flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

北野廃寺

2008-02-29 00:00:08 | ほとけのいおり
(愛知県岡崎市北野町 国指定史跡 1991年2月27日再踏査)
 宇頭古墳群を後にし、11年振りの北野廃寺に訪れた。
 検出遺物から、飛鳥後期~平安時代まで存在したとみられる北野廃寺は、大正末期から昭和初期に行われた測量調査によって、四天王寺式(南大門、中門、塔、金堂、講堂が直線上に配置)伽藍配置と比定され、東西124m,南北147mの寺域を持つ。また、戦後に3度行われた発掘調査によって、瓦、須恵器、陶器類の他、銅製品片やせん仏(瓦製型物仏)、瓦塔等が出土している。
 昭和52年の調査後、史跡公園化され現在に至っている。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

表浜 舞阪

2008-02-28 00:00:50 | 海道・みなと
(遠州灘 浜松市西区舞阪町)
 愛知県伊良湖岬から片浜十三里、浜名湖を経て静岡県御前崎まで続く、遠州灘の海岸、表浜。東海道の松並木と並行して、舞阪町の海岸では、防風林と築堤が続いている。その築堤上はウォーキングコースともなっており、時折人とすれ違う。

 松の木の合間から海側に目をやると、見えるのは国道1号浜名バイパス。昭和53年に築堤と砂浜の間に開通してから、光景が一変したところである。そんな防風林からも、舞阪灯台のある広場の展望台からは、大海原が望める。
 更にそこから西へ向かうと、築堤上に少しの盛り土と、窪みが現れる。第二次世界大戦時に、舞阪監視哨が置かれたところである。この場所を過ぎると、間もなくして防風林は終わり、舞阪漁港、そして旧東海道の渡し場跡の一つである北雁木(諸侯用船着場)に辿り着き、弁天島に至る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇頭古墳群

2008-02-27 00:00:23 | いにしえびとの睡

(愛知県岡崎市宇頭町・宇頭北町 1991年2月27日踏査)
 宇頭古墳群は、北部古墳群3基と、南部古墳群8基、和志山古墳群5基からなる古墳群である。今回は、その内の宇頭南部-後久1号、2号墳と、宇頭2号北裏古墳、11号荒子古墳及び宇頭大塚古墳を踏査した。
 後久1号墳(トップ写真:西側から撮影)は、名鉄本線沿いの神明社境内に位置し、半壊しているが円墳で、横穴式石室の石材が散乱している。2号墳は、1号墳の西隣に位置し、同じく半壊しているが円墳で、直径9m,高さ1.7mを測る。
(後久2号墳 東側から)
 続いて国道1号線(旧東海道)に面した宇頭大塚古墳に向かった。
墳丘自体が、薬王寺の土台となっており、かなり変形しているが前方後円墳とみられる。明治45年に、同寺堂宇の雨垂れを造ろうとした際に石室石材が発見され、東京帝国大学教授によって調査がされている。
 2号北裏古墳は、大塚古墳の北西に位置し、現在は大塚公園となっている。円墳で、直径27m,高さ4mを測る。
(北裏古墳 南西側から)
 北裏古墳の東には、11号荒子古墳があり、現在荒子公園となっている。円墳で、直径19m,高さ3.3mを測る。この2基の古墳は、昭和55年の区画整理の際、公園化して保存を図っており、好例の措置といえるものである。
(荒子古墳 南側から)

 この後は、北野廃寺へと向かった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

舞阪松並木

2008-02-26 00:00:20 | 街道・宿場町
(東海道 浜松市西区舞阪町)
 約二年振りの舞阪。先回は小雨模様だったが、今回は快晴であった。
 先年浜松市に合併した舞阪町だが、その後はあまり好情報は入ってこない。地場産業である、楽器製造が芳しくないようだ。変わらず立ち並ぶのは、東海道松並木である。その松並木は、往時の五分の一の本数で、また二代目のものが多いが、他所と比べても遜色ない程の整備状態である。
 

(関連記事:浪小僧
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宝飯郡第十二大区三小区神社誌 大崎住吉神社

2008-02-25 00:00:37 | かみのやしろ

(住吉大明神 愛知県豊川市大崎町門)
 明治8年(1875)牛久保八幡神社祠官島田四郎が記した、『宝飯郡第十二大区三小区神社誌』の七社目に掲載されている。
 住吉神社は、大崎村の高台に鎮座し、祭神は中筒男命(ナカツツノオノミコト)を祀る。創建時期は明らかではないが、平安時代の『三河国内神名帳』にみえる「正三位 津守大明神 坐宝飯郡」は、この社とみられている。同社の最古の棟札には「元和三年(1617)十一月二十七日、奉造立住吉大明神」とある。また、同社のある大崎村のことを『豊川村誌』には、「蚕犬ノ尾ヲ埋メタルヲ以テ尾崎村ト称セシヲ、中古ヨリ大崎村ト書セシヨシ」とあることから、犬頭の糸の伝説のある北隣千両村と、何らかの関わりの地であったことが推測できる。
 大正3年に菅原社を境内に迎え入れている。
 
                      (菅原社)
(平成13年例大祭 神輿渡御 御旅所)

(境内詳細)


(境内詳細)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風林火山扇子

2008-02-24 21:00:58 | kourei-ki-日記-
…ポストになにやら大きい封筒が。
JR東日本と書いてある。
開けてみると「風林火山扇子」が入っていた

あ、そういえば、秋に長野へ出かけたときに応募したものだった。
確か、200名様だったはず…
日頃運の悪い私のことだから、応募者数201名だったのだろうか…
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

酒人神社

2008-02-24 00:00:11 | かみのやしろ
(愛知県岡崎市島坂町 1983年2月)
 この日は、安祥城から、鹿乗川沿いのこの地に差し掛かった。
 酒人親王と倉稲魂神を祀る、酒人(さかと)神社は、社伝によると、酒人親王または酒人造がこの地に来住し、そこに倉稲魂神(ウガノミタマノカミ)を祀り、酒を醸造して朝廷に献上したことから、酒造の神として追祀したものと伝えている。平安時代の記録『延喜式』には、碧海郡六座の一社として、酒人神社の名が見える。また、『三河国内神名帳』には「正五位下酒人天神」とある。更に元文年間の書物『三河国二葉松』には、「日本書紀」継体天皇の皇子、菟皇子(ウサギノミコ)は、酒人公の祖とあるのを当社(酒人神社)に当てている としている。
 また、辺りの地名にも坂戸(さかど)村と残し(後に島村と合併され「島坂」となる)、周辺には弥生時代中期から平安時代にかけての遺跡と、現在は消滅してしまったが、条理制遺構を残していた。境内には、「美酒発祥地」の碑が建てられている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渥美郡第二部内神社誌第九番 岩田八幡神社

2008-02-23 00:00:34 | かみのやしろ

(田尻八幡神社 岩田八幡宮 愛知県豊橋市中岩田一丁目)
 明治10年(1877)旧渥美郡第二部内(現豊橋市内)の各社をまとめた『渥美郡第二部内神社誌』及び明治8年(1875)『愛知縣第十五大区二小区神社境内其他什物取調書』に掲載されている神社である。
 岩田八幡神社は、正保四年(1647)吉田藩主小笠原忠知が、吉田城西側の吉田神社に祀られていた八幡社(誉田別尊=ホムタワケノミコト=応神天皇)を田尻村(後の岩田村)に遷宮し、建立したのが始まりという。その後、昭和24年になって、境内に豊岡中学校を開校することになり、八幡神社北東の字中郷中、琴平神社に合祀されたが、昭和36年に分祀復活し、琴平神社に隣接して社殿が建てられ、現在に至っている。
 

 『愛知縣第十五大区二小区神社境内其他什物取調書』には、以下の記載がされている。
  
 三河國渥美郡村社田尻村
  八幡宮
一、境内反別九反九畝拾歩、但無税地、内、壱反六歩五厘、現今境内、八反八畝弐拾三歩五厘、旧境内  一、立木五百三拾本、内、松弐百八拾壱本、内、壱本、現今境内之分但、長凡二間、廻リ二尺、弐百八拾本、旧境内之分、但、長凡一間分五間迄、廻リ一尺ヨリ五尺五寸迄、檜百四本、内、拾七本、現今境内之分但、長凡一間分三間迄、廻リ一尺ヨリ四尺迄、八拾七本、旧境内之分、但、長凡一間分二間迄、廻リ一尺分三尺迄、雑木百四拾五本、内、弐拾五本、現今境内之分、但、長凡一間ヨリ二間迄、廻リ一尺ヨリ三尺迄、百弐拾本、旧境内之分、但、長四△前と同  一、境内建物、三ヶ所、此建坪、弐拾五坪五ト  一、鏡、壱面、安永三年八月寄附氏子  一、神酒錫、二、天保五年正月寄附氏子  一、机、壱脚、文政三年八月寄附氏子  一、幟、弐本、寛政九年八月寄附氏子  一、幕、片方、弘化四年八月寄附氏子  一、大鼓、二、寛政八年八月寄附氏子


(境内図面)




(境内詳細)




(関連記事:中岩田

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊橋 2008年2月

2008-02-22 00:00:19 | ご近所漫ろ歩き

(愛知県豊橋市)
 今日は、一ヶ月前から空けておいた予定が急遽無くなり、所用の処理も兼ねて、隣市豊橋へ向かった。
 東海地方で唯一残り、且つLRT導入予定でバリアフリー化の進む市電に乗り、岩田地区へ。この地は明治時代に下岩崎村と田尻村が合併し、その一字ずつを取って岩田村となったところである。
   
 江戸時代に吉田藩が築造し、現在は市運動公園の憩いの場となっている水神池と、そのほとりに鎮座する、同じく江戸時代に開発された平川新田の守り神、神明社を改めて参拝した。付近はようやく春の訪れを告げた、梅の花が咲きつつあった。
 
 駅前に戻ると、豊橋西武の存在した場所に新しいビルが形を成し始め、渥美線の新豊橋駅も工事が進んでいた。
 将来の政令指定都市の玄関口ともなるべき、駅周辺の改善が進んでいる。

(関連記事:新豊橋駅開業

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡崎藩 川西手永

2008-02-21 00:00:39 | 城郭・城下町
(愛知県岡崎市下佐々木町 1983年2月訪)
 「手永」とは、藩が領内に行政区画を設けたことの名称であり、その管理者として「大庄屋」を任命し、地域を支配させていた。
 岡崎藩では、正保四年(1647)藩主水野忠善のとき、この手永制及び大庄屋制を採用し、明和六年(1769)藩主が本多忠粛に変わったときには、六つの手永が設けられた。その内の一つが、この「川西手永一万石大庄屋」太田家である。
 他に、上野手永(中園村)岩槻家、堤道手永(中ノ郷村)長嶋家、額田手永(薮田村)神尾家、東山中手永(洞村)永井家、山方手永(六名村)斎藤家が存在した。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渥美郡第二部内神社誌第四番 仁連木稲荷神社

2008-02-20 00:00:16 | かみのやしろ

(古城稲荷 愛知県豊橋市仁連木町)
 明治10年(1877)旧渥美郡第二部内(現豊橋市内)の各社をまとめた『渥美郡第二部内神社誌』及び明治8年(1875)『愛知縣第十五大区二小区神社境内其他什物取調書』に掲載されている神社である。
 稲荷神社は、明応二年(1493)戸田宗光が二連木城を築く際、城の四隅を守る四神の一つとして、南東隅に豊受姫命(トヨウケビメノミコト)を祀ったのが始まりという。廃城後は移転し、二連木城の東郭跡に鎮座している。
  下図面の中には、「東田村字郷浦」と書かれているが、この頃南側の東田村に一時期統合されていた。

 『愛知縣第十五大区二小区神社境内其他什物取調書』には、以下の記載がされている。
 
 員外社仁連木村 稲荷神社
一、境内反別六畝歩、但旧境内無之、有税地  一、立木弐拾五本、内、松四本、但、長凡壱間ヨリ三間迄、廻リ一尺ヨリ五尺迄  雑木弐拾壱本、但、長凡右同、廻リ一尺ヨリ三尺迄  一、境内建物、壱ヶ所  此建坪、八坪五ト  一、鏡、壱面、年月不詳、寄付氏子  一、木狐、壱對、但石造右同  一、幟、四本、但木綿、文政八年二月寄附氏子

(境内図面)




(境内詳細)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊田水源古墳群

2008-02-19 00:00:21 | いにしえびとの睡

(愛知県豊田市 1991年2月19日踏査)
 この日は、矢作川左岸室町から、完成間もない山室橋を渡り、右岸平和町の丘陵上に存在する「岩鼻古墳」を訪れた。辺りは雑木林に覆われ、僅かな地面の盛り上がりで確認するしかないが、6世紀に築かれた円墳で、直径16m,高さ0.8mであり、埴輪を有している。(トップ写真は遠景)
(岩鼻古墳 北側から)
 岩鼻古墳から水源町を南西に進むと、地図上で見る地形と大きく異なっていることを感じた。急激な都市化が進み、新切3号墳はガソリンスタンド、新切東B遺跡は宅地化、水源山南古墳は道路築造により滅失し、小猿投遺跡は宅地化、池ノ表古墳は墳丘周囲が造成工事の最中であった。
 (池ノ表古墳)
 更にに進むと、河合町に差し掛かる。この地には付近で唯一、明確に確認できる豊田大塚古墳があり、直径30mの円墳で、高さ3.5mの二段築成であり、周濠を持っている。昭和38年の発掘調査によって、竪穴式石室と、撥形の横穴式石室が検出され、内部から鉄刀、馬具、装飾品の玉類多数と、「器台付四連坩」と称された須恵器が見つかっている。(石室は保護舎が設けられている)また、「蜂巣状多孔頭円筒埴輪」という特殊な埴輪も検出された。これら遺構、遺物から6世紀初頭の地域の権力者の墓とみられている。
  (左側は、「蜂巣状」埴輪片)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宝飯郡第十二大区三小区神社誌 長草素盞鳴神社

2008-02-18 00:00:06 | かみのやしろ
(牛頭天王社 愛知県豊川市長草町八ッ畑)
 明治8年(1875)牛久保八幡神社祠官島田四郎が記した、『宝飯郡第十二大区三小区神社誌』の六社目に掲載されている。
 素盞鳴神社は、長草村の北端の佐奈川沿いに鎮座し、祭神は素盞鳴尊(須佐之男命=スサノオノミコト)を祀る。創建時期等、詳細なことは分かっていないが、天文二十年(1551)と永禄十三年(1576)の棟札が残り、双方に「奉造立五頭天王」と書かれている。

(境内図面)


(境内詳細)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上和田城

2008-02-17 00:00:09 | 城郭・城下町
(和田城 上和田古屋敷 愛知県岡崎市上和田町南屋敷 1982年訪)
 南北朝時代、下野国の新田義貞臣宇都宮泰藤が、この和田郷に移り住んだのが始まりという。
 泰藤の孫、泰道のとき、姓を宇津と改めている。そして泰道の子泰昌のとき、加茂郡松平に移って松平氏臣となっている。泰昌から五代を経た永禄六年(1563)忠俊のとき、三河一向一揆が起き、所縁の地であるこの和田に、改めて砦を築き奮戦している。(織田方の上和田砦は、北西側の字城前に位置する)
 その後、越前国大窪藤五郎某が当地に来て、大窪の姓を忠俊に託し、忠俊からは姓を大窪を名乗り、後にに大久保と改めたという。現在城跡付近には「大久保氏一族發跡地」の碑と、「和田城用心壕跡」の碑が建てられている。
 上和田村には、鎮守として「糟目犬頭神社」があったが、矢作川の洪水により、和田十二郷の一つである南隣りの宮地村に移された。その地は、松平氏に仕え、三河三奉行となった、本多作左衛門重次が享禄三年(1530)に出生した地でもあり、碑が建てられている。
 また、犬頭神社の社伝には、「上和田城主宇都宮泰藤は貞和二年壬辰五月当社に於いて鷹狩す、時に社殿の坤の方に七囲世の大杉樹あり、泰藤樹下に憩い仮寝す、樹に巨蛇あり、首を垂れ将に泰藤呑まんとす、率いる処の白犬頻に吠へ泰藤を警す、泰藤驚き覚む、然れども此事あるを知らず、亦眠り亦吠ゆ此如再三、泰藤怒り差添の刀を抜き犬頭を断つ、頭忽ち飛騰し蛇の噛み之を殺す、泰藤驚き且つ悔いその犬を以て犬頭霊神として糟目神社に合祀す」というものがあり、更には、宇都宮泰藤が新田義貞の首を京都より取り返し、首塚として祀ったと伝える祠がある。
  
(由緒の刻まれた、越前国産の石材を用いた鳥居)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音羽 下林古墳

2008-02-16 00:00:12 | いにしえびとの睡
(愛知県宝飯郡音羽町萩字下林 1991年2月7日踏査)
 今まで竹薮であったこの地が、伐採され明るくなっていたので踏査してみることにした。墳丘上は横穴式石室の一部石材が露出しているが、石室自体は撹乱しているものとみられる。そして、その石室の前に祭壇の準備がされていた。また、「下林古墳」の標柱が新たに設けられていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする