(神奈川県藤沢市)
初秋を迎えた夜の江ノ島を訪れた。
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(静岡県湖西市吉美 2005年)
至徳三年(1386)敷知郡古見村(湖西市古見)に顕本法華宗を開いた日什により創建したのが始まりという。永享六年(1464)西側の川尻(湖西市吉美)に移り、永禄十年(1567)現在地に移っている。長らく顕本法華宗の本山であったが、戦時中に日蓮宗に統合され現在に至っている。
(神奈川県鎌倉市扇ガ谷)
北条政子が創建した寿福寺の背後のやぐらには、五輪塔が幾つかある。その一つが源頼朝の正室であった北条政子の五輪塔であり、嘉禄元年(1225)六十九歳で没し、この地に葬られた。隣接して政子の子で鎌倉幕府第三代征夷大将軍源実朝の五輪塔がある。
(愛知県宝飯郡一宮町松原字京田 2005年4月15日)
松原地区の埋葬場にある丸彫りの阿弥陀石仏である。阿弥陀はサンスクリット語(梵語)のAmitaを漢訳したものであり、アミタとは、量ることのできない無量無限という意味である。阿弥陀はインドの王族の太子で、出家をし後に法蔵菩薩となり、そのとき四十八の願を起こし成就して如来となった。その四十八の願のうち第十八願は弥陀の本願と言われるもので、念仏を行う(称える)者は極楽往生できるというものである。日本でも仏をより近い存在とするため、法然・親鸞・一遍などの僧がこれらで布教をして浄土教団を確立した。極楽浄土へ導くということで、埋葬場・墓地で多くみることができる。
(臨済宗扇谷山海蔵寺 神奈川県鎌倉市扇ガ谷)
源氏山の懐に存在する禅宗寺院である。建長五年(1253)鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命により藤原仲能が真言宗の寺院として創建したとされ、元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの際に兵火によって焼失したという。応永元年(1394)上杉氏定によって再興されている。境内には鎌倉十井の底脱ノ井とやぐら内に宇賀神と十六ノ井がある。
(愛知県宝飯郡一宮町大木字鑓水 2004年8月19日)
弘仁二年(811)のある日、老尼が守る阿弥陀堂に旅僧が宿を求めて訪れた。老尼はその旅僧を迎え入れ、旅僧が床に就いている間に老尼は手桶を持って東に十町(約1,090m)離れた宝川まで水を汲みに行った。物音に目を覚ました旅僧は、手桶を持った老尼の姿を見て理由を聞くと老尼は、この辺りは水に恵まれず、住民は難儀していると言い、それを聞いた旅僧は、自らの桜の杖を、鑓(やり)を突くように地面に突き刺し、そこから水を湧き出させ始めた。その旅僧は弘法大師であったと言い、以後この辺りは水に難儀することがなくなったという。その後この阿弥陀堂は浄土宗の寺となったが衰退し、現在の西漸寺は寛永三年(1626)に曹洞宗として再興されたものである。
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(名古屋市千種区城山新町 2004年4月18日)
特定の宗派に属さない日泰寺は、明治31年(1898)インドで発見された釈迦の舎利(遺骨)が暹羅(シャム)を通じて贈られ、その舎利を祀るために、明治37年(1904) 覚王山日暹寺(日本とシャム)として創建されたのが始まりである。その後、暹羅がタイと改められたことにより、寺名も日泰寺(日本とタイ)と改められた。住職は各宗派からの交代就任制で、僧堂のみ曹洞宗が管理している。
(愛知県津島市瑠璃小路町 2004年4月11日)
弘仁十三年(822)存海法印によって、津島神社境内に真言宗醫王山瑠璃光寺として創建されたのが始まりという(現在は単立)。津島神社祭礼の際には御旅所となったが、嘉吉の乱(1441)以降は御旅所として使われなくなり現在の場所へ移築された。織田信行がこの瑠璃光寺に住み、そこから供僧を伴って近くの瑞泉寺(舟戸町)へ出掛けたと伝わる。目に霊験あらたかとされる本尊の薬師瑠璃光如来を安置する薬師堂は、正徳元(1711)年に建立され、その後三回の修理を経て、現在の堂宇は安政二年(1855)のものである。
(三重県桑名市吉之丸 2004年4月4日)
桑名城内には鎮国守国神社が鎮座する。天明四年(1784)陸奥白河藩主松平定信が城内に藩祖定綱(鎮国公)を祀ったのが始まりであり、文政六年(1823)に定永が桑名に移封となった際、遷宮と共に定永の父定信(守国公)を追祀している。