flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

浄瑠璃姫供養塔

2009-03-31 00:00:16 | いにしえびとの睡
(愛知県岡崎市康生町)
 承安四年(1174)源義経は、京の鞍馬寺から藤原秀衡の住む奥州平泉に向かう途中、三河国碧海郡矢作村に住む兼高長者の家に宿をとった。そこには長者の娘、浄瑠璃姫がおり、姫は琴を弾き義経をもてなした。そして義経も笛を吹き、やがて相思相愛となった。義経は奥州に旅立たなくてはならず、片見に笛を置いていった。然し姫は、義経のことを思い続け、叶わぬ思いに菅生川に身を投げてしまった。その姫の菩提を弔うため、後に岡崎城浄瑠璃郭の一角となる場所に、供養塔を建てたのだという。
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柳川城

2009-03-30 00:00:15 | 城郭・城下町
(柳河城 舞鶴城 福岡県柳川市 市指定史跡)
  水郷柳川の中心である柳川城本丸跡に辿り着いた。周囲は学校の敷地となっており、一段高くなっている天守台が残る。道路側の側面には石垣が残るが、それ以外は明治7年(1874)台風によって被災した干拓地堤防の修復のために転用され、面影は少ない。往時は五層天守、櫓七基があり、枝堀や外堀を巡らす総構えの城郭は、「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝飯前」と言われる程の堅固な城であったという。 柳川城は元々、蒲池治久が蒲池城の出城として文亀年間(1501-04)に築いたもので、蒲池鑑盛のとき、城郭を拡大し、十二万石の領主となっている。天正九年(1581)柳川の戦い等により鍋島直茂が入り、天正十二年(1584)からは龍造寺家晴が入っている。 豊臣秀吉の九州制圧後は、立花宗茂が入るが、慶長五年(1600)関ヶ原の功により、三河岡崎田中吉政が入城し、城下の整備を行っている。然し田中氏は改易となり、再び立花氏が入って廃藩まで続いた。
  

(関連記事:柳川城堀水門 弥兵衛門
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久屋広場

2009-03-29 00:00:49 | 漂い紀行
(名古屋市中区)
  この日は、名古屋開府400年祭プレイベント旅まつり名古屋2009が催されていた。「平城遷都1300年祭」「東海・北陸広域観光の旅」「大河ドラマ天地人ゆかりの地」等の特集が組まれていたが、地域紹介ブースでは、私が今まで現地で受けた対応と同じ、もしくはそれ以下で、特別な宣伝意欲は感じられず、また対応に公平性がなく、あまり好印象は受けなかった。これにより、今後の目的地選択にも影響が出た。
    
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柳川城 弥兵衛門

2009-03-28 00:00:39 | 城郭・城下町
(福岡県柳川市本城町・坂本町)
 柳川城三の丸戌亥(北西)に位置する門跡である。門前の橋にあたる部分の水路幅が一間(約1.8m)と狭く、川下りの舟幅もこの地点の幅を基にしている。また、傍らには柳川を整備した、城主田中吉政の銅像がある。
 
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南山口

2009-03-27 00:00:34 | 漂い紀行

(愛知県瀬戸市南山口町)
 私が初めてこの地に訪れたのは、昭和58年7月26日であった。その当時は、一日数本のバスが出ているだけで大変不便な地であったが、その後愛知環状鉄道の開業や、リニモの開業で条件的には改善された。然し、閑散さはあまり変わらない。今回は、「開館30周年記念企画展 やきもの収集の旅 愛知県陶磁資料館の軌跡」の招待券を頂いたので、愛知万博開催中以来4年振りに陶磁資料館を訪ねた。周辺には造成途中の空き地が、万博バブルの残骸が如く広がっていた。
 

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水辺の散歩道

2009-03-26 00:00:27 | 水のほとり
(福岡県柳川市 日本の道百選90番)
 如何にもという整備がされていないのが良い小道である。
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枇杷島駅’09春

2009-03-25 09:00:56 | 漂い紀行
(愛知県清須市西枇杷島町)
 名古屋駅の隣駅である枇杷島の新駅舎が完成してから三ヶ月が経過した。主な駅前が東側に変わり、東西自由連絡通路によって公平な乗降ができるようになった。まだ駅東地区の整備は途中にあるが、清須市の中心駅として、加速度的に変貌が遂げるであろう。然しながら、名古屋市と合併しなかったことや、城北線の暫定的な状態が続くことによって、根本的な発展は望めないように感じた。
 

(関連記事:枇杷島駅 西枇杷島学童専用陸橋 美濃路枇杷島
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柳城公園

2009-03-24 00:00:08 | 城郭・城下町
(福岡県柳川市坂本町)
 昭和3年(1928)御大典を記念し、柳川城跡の一部に設けられた公園である。外堀である水辺には、正応三年(1290)勧請の大山咋神(オオヤマクイノカミ)を祀り、お多福門のある日吉神社が鎮座する。また、この時期は水辺の雛壇に「さげもん」の飾り付けがされていた。
     
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岡崎公園園路

2009-03-23 00:00:00 | 城郭・城下町
(愛知県岡崎市康生町)
 先日から行われている、東ノ丸付近の整備が進んでいた。往時を彷彿とさせるような整備を望みたいものである。
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Yanagawa City hall

2009-03-22 00:00:10 | STRUCTURE-構造物残影-
(柳川市民会館 福岡県柳川市坂本町)
 昭和46年(1971)に建造された建物である。景観を意識したデザインということであるが、外壁材を用いていないために、コンクリートの劣化が各所で目立ち、また、それらを放置しているのが残念である。
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RODEN KYOTO N1

2009-03-21 00:00:00 | RODEN-哀愁のRailway-
(明治村 旧京都電気鉄道狭軌1型車輌 2002年2月24日)
 明治43年(1910)に製造された、京都電気鉄道(後の京都市営電車)で走っていた車両である。昭和36年(1961)まで使用され、引退後は明治村に譲渡され、復原を経て動態保存されている。


※本記事投稿日時より、カテゴリー「STRUCTURE-構造物残影」及び「漂い紀行」から、「RODEN-哀愁のrailway-」を分離しました。
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柳川あめんぼセンター

2009-03-20 00:00:24 | 学びのやかた
(福岡県柳川市一新町)
 水濠に沿って歩いていくと、この施設に辿り着いた。名前は、水郷だけあって「あめんぼセンター」といい、市立図書館と水の資料館からなっている。蔵書数は26万冊で、北原白秋の出身地であるため、郷土の文学資料を揃えている。また、資料館は、水に関する生活文化や生物の生態が紹介されていた。
 
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旧北里研究所本館

2009-03-19 00:00:05 | 木のたてもの
(明治村 旧所在地:東京都港区白金 2002年2月24日)
 大正4年(1915)細菌学者北里柴三郎が研究所として創立した、塔屋付二階、建築面積360㎡の建物である。昭和55年(1980)現在地に移築復原されている。
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柳川城堀水門

2009-03-18 00:00:39 | 城郭・城下町
(福岡県柳川市新町)
 水堀が狭くなっているところがある。これは柳川城総構えの一部であり、防御のための施設であった。冬季は水門を締め切って堀の底に日光を当て、清掃や修理を行う「水落ち」があり、春になると水門を開け「川開き」を行う。これは藩政時代から続けられている行事であるという。
    
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品川燈台

2009-03-17 00:00:24 | STRUCTURE-構造物残影-
(明治村 旧所在地:東京都品川区 国指定重要文化財 2002年2月24日)
 江戸の防御のために築かれた、品川台場に存在した燈台である。明治3年(1870)東京湾に出入りする外国船のために、高さ9mのこの煉瓦造燈台は設けられ、昭和32年(1957)まで使用された。移設復原に伴い、コンクリート補強が施されている。
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