flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

安曇野 穂高

2007-04-30 00:00:39 | 街道・宿場町
(千国街道(塩の道) 保高宿(等々力) 長野県南安曇郡穂高町 2002年4月13日)
 穂高神社から水の流れと共に歩く。
雪融け水の清浄で豊富な流水は、特産の山葵を産出する。
季節を感じる街道を歩きながら、導かれるままに歩いてみる。
東光寺の吉祥仁王尊の大下駄、松本藩の休憩所の名残をみせる等々力家住宅、そしてNHK朝の連続テレビ小説のロケで造られた「水色の時」の道祖神の小公園。
北ア常念岳を源とする穂高川沿いを歩くと、大正初期に作詞家吉丸一昌がこの川を歩きながら作詞したという早春賦の歌碑の前で、アコーディオンを弾く人に出逢った。この人は声楽が専門だそうだが、今は鍵盤を弾きながら、大自然の土地柄か草笛を吹き、私にも吹き方を教えてくれた。
最後に、この土地の風土によって育まれた彫刻家、荻原碌山の作品を観て、空気、音、目そして水を含み、私はまた束の間の私を取り戻した。
       

(関連記事:安曇野2007秋
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四天王寺

2007-04-29 00:00:59 | ほとけのいおり

(大阪市天王寺区)
 改めて母の出生地を訪れる。
先回は堀越町界隈を歩くだけであったが、今回は生家のあった場所へと向かってみた。何やら大勢の人。四天王寺、一心寺の方に向けて車道を歩道に変える程の人、人、人。四月八日、釈迦降誕会であった。
 堀越町一丁目、母の生家跡から1分も歩かないうちに、四天王寺がある。そして付随する伽藍、庚申堂には、寄進の名が見えた。母は生前「出家」をしていたが、その生き様から、幼い頃の記憶しかない私にも仏心の世界で生きていた母の心を思い出す。

(和宗荒陵山四天王寺)
 四天王寺は推古天皇元年(559)他の太子創建七ヶ寺(法隆寺、法起寺、中宮寺、葛城寺、橘寺、広隆寺、四天王寺)と同じく、聖徳太子により創建されたと伝えられ、伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」と呼ばれる南北に堂宇を配列する方式がとられている。
寛正元年(1460)、文明二年(1470)の兵火と、天正四年(1576)石山本願寺攻めの際、慶長十九年(1614)大阪冬の陣の際の兵火によっても焼失した。また、享和元年(1801)には落雷、昭和9年の室戸台風、昭和20年の空襲等で損壊、焼失したがその都度再建が成された。
 空襲の難を逃れた元和八年(1623)建立の「六時堂」前には「花御堂」が置かれ、人々が列を成していた。そして六時堂と共に重要文化財に指定されている「石舞台」は修繕工事がされていた。
経木を流し極楽往生を願う亀井堂や、乳の出を願う布袋堂で人々の祈り姿がみられた。私も略儀ながら参拝し、感謝と今後を願った。
 最後に国宝、重文を蔵する宝物館を観覧し、天王寺を後にして奈良香芝の地へ向かった。
            

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安曇野 穂高神社

2007-04-28 00:00:58 | かみのやしろ
(南安曇郡穂高町 2002年4月13日)
 この日は思ったより寒い日であった。
穂高駅に程近いかみのやしろは、穂高見神(ホタカミノカミ)を祀り、上高地に奥宮、奥穂高岳に嶺宮を祀る。
桜舞う境内には、信州特有の双体道祖神が並んでいる。
 旧千国街道を歩き、山葵育つ水のほとりへと向かった。
   
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福井

2007-04-27 00:00:29 | 街道・宿場町

 金沢から、2003年に訪れた加賀温泉を過ぎ、福井市へ。
越前の地を踏むのは、1986年永平寺以来である。
北陸新幹線開業を前提とした駅舎改築及び高架化が完成していた。
雪国であるため、屋根で覆われていて暗いホームである。そこには北陸・湖西線直流電化延伸によって出番が少なくなった「食パン電車」が停まっていた。
 福井も北国街道の宿場町であるが、福井城郭があるため、北西側を迂回して通っている。
駅前には市電(福井鉄道福武線)の停留所があり、一昨年に名鉄岐阜市内線からやってきた770形連接電車が停まっていた。
桜並木の足羽川、佐佳枝廼神社、福井城跡、柴田神社、北ノ庄城跡及び資料館等を散策し、北ノ庄城跡には足羽川に架けられていた北国街道(芦原街道)の橋、半石半木造の九十九橋の一部が当時の材料を基に再現されていた。
金沢とは違い、空襲と福井地震被害を受けていることもあってか、往時の風情がみられるところは少ない。
 最後に越前そばを食し、福井を後にした。
      

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犬塚池

2007-04-26 00:00:04 | 水のほとり

(愛媛県越智郡玉川町 1990年4月18日)
 玉川町近代美術館(徳生記念館)観覧の後、父の思い出の地、犬塚池を訪れることにした。
蒼社川沿いの住民の方に場所をお尋ねすると、連れて行っていただけるということで、車に乗り池へ。この方(女性)も子どもの頃は池でよく泳いだという。そして我が父も、この池でよく泳ぎ、樋門の鎖を伝って藻の生える底まで潜ったのだと語った。
 池は今治藩主松平定剛の利水政策によって寛政十三年(1801)に起工、文化十四年(1817)に竣工し、昭和13年に改修された貯水量60.9万m3の溜池である。
 池の上方、標高281mの佐礼山の頂きに仙遊寺という寺があり、また麓にも栄福寺という寺がある。江戸時代、共に一人の住職によって守られ、そこには一頭の飼い犬があった。その犬は住職のお遣いをするとき、双方の寺で鳴らされた鐘の音によって駆けつける犬であったという。
ある日、住職が留守の間に小僧さんにより双方の鐘が一度に鳴らされた。犬はどちらに行っていいか分からず、間にある池に落ちて溺死したのだという。
付近の住人はこれを哀れんで、池のほとりに塚をつくり供養した、これが犬塚池の名の由来といわれている。
   

(関連記事:越智玉川 石清水八幡神社

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尾山神社

2007-04-25 00:00:57 | かみのやしろ
 街並みを歩き、ご当地の味覚を食した後、金沢城へ向かう途中に先ず尾山神社へ参拝した。
明治8年にオランダ人医師ホルトマンが設計した神門が目に入る。空襲を受けなかったこの地を再認識した。
旧別格官幣社尾山神社の祭神は、加賀藩祖前田利家で、慶長四年(1599)卯辰山に勧請された八幡社を移転追祀し、明治6年に尾山神社として創建されたものである。
境内には利家公銅像や金鯰尾兜が置かれている。
   
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高縄神社

2007-04-24 00:00:34 | 孝霊天皇流族関係記事

(愛媛県北条市宮内 1990年4月16日)
 善應寺河野神社の後、高縄神社へと訪れた。
宮司で河野氏族正岡氏裔である正岡重慶氏からお話しを頂戴しながら参拝した。
 高縄神社は祭神に大山祇神(オオヤマヅミノカミ)、高淤加美神(タカオカミノカミ)、鳴雷神(ナリイカズチノカミ)を祀り、推古天皇七年(599)高縄半島最高峰、高縄山頂に小千益躬(越智高縄)が創建。保延二年(1136)現在地に小千氏裔河野親清が遷座建立した。河野氏衰退後の慶長五年(1600)毛利勢の兵火により焼失、その後荒廃したが、文化三年(1806)に拝殿、文化九年(1812)には本殿が再建された。社格も郷社から県社に列格、絵馬殿が建てられ、様々な絵馬が奉納された。
         
(関連記事:鹿島

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北国街道 金沢Ⅰ

2007-04-23 00:00:06 | 街道・宿場町
(石川県金沢市)
 言わずと知れた、加賀百万石、北陸の小京都金沢。
平成の大合併をせずとも人口は45万を有し、北陸の代表地でもある。
然し、周辺市町村合併後のいわゆる二段階合併による政令都市構想があるようで、歩み方が我が近隣豊橋市に似ている。
 金沢市へは一昨年、越中八尾へ向かう途中、数時間程滞在しただけであった。
今回は三月下旬訪問の予定であったが、私が体調を崩し、またその日に地震が発生など、なるべくして変更されたような日程であった。
北国街道の要の地の一つでありながら、宿場町のイメージはあまりなく、それを上回る城下町のイメージ。故に商業も強く、愛知の同様規模の都市とは比べものにならない程の活気を持つ。
 初日は武蔵ヶ辻、香林坊、竪町、柿木畠、長町、片町等の街並みを歩き、尾山神社金沢城公園、兼六園、旧県社石浦神社、21世紀美術館、歓喜天霊場(潤光山養智院)、犀川等を訪れた。そして京風味付けのご当地の味覚も堪能し、金沢の夜は更け、歓楽街旧木屋町にある宿に向かった。
            (宿の窓から見える風景)
北国街道金沢Ⅱ)
(小京都関連記事:信濃松代 筑摩松本 伊那飯田 飛騨高山 飛騨古川 郡上八幡 尾張犬山 三河西尾 伊賀上野 近江長浜 近江八幡
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善応寺古墳 河野神社

2007-04-22 00:00:31 | いにしえびとの睡
(北条市善応寺 辻の内上土居 河野塚古墳 1990年4月16日)
  安政二年(1855)四月に河野神社が建立された際、横穴式石室内から人骨、須恵器、刀が出土したという。
拝殿建設によって、羨道部石材が神社各所で利用された。現存する玄室は長さ4.8m、幅2.4m、高さ2.8mであり、内部に社殿を置いている。
   
 河野神社を後にし、高縄神社へと向かう。
(関連記事:新城古墳 善應寺
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流鏑馬準備

2007-04-21 20:00:31 | kourei-ki-日記-
 三河国一宮、砥鹿神社例大祭で行われる流鏑馬の準備が行われていた。
柵の設置、来週は地面の砂撒きが行われる。
 早くも風光る新緑の季節となった。

 平成十八年祭礼前日 流鏑馬試乗
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八名郡成沢村

2007-04-21 00:00:08 | いにしえの人びと
(豊橋市石巻小野田町)
 東に入文村、西に三渡野村、南に馬越村、北は賀茂村に接する旧成沢(なるさわ)村。
字北山の台地からは縄文時代や弥生時代の石器、土器が出土し、それ以来の人々の営みがみられる。
室町時代、流路を大きく変えた豊川大洪水の年の文安四年(1447)成沢の高台に受洞寺が創建された。
近世には豊川水運で栄え、明治21年、河岸に牟呂用水が通水するまでは往時の面影があったのだという。
明治11年には東隣入文村と合併し、小野田村となった。
現在は地区の西側を流れる間川が河川改修され、豊川水運で栄えた頃を思い起こさせる光景は残っていない。
 
(関連記事:入文の水辺
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善應寺

2007-04-20 00:00:31 | 孝霊天皇流族関係記事

(好成山善應寺・善應寺砦 愛媛県北条市善応寺 1990年4月16日)
 河野氏本拠地であった、北条市河野郷を訪れた。
建武二年(1335)河野通有の子通盛によって雌甲山城麓に創建され、十二の末寺を備え、砦館も併せ持って築かれた。然し、天正十三年(1585)豊臣秀吉の四国征伐によって河野氏が伊予守護を失脚、寺も荒廃した。その後、江戸中期になって末寺の明智庵跡地に現在の善應寺を再建した。境内には河野通盛墓があり、堂内には河野氏累代神儀、位牌を祀る。
      
(関連記事:鹿島 高縄神社

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津城

2007-04-19 00:00:35 | 城郭・城下町

(安濃津城 三重県津市 県指定史跡)
 先回、2003年7月21日津に訪れたときには、三重県立博物館見学の後、亀山へと向かい、城下へは向かわなかった。今回は近鉄津新町駅を降り、城跡へ。
 津は県庁所在地でありながら、どことなく控えめな雰囲気がある。城跡周辺も空襲により昔の面影はないが、落ち着きをみせている。
 津城は安濃川と岩田川の間、伊勢参宮街道と伊賀街道の分岐点に存在する。前身は永禄年間(1558~69)に細野藤敦が築いた安濃津城が始まりで、次に津田(織田)一安が入城、続いて元亀二年(1571)に織田信包(のぶかね)が入り城郭を拡張し天守を設置、津城と称した。文禄三年(1594)信包は丹波柏原へ移封し、豊臣氏臣富田知信が入城。
知信の子信高のとき、敵方関ケ原西軍により攻撃を受け城内を焼失、このときより天守は無いのだという。慶長十三年(1608)信高は伊予宇和島へ移封となり、伊予今治より藤堂高虎が入城、築城の名人により輪郭式に改修され、藤堂氏は廃藩まで続いた。
 城跡は現在、お城公園となり、本丸跡には庭園等があり、昭和33年に三重の隅櫓が建てられたが、この場所は東鉄門のあった場所であり、再現したものではない。
     

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来島

2007-04-18 00:00:34 | 孝霊天皇流族関係記事

(くるしま 愛媛県今治市 1990年4月15日の日記から)
 今治市波止浜から目と鼻の先に浮かぶ島、来島は、波止浜渡し場から定期船で僅か5分の距離である。その来島は、人口約50人、周囲850mの小さな島である。元々は河野氏が島に城を構えたようであるが、後に村上氏が城郭を置き、来島村上氏の拠点となった。
 島の方たちにお話しを伺いながら順に散策した。上半身の病気平癒御先神社、文治二年(1186)河野通助、頼久が創建し後に来島城の守護神とした八千矛神社、来島(村上)氏の位牌を祀る心月庵、石垣の残る二の丸跡に建つ村上氏を祀る村上神社、そして鉄塔の立つ島の頂きの本丸跡に向かった後、潮が引くと現れる桟橋跡を訪れた。
       

(関連記事:大角鼻
小島

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田丸宿

2007-04-17 00:00:37 | 街道・宿場町
 伊勢の清流宮川左岸、伊勢本街道(初瀬街道)と吉野熊野街道(紀州街道)が合流する度会郡玉城町。
田丸城の城下であったこの町は、今でもゆっくりとしたときの流れを感じる。
 南北朝時代北畠氏が築き、後に織田信雄が改修した城郭を訪れた後、郷土資料館にて、町の歴史をお伺いした。
館内には、この地で生まれた朝日新聞創始者、紀州藩士村山龍平の記念館がある。
      
(関連記事:伊勢宮川
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