛盾した看板があったことである。また、付近で犬の散歩をしていた古老が、「大雨が怖い、山の土が流れ、人家や田畑が流れることになる」と語っていた。
 黒谷池
 城山

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武蔵中原

2016-06-18 00:00:00 | 街道・宿場町

(川崎市中原区上小田中・下小田中)
 江戸から平塚中原に至る街道筋の地である。中原は、この街道名から付けられたものであり、江戸時代は上小田中村、下小田中村と称した。明治22年(1889)周辺の上丸子村、中丸子村の一部と小杉村、新城村、宮内村と合併して中原村が誕生した。言わば中原区の中心地であったが、今は隣接する小杉や新城の方が商業的には栄えている。
        南武線高架下の中原電車区
     
 二ヶ領用水支流「木月堀」
  名主であった原家屋敷の樹木が鬱蒼としていたため呼ばれた「くらやみ」
 真言宗長福寺
 
 宝永年間創建の神明神社
  富士通本店
 二ヶ領用水

(関連記事:武蔵小杉)

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庚申塚 川田原13号墳

2016-06-17 00:00:00 | いにしえびとの睡

(川田原古墳群 愛知県新城市川田字本宮道 1991年11月13日踏査)
 飛鳥時代まで、愛知県東三河地方は穂國(ほのくに)と呼ばれていた。白鳳時代に入って、国郡里設置により三河國穂評となり、大宝律令施行後の和銅六年(715)五月、国郡に二字の好字を用いるという詔(みことのり)によって寶飫(ホオ)郡と改められた。その後、飫の字を飯と誤り、寶飯郡と書き読まれる様になったとされている。然し、郡域が大変広大であったため、周辺の郡の規模に近づけることとなり、平安時代の記録『民部省 延喜式 頭注』によると、延喜三年(903)八月十三日、「割寶飯郡、置設楽郡」という記述が見える。このとき定められた境界が、川田原台地(新城市)と滝平台地(一宮町)の間を流れる境川である。その川田原台地にはかつて34基以上の古墳があったといい、戦中戦後の開墾によってその多くが滅失したが、この古墳は江戸時代に墳丘の上に自然石の庚申塔が建てられたため、「庚申塚」という信仰対象となったことから早くから公有地となり、破壊を免れた。付近は工場や住宅が建ち並んでいるが、この庚申塚の一角は、開墾前の面影を伝えている。

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新城神社

2016-06-16 00:00:00 | かみのやしろ

(川崎市中原区新城中町)
 創立は伝わっていないが、元禄七年(1694)領主中川佐平太重奥侯建立の棟札が残る。当初は神明社と称し、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る。昭和12年(1937)社殿改築を機に新城神社に改称された。昭和63年(1988)には境内西側の都市計画道新横浜宮内線(多摩川等々力大橋を経て目黒通りに接続予定)の拡幅により、境内地の縮小、社殿の遷宮が生じている。祭礼芸能として囃子曲持(はやしきょくもち)があり、川崎市重要習俗技芸に指定され、神奈川県民俗芸能50選にも選ばれている。
   
  境内地を削った都市計画道と遷宮記念碑

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