flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

竹ヶ鼻城

2008-05-31 16:00:49 | 城郭・城下町
(岐阜県羽島市竹鼻町)
 二年振りに羽島竹鼻に訪れる。この時期は、竹鼻別院の藤の花咲く頃であり、付近は活気に溢れていた。
 竹ヶ鼻城は現在、市街地となっており、往時の面影は全く無い。金沢城兼六園成巽閣に所蔵されている「四戦の図」屏風に竹ヶ鼻城と称する城が描かれており、その配置から推定され建てられた、「竹ヶ鼻城本丸之趾」の石碑が竹鼻別院西方にあったが、現在は羽島市歴史民俗資料館前に移されている。
 
 応仁年間(1467-68)竹腰尚隆によって城が築かれ、土岐氏臣長井(斎藤)利隆、道利、不破綱村、広綱と続いた。織田方の不破氏は城郭を拡大し充実を図ったが、天正十二年(1584)小牧長久手の戦いの際、羽柴秀吉勢によって水攻めに遭い落城している。その後、秀吉臣一柳直末、池田輝政臣伊木忠次、森寺高良と続き、慶長五年(1600)杉浦重勝のとき関ヶ原の戦いで重勝は西軍に属したため、東軍によって攻められ落城、重勝は自害している。

(関連記事:竹鼻街道 竹鼻大仏
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硫化水素発生

2008-05-30 23:00:59 | kourei-ki-日記-
 仕事でとある会社に向かっていたところ、「硫化水素発生事象のため、通行を規制します」と警察官が知らせていた。そこには消防車が並び、救急車で運ばれる人があった。
 駅前のホテルでチェックアウト時間になっても下りてこない客がおり、部屋に入るとトイレに「硫化水素」と書かれた張り紙がしてあったのだという。
 この宿泊客と、ホテル従業員が病院に運ばれたのだった。

 マスコミが騒ぎ過ぎというのもあるかもしれないが、自殺の手段として俄かに流行している。決して楽に命を落とせるものではなく、生き残った場合でも後遺症の可能性もあり、周囲に多大な迷惑をかけるこの行動はやめてほしいものである。
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高城山 吉野城

2008-05-30 00:00:49 | 城郭・城下町
(鉢伏山 躑躅ヶ城 奈良県吉野郡吉野町)
 大峯奥駆道沿いには、上千本以下を見渡せる、標高702mの高城山(たかぎやま)がある。元弘三年(1333)後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)と北条幕府軍六万が戦い、その際親王が奥の詰城とした場所が、この高城山といわれている。
   
 親王方であった金峯山寺の岩菊丸が北条方に密告したことにより、この詰城が真っ先に落ち、村上義光を二天門へ残して、親王は高野山へ落ち延びて行ったという。
  
(吉野城の堀に架かっていた丈(城)之橋跡)

(関連記事:閼伽井
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飛騨高山 平成二十年春Ⅰ

2008-05-29 01:00:45 | 街道・宿場町

(岐阜県高山市)
 今回は高山到着後に、からくり奉納神明町通り屋台曳き揃え日枝神社等をまわった。また、それぞれの合間に各所に立ち寄った。
   (三番叟屋台蔵と隣家火災現場)
(宮川中橋)
(江名子川)
 先ず、江戸時代の商家であった日下部民藝館に訪れた。明治8年(1875)に大火に遭い、明治12年(1879)に再建された建物は、明治建築として初めて国指定重要文化財に指定されている。
   
       
 続いて、日下部家の隣りの吉島家住宅を訪れた。江戸時代は造り酒屋であった吉島家の建物は、明治38年(1905)に焼失しているが、間もなく以前の姿に再現された。同じく国指定重要文化財に指定されている。

  
 昼間は一時ぐずついていた空も、夕方になると次第に青空へと変わった。
その美しい夕昏のもと、市政記念館前で石橋台のからくりが臨時に行われた。

(関連記事:飛騨高山平成十六年秋 平成十九年春 江名子
(小京都関連記事:信濃松代 筑摩松本 伊那飯田 加賀金沢 飛騨古川 郡上八幡 尾張犬山 三河西尾 伊賀上野 近江長浜 近江八幡 伊予大洲

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単なる老朽化ではないようだ

2008-05-28 21:00:01 | kourei-ki-日記-
 突然、冷蔵庫が唸り出した。今までに無いほどの音量で…そして次第に、庫内温度が上がりだした。これと前後して、テレビ、自転車が再起不能なほど故障した。これらは全て、平均耐久年数以下の10年未満のものであった。
 それぞれ修理費用を確認すると、冷蔵庫は購入金額の90%,テレビは40%,自転車は100%超えということであった。エコロジー促進の世の中とはいえ、これではいわゆるスクラップ&ビルド習慣を助長するようなものである。

…気持ちはひぇ~だが、冷えない冷蔵庫。先ずは重要順に冷蔵庫から検討を始めた。
早速業者みてもらったところ、やはりコンプレッサーの故障のようだ。最近のコスト削減による部品ユニット化で、ごっそり取り替えないといけないらしい。8,9万円はかかるそうだ。
 我が家の冷蔵庫は、耐久年数10年未満ということで、大切に使っているのに壊れるということは、運の悪い部類に入るらしい。メーカーに確認してもらって、新規購入と変わらない値段だったら、買い換えることにした。
 中のファンも回っているし、灯りも付く、しかし冷えない…まるで脳死状態。

…そいうえば、電化製品をしばらく量販店で買っていた。そして、量販店で買うようになってから、故障が多かった。電器メーカーに勤めていた知人曰く、「量販店仕様があるから(B級)」と。品番の後ろに例えば(アルファベット)がついていることがあった。それがそうだというのだ。今回も、町の電器屋に尋ねたところ、「量販店仕様はあります」とのこと。「単価は安いですが、一慨にはいえないものの、量販店は修理のことはあまり考えていないので、耐久年数は短いと思います」と。
 私の以前勤めていた会社でも、納入業者曰く「お宅は、コスト削減に厳しくて、他メーカーより部品単価が安いから、同品番の別仕様しか納入できない」と言っていたことがあった。また、やはり知人で自動車メーカーに勤めている人が、「中古車センターの新古車行きとして、あらかじめ生産している仕様があるよ」と言っていた。

 世の中、見た目は同じで中身の違うものがたくさんあるようだ。
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木津用水

2008-05-28 00:00:59 | 水のほとり
 長泉塚古墳を更に北に向かうと、整備中の水路があった。木津用水(こっつようすい:合瀬川)である。木曽川犬山頭首工から水を引き、途中で新木津用水を分流し、名古屋で新川に合流する。慶安三年(1650)に完成した人工河川であり、濃尾平野東部を潤している。
  (犬山頭首工)

 この後は、犬山へ向かった。
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岡崎城と五万石ふじ

2008-05-27 00:00:35 | ふるさとの木々
(愛知県岡崎市康生町 市指定天然記念物)
 岡崎城が五万石であったことから、廃藩後に植えられた三株一組、七組のノダフジは「五万石ふじ」と呼ばれるようになった。当初、本丸付近にあったものを現在の乙川、伊賀川畔に移植し、約400坪の藤棚が設けられた。
   
 花の密度が濃く、晴天でも鬱蒼とした藤棚の下は、ふじの香りが漂っていた。

      

(関連記事:五万石ふじ平成二十ー年
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大峯奥駆道 吉野山

2008-05-26 00:00:29 | 街道・宿場町
(奈良県吉野郡吉野町)
 金峯神社から高城山へ向けて歩みを進めた。
標高700mの辺りは、奈良時代からの修験者の道として、言い表せない程の雰囲気を持っていた。
  
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水の季節 近し

2008-05-25 21:00:33 | kourei-ki-日記-

 雨が止み、少しずつ天気が回復し始めた。

 庭のあじさいも、花が大きく育ってきていた。

 南の沖縄地方は例年より遅く梅雨入りしたようだが、私の住む地方も、それほど遠くないうちに梅雨入りをするような、そんなふうに感じたときであった。
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崑崗臺曳行

2008-05-25 00:00:21 | 民俗・伝承
(春の高山祭 岐阜県高山市 国指定重要民俗文化財)
 日枝神社から戻ってみると、曳き揃えられていた神明町通りから片原町の屋台蔵を経て、崑崗台(こんこうだい)が夜祭のために曳行されていた。狭い道を通る屋台も、また違った面持ちがあった。
     

(関連記事:飛騨高山平成二十年春Ⅰ
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大口から扶桑へ

2008-05-24 18:00:01 | いにしえびとの睡
(愛知県丹羽郡大口町/扶桑町)
 小口城を後にし、暫く五条川沿いに歩く。「水神」「暴水流亡各霊墓」と刻まれた石碑が視野に入った。今は穏やかに流れる五条川ながら、ときに暴れ川となることを示していた。
   
 北に歩を向ける。わかしゃち国体記念運動公園を過ぎ、上小口白山神社を経ると再び扶桑町に入る。周囲は住宅地ながらポツンと森の場所があった。そこには長泉塚(ちょうせんづか)古墳が存在する。
  
 長泉塚古墳は、県指定史跡に指定されている古墳時代中期の円墳で、直径25m,高さ4m,二段築成で周囲に周濠の痕跡がみられる。古墳の前には、「長泉大明神」「御嶽山大権現」の石碑があるが、以前は墳丘上に置かれていたものである。また、「長泉塚」の由来は、寛文年間(1661-73)この場所に長泉院九郎衛門という人物がおり、古墳に人を近づけなかったからという伝承による。

 ここから更に北に向かった。
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名古屋市東区の寺院

2008-05-23 00:00:20 | ほとけのいおり

(写真は建中寺御成門:正徳四年(1714)市指定文化財)
 徳川園からその徳川氏に縁の深い建中寺に差し掛かる。
浄土宗徳興山崇仁院建中寺は、慶安四年(1651)尾張藩初代徳川義直の菩提を弔うため、その子光友によって創建された。往時は石垣と堀に囲まれ、四万八千坪の敷地があったという。
 (本堂 天明七年(1787)市指定)
  (経蔵 文政十一年(1828)市指定)
(三門 慶安五年(1652)市指定)
(総門 慶安五年(1652)市指定)
 代官町、善光寺街道(下街道)道標を経て、東区泉の持名山菩提心寺高岳院を訪れた。
当初は教安寺と称し、甲斐国新府(山梨県韮崎市)に存在したが、慶長十三年(1608)徳川家康の子仙千代の菩提を弔うため、清洲城下に移転させ、法名から高岳院と改号した。間もなくして「清洲越え」(名古屋城築城)により現在地に三度移転した。国宝に指定されていた旧清洲城黒門が存在したが、第二次世界大戦による空襲で焼失している。
  

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大峯奥駆道 金精大明神

2008-05-22 01:00:09 | 街道・宿場町
(大峯山七十五靡七十一 金峯神社 奈良県吉野郡吉野町 世界文化遺産)
 吉野から熊野へ至る170kmに及ぶ修験者の道、大峯奥駆道(おおみねおくがけみち)は、奈良時代に役小角(えんのおづの:役行者)が開いたとされ、その途中には靡(なびき)と呼ばれる拝所及び行所が置かれた。その内の一つに、金山毘古命(カナヤマヒコノミコト)を祀る金峯(きんぷ)神社があり、社殿東側には義経と弁慶が追ってから隠れたという「隠れ塔」がある。またこの塔は、行者の初入峯者が暗闇の塔に入り、鐘を鳴らされ気を抜く儀式が行われた。
  (義経隠れ塔)
 
 金峯神社の上には江戸時代まで存在した安禅寺跡があり、そこから大峯山へ至る奥駆道と、奥千本西行庵に至る道に分かれる。付近には報恩大師修行之霊跡や、苔清水等がある。
  (安禅寺跡)(報恩大師修行之霊跡)
(苔清水)

 この後は、高城山方面へと足を進めた。
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飛騨山王宮 日枝神社

2008-05-21 00:00:07 | かみのやしろ
(山王権現宮 岐阜県高山市城山 旧県社)
 屋台の出ている宮川周辺から、その山王祭の中心である日枝神社へ向かった。境内は御旅所への神輿渡御によって静まり返っているように感じた。
     (樹齢千年の大杉)
  
 永治元年(1141)三仏寺城(高山市三福寺町)の飛騨国司平時輔が、狩の際に狼を仕留めようと矢を放ったところ、その狼はおらず、杉の大木に矢が突き刺さっていたという。平時輔は「大山咋神(オオヤマクイノカミ)が、使いである狼を救われたものであろう」と神の力を感じ、鎮護神として近江国日吉大神(滋賀県大津市)から勧請し、日枝神社を創建したのが始まりという。
 養和元年(1181)平景家のとき、源義仲臣手塚光盛によって攻められ三仏寺城は落城し、日枝神社も兵火により焼失した。神体は無事であったため、現在地に程近い片野村に移転し再建された。そして、天正十三年(1585)金森長近が高山城主となると、日枝神社はその鎮護神として現在地に移されている。

 この後は、再び宮川中橋へと向かった。

(関連記事:還御祭
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小口城

2008-05-20 01:00:56 | 城郭・城下町
(おぐちじょう 大久地城 箭筈城 愛知県丹羽郡大口町小口 町指定史跡)
 余野地区を取り巻くように小口地区が存在する。そこには小口初代城主織田広近の五輪塔がある臨済宗吉祥山妙徳寺があり、その東方には小口城跡がある。
  
 江戸時代後期の記録『尾張徇行記』には「此城跡ハ下小口ト中小口ノ間、幼川(五条川)ノ西岸ニアリ」と記す。往時は二重の堀、土塁を廻らした城郭であったが、土塁の一部以外あまり面影がない。主郭の存在した場所を平成6年、8年に発掘調査し、その後展示棟、物見櫓、塀及び門等が設けられ、城址公園(大口町リバーサイド公園構想)として整備された。
       (井戸跡)
 小口城は、長禄三年(1459)織田広近が築き、勢力拡大の足掛かりとする。その後、織田氏犬山城家老中嶋佐兵衛尉が城主となる。然し、永禄七年(1564)同族織田信長によって攻められ落城した。その後は放置されたが、天正十二年(1582)小牧長久手の戦いの際に再び城として機能し、羽柴秀吉方の稲葉一鉄が入っている。
   
 城の西側には城の鎮守となっていた小口神社があり、平安時代の記録『延喜式神名帳』や、『本国神名帳集説』に「従三位小口ノ天神」として名が見える神社である。

 この後は、五条川沿いに漫ろ歩いた。
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