flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

下吉田新町

2018-08-31 00:00:00 | 街道・宿場町

(富士山道 山梨県富士吉田市新町)
 旧新倉(あらくら)村が発展し、新屋敷として町が拡大したのが、後の新町である。

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田峯

2018-08-30 00:00:00 | 街道・宿場町

(伊那街道 愛知県北設楽郡設楽町田峯 2005年11月22日)
 文明二年(1470)に田峯菅沼氏の本城が築かれた地、田峯(だみね)。寒狭川沿いに標高300m前後の山あいの秋は、「今年は山の色付きも悪くて…」と、晩夏からいきなり晩秋を迎えたような気候だったようである。低地に下り、暑かった体も、山間の急激な気温低下により寒くなり、束の間の待ち時間も少々長く感じた。やがて地形故の早い日没が帰路を追うように、我が住まいの下流方向へと進んだ。
                 

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寳松山大正寺

2018-08-29 00:00:00 | ほとけのいおり

(山梨県富士吉田市浅間)
 文永年間(1264-74)僧源誓が近隣に草庵を結んだのが始まりとされる。文安三年(1446)当地の領主遠山重正が蓮如に帰依し、乗欽と名乗って草庵に入り、水石山新念寺となった。三世の代に新福寺と改められ、寛永四年(1627)に焼失。正保元年(1644)現在地に移転し、寛文八年(1668)に大正寺に改められている。
  

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田口白山神社

2018-08-28 00:00:00 | かみのやしろ

(愛知県北設楽郡設楽町田口字向木屋 2005年11月22日)
 設楽町の中心地である田口に鎮座する白山神社は、菊理媛命(くくりひめのみこと)を祀り、明応年間(1492-1500)火災に遭い社殿を焼失したため、永正年間(1504-20)長篠城主菅沼元成が再建したという。
   

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罔象女命石碑

2018-08-27 00:00:00 | 石のまもり

(山梨県富士吉田市新倉)
 入山川沿い、中央自動車道富士吉田線の高架下に罔象女命(みつはのめのみこと)と刻まれた石碑が建つ。この命は水の神であり、かつてこの辺りは湖があったが、富士山の噴火によって湖は埋没し、一転、水不足の地となった。そのため、罔象女命を祀ったのである。

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石仏公苑

2018-08-26 00:00:00 | 石のまもり

(愛知県北設楽郡設楽町田口字向木屋 2005年11月22日)
 田口のまちを見下ろす遊歩道には、三十三観音、馬頭観音、地蔵、不動、庚申塔、道祖神、塞の神、役行者等四百余躰の石仏が佇んでいる。昭和47年(1972)町内二千躰以上ある石仏の散逸を防ぐため開苑したものである。
        

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新倉山浅間公園

2018-08-25 00:00:00 | 漂い紀行

(山梨県富士吉田市新倉)
 富士浅間神社を更に登ると、吉田のまちを見下ろす新倉山浅間公園である。元々は神社の社叢であったが、昭和34年(1959)富士吉田市の公園として開園した。昭和37年(1962)戦没者慰霊のための忠霊塔(五重塔)が建てられ、合わせて整備されたソメイヨシノ600本と共に、春には明るい光景をつくり出している。
          

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鞍船遺跡

2018-08-24 00:00:00 | いにしえの人びと

(愛知県北設楽郡設楽町津具鞍船 県指定史跡 2005年11月22日)
 標高720mの丘陵地にある縄文時代前期の遺跡である。大正11年(1922)に発見され、昭和29年(1954)に発掘調査が行われた。その際に竪穴式住居遺構が検出され、黒曜石の石鏃の他、縄文時代前期の土器編年形式である諸磯式土器(神奈川県三浦市)、北白川下層式土器(京都市左京区)が検出されたことから、東西の文化交流がこの地方にはあったことが推測される。
        

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新倉富士浅間神社

2018-08-23 00:00:00 | かみのやしろ

(山梨県富士吉田市新倉 旧村社)
 新倉(あらくら)山の斜面に鎮座する慶雲三年(705)荒倉郷の鎮守として創建と伝わる。富士山が大噴火した折、朝廷からの勅使が参向して富士山鎮火祭を執行した。その際に平城天皇より三国第一山(富士山)の称号を賜ったという。大永年間には武田信虎がこの地に陣を敷き、北条氏と対抗して勝利し、刀が奉納されたという。
   

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津具弘法山

2018-08-22 00:00:00 | 石のまもり

(愛知県北設楽郡設楽町津具 2005年11月22日)
 先月、設楽町に合併した旧津具村を訪れた。天文十年(1541)開創の曹洞宗白鳥山金龍寺の裏手、田んぼを見下ろす背後の斜面には四国八十八ヶ所の巡礼路があり、この地の信仰の拠り所となっている。
                 

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下吉田駅

2018-08-21 00:00:00 | RODEN-哀愁のRailway-

(山梨県富士吉田市新町)
 標高753m,富士急行大月線にある昭和4年(1929)開業の駅である。駅舎は開業当時の富士山麓電気鉄道時代からのもので、平成21年、水戸岡デザインに改修されている。
       
 構内には国鉄客車(ブルートレイン)スハネフ14-20を始め、旧南海電鉄貨車ワブ513(富士急ワフ1),ワブ517(ワフ2),富士急貨車ト104,旧国鉄169系クモハ169-27の先頭部分、旧国鉄165系ジョイフルトレイン(パノラマエクスプレスアルプス→2000系フジサン特急)が並ぶ。

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八橋伝説と羽田玄喜二児の墓

2018-08-20 00:00:00 | いにしえびとの睡

(愛知県知立市八橋町 2005年11月20日)
 八橋の語源は、承和九年(842)に架けられたという橋に由来する。この地の荘園領主の娘であり、医者羽田玄喜の妻である二児の母がいた。近くの逢妻川で海苔を取る母を頼り、川を入ろうとした子どもが溺れ亡くなった。母は悲しみと供養のため出家した。母は橋の存在を望み、夢で川に材木が打ち上げられるとのお告げがあり、それを使って橋を架けたが、網の目のような川であったために互い違いに八つの橋を架けることになった。これが八橋の由来と伝わっている。

(関連記事:三河八橋 逢妻)

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甲州街道大月宿

2018-08-19 00:00:00 | 街道・宿場町

(山梨県大月市)
 十一年振りの甲州東端大月を訪れる。首都圏通勤エリアであり中央線と富士急行線の分岐点であるが、近年は過疎化が進み、商業が衰退しつつある。然しながら江戸時代には富士山道の追分がありながらも、本陣、脇本陣以外旅籠が二軒しかなく、今より静かな宿場であった。

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八橋浄教寺

2018-08-18 00:00:00 | ほとけのいおり

(愛知県知立市八橋町神戸 2005年11月20日)
 建久五年(1194)鈴木左衛門尉重任が出家して観応と名乗り、天台宗として開創したとされる。文明十八年(1486)僧性巌のとき、本願寺八世蓮如の教化を受け、浄土真宗に改宗している。また、欅造りの鐘楼門は宝暦七年(1757)に造営されたものである。
   

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猿橋

2018-08-17 00:00:00 | 街道・宿場町

(山梨県大月市猿橋町猿橋 国指定名勝)
 相模川上流桂川に架かる旧甲州街道の橋である。同様に刎橋(はねばし)である錦帯橋神橋等と共に日本三奇橋に数えられている。刎橋は、両岸の崖に差し込まれた刎木を何段にも重ね中心に延ばして橋桁を受ける形式で、腐食を防ぐために上部に屋根が付けられている。猿橋は長さが31mあり、推古天皇年間(593-628)百済の路子工(土木技術者)である志羅呼が、猿が繋がって対岸に渡る姿を見て橋を造ったという伝説から猿橋と呼ばれるようになったという。現在の橋は、昭和59年(1984)にH鋼を木材で囲い往時の姿に再現されたものである。
 

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