flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

清水寺 平成二十二年秋

2011-03-31 00:00:49 | ほとけのいおり

(北法相宗音羽山清水寺 京都市東山区清水 世界文化遺産 国宝 重要文化財)

 

(関連記事:清水寺

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今治五間通

2011-03-30 00:00:46 | 街道・宿場町

(五間道路 愛媛県今治市)
 今治城南東側の内堀沿いにあるこの道は、幅が五間(約9m)あることから、こう呼ばれるようになった。(現在は12m)この通りの付け根に住んでいた私の父は、生前よく話に現れていた。

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権現山砲台

2011-03-29 00:00:47 | STRUCTURE-構造物残影-

(海軍高角砲陣地 愛知県豊川市三上町権現山)
 第二次世界大戦末期に築造された軍事施設である。標高68mの権現山頂に2基の砲台が計画され、1基は完成したが、もう1基は未完で終戦を迎えた。完成した砲台は現在、水道施設となっており滅失したが、未完の砲台は権現山古墳北側に約10mのCの字状の築堤を残している。また、傍らには兵舎が建設される予定であった平坦な場所も残っている。

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新切間歩

2011-03-28 00:00:30 | いにしえの人びと

(島根県大田市大森町 世界文化遺産 国指定史跡)
 間歩(まぶ)とは銀山の坑道のことであり、石見銀山では六百を超える間歩が存在する。新切間歩は、正徳三年(1713)間歩内に溜まった水を川に抜くために掘られたものであるが、掘削中に鉱脈に当たり、一般の間歩としても使われるようになった。
 

(関連記事:銀山道 下河原吹屋跡 豊栄神社 清水谷精錬所跡 清水寺 福神山間歩 甘南備坑 龍源寺間歩 栃畑谷 昆布山谷 佐毘売山神社 大久保石見守墓所 大森町

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石狩 千歳川

2011-03-27 00:00:00 | 水のほとり

(支笏川 北海道石狩地方)
 標高1046mのフレ岳を源とし、支笏湖を経て江別市で石狩川に注ぐ一級河川である。孵化したサケマスを放流する河川として知られている。
           

(関連記事:千歳橋から

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二寧坂

2011-03-26 00:00:59 | 街道・宿場町

(二年坂 京都市東山区高台寺南門通 国指定重要伝統的建造物群保存地区)
 高台寺から清水寺に至る坂を、一念坂、二寧坂、産寧坂と呼ぶ。二寧坂は、大同二年(807)に坂が整備された際、産寧坂の下であるので二寧坂で呼ぶようになったとされている。

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今治城 平成二十二年

2011-03-25 00:00:27 | 城郭・城下町

(吹揚城 美須賀城 愛媛県今治市 県指定史跡 日本100名城79番)

     

(関連記事:今治城平成三年 十七年 山里櫓 鉄御門 津城 名張城

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権現山古墳

2011-03-24 00:00:06 | いにしえびとの睡

(愛知県豊橋市石巻本町別所・北入田 県指定史跡)
 標高68mの権現山頂及び尾根に築造された前期古墳である。1号墳は南側に位置し、全長38mの前方後円墳であり、竪穴式石郭、葺石を有する。2号墳は北側の最高所にあり、全長33mの前方後円墳である。
 周辺は戦時中、海軍高角砲陣地として利用された。
(2号墳)
 (1号墳)

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石見 清水寺

2011-03-23 00:00:25 | ほとけのいおり

(真言宗銀峰山清水寺 島根県大田市大森町)
 推古天皇の頃、現在の清水寺の背後、仙の山頂に、天池寺という名で創建したのが始まりという。平安時代に入り、清水谷に移され清水寺となり、江戸時代末期に仙の山中腹に移転し、明治11年(1878)現在地に移された。
 
(毘沙門像)  

(関連記事:銀山道 下河原吹屋跡 豊栄神社 清水谷精錬所跡 新切間歩 福神山間歩 甘南備坑 龍源寺間歩 栃畑谷 昆布山谷 佐毘売山神社 大久保石見守墓所 大森町

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富川駅

2011-03-22 00:00:48 | RODEN-哀愁のRailway-

(北海道沙流郡日高町富川)
 二風谷から沙流川河口のまち、富川に向かう。元々は佐瑠太(アイヌ語で沙流川の河口の意)と呼ばれていたが、好字地名により富川となった。平成元年に改築された、日高線富川駅で苫小牧行列車を待つ。本線という名称はついているが、地方交通線の単線非電化ワンマン運転の路線である。かつては平取まで、苫小牧の製紙工場に原材料を運ぶための沙流鉄道が分岐していた。
   

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圓徳院 平成二十二年秋

2011-03-21 00:00:25 | ほとけのいおり

(京都市東山区高台寺下河原町 庭:国指定名勝)

     

(関連記事:圓徳院平成二十二年春 高台寺

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今治 平成二十二年

2011-03-20 00:00:45 | 漂い紀行

(愛媛県今治市)
 墓参と上朝倉の訪問から市街地へと舞い戻った。
 何度来ても衰退が否めない街並み。私が初めて訪れた昭和51年頃と比べると、明らかな差がある。全国で起きている市街地空洞化は、この地でも起きているが、愛媛県第二位、四国の県庁所在地以外では第一位の人口を有し、四国の大阪と呼ばれた今治も、港の衰退、商業の衰退、年間千人以上の人口減少により、かつて栄えた地のような有り様になってきている。
 
   (完全撤退した旧ダイエー・今治ショッパーズ)
(閉店二年を過ぎた今治大丸)
  (銀座・本町・新町交差点)
 北海道夕張と愛媛県今治。この二つのバリは、双方とも我が家にとってはゆかりの地であり、何とかして手助けができたらと微々力な私が思う地である。

(関連記事:今治駅改築 今治平成三年 今治港平成十九年 今治アーケード 今治大丸 今治の朝

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権現山車輌壕

2011-03-19 00:00:55 | STRUCTURE-構造物残影-

(海軍高角砲陣地 愛知県豊川市三上町権現下)
 権現山西斜面、古墓群の下に設けられた、北側に存在した陣地壕に付随する遺構である。軍用トラック等を留めたという。

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清水谷精錬所跡

2011-03-18 00:00:54 | STRUCTURE-構造物残影-

(島根県大田市大森町 世界文化遺産 国指定史跡)
 徳川幕府が終わり、明治時代に入ると、石見銀山はそれまでの大規模な採鉱から、地元の人たちによる小規模な採鉱に変わった。明治28年(1895)になると、長州萩出身の藤田伝三郎が起業した大阪の藤田組によって、仙ノ山福石鉱床での大規模採掘が再開された。それに先立ち、20万円(現在の価値で約20億円)をかけ、清水谷製錬所を建設した。精錬方法は、収銀湿式製錬法と呼ばれるもので、酸やアルカリ溶液で一旦、鉱石から銀を溶かした後に、銀を取り出す方法である。然し、鉱石の品質が当初の予想より悪く不採算状態となり、精錬開始からわずか一年半で操業を停止した。今は斜面に石の擁壁、八段の基壇が残るのみである。
      

(関連記事:銀山道 下河原吹屋跡 豊栄神社 清水寺 新切間歩 福神山間歩 甘南備坑 龍源寺間歩 栃畑谷 昆布山谷 佐毘売山神社 大久保石見守墓所 大森町

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沙流川

2011-03-17 00:00:58 | 水のほとり

(さるがわ 北海道日高地方)
 標高1175mの熊見山より発し、大平洋に注ぐ全長104kmの一級河川である。源流付近は沙流川源流原生林として保護されている。また、平成16年には全国河川水質調査で日本一となっている。河口から21kmの地点に二風谷ダムが築造された。この辺りはアイヌが多く居住する地であったため、ダム築造にあたり強い反対運動が起きた。沙流川は、アイヌ語でシシリムカ(砂が流れる川の意)といい、土砂流出が多く、ダムの堆積土砂が、通常の二十倍の速さで堆積し、問題となっている。

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