flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

ハイカラ川越

2007-10-31 00:00:31 | STRUCTURE-構造物残影-
(埼玉県川越市)
 「蔵の町」南側には、大正時代からの建物と風情が残る。
幸町の商店街や、大正7年(1918)に建てられた旧八十五銀行本店本館(現埼玉りそな銀行川越支店)、一歩路地を入ると、昭和3年(1928)に建てられた旧武州銀行川越支店(現川越商工会議所)があり、そこから「大正浪漫夢通り」と名付けられた商店街が始まる。更に進むと、本川越駅から川越駅に至る「クレアモール」となり、大勢の人でごった返す。
      
 JR、東武川越駅と西武本川越駅を合わせた一日の乗降客は約27万人、川越市の人口は約33万人、私の住む地方の同規模の市の人口、乗降客とは比較にならないほど活気がある。
   
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刈宿 大仏

2007-10-30 00:00:44 | 大きな仏さま

(常福寺大仏 愛知県西尾市刈宿町)
 浄土宗天沢山西光院常福寺は、長徳の頃(995-98)勅命に背き、流罪となった源満国がこの地に辿り着き、母の菩提を弔うために当初は天台宗として開創した寺院である。
 昭和3年(1928)大典記念、海上安全として、造形師後藤鍬五郎、山田光吉らによって総高14m(仏高4.5m)の鉄筋コンクリート製(塗色)大仏が造られた。同寺の山門を兼ねていたため、当初は台座下を通り抜けできていたが、木造の山門完成後は塞がれ、背後のみ口を開けている。また、内部には阿弥陀如来等が祀られており、耐震性とコンクリート重量の軽減、そして換気から、独特な内部構造をしている。
     

    
(関連記事:刈宿古屋敷 常楽院閻魔堂

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小江戸 川越

2007-10-29 00:00:41 | 街道・宿場町
(埼玉県川越市)
 「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」と謳われた川越の町。
川越城の城下町として、また中山道の脇往還である川越街道の宿場として、更には荒川水系である新河岸川の舟運でも栄えたまちである。
    
 川越市伝統的構造物群保存地区である町並みには、寛政四年(1792)建造の大沢家住宅等、町屋造りや蔵造りの建物があるが、明治26年(1893)には川越大火があり、殆どは大火以降に再建されたものである。
   
 いわゆる蔵の町並みといわれる旧南町通りと、川越街道の起点である川越城大手門の間には、寛永年間、藩主酒井忠勝によって設けられたという高さ約15mの「時の鐘」の鐘楼があり、鐘撞守が時間を知らせていたという。現在の建物は四代目であり、自動で時間を知らせている。
  

 
 この後は、大正時代の名残を残す路地へ向かった。
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今水寺跡

2007-10-28 01:00:17 | ほとけのいおり

(愛知県新城市八名井)
 標高382mの吉祥山北斜面に位置する八名井地区。
豊川、宇利川左岸のこの集落は、水が豊富なところでもある。故に縄文時代からの人々の営みがあった。然し伝説では、水の少なかったところとされている。
この村に通りかかった弘法大師が、錫杖で八ヶ所の地面を突いたところ、水がこんこんと湧き始めたという。それは亀井戸、男(大)井戸、女(小)井戸、柳井戸、桜井戸、稚児井戸、藤井戸、岩井戸の八つ井戸で、地名の由来といわれている。
(三河三水:今水、鑓水(豊川市大木町)、吉水(新城市稲木))
その藤井戸、岩井戸、稚児井戸の湧き出た吉祥山中腹に、谷を挟んで東側八坊、西側四坊の十二坊(安養坊、池之坊、岩本坊、円寿坊、木之本坊、地蔵坊、杉本坊、泉龍院、滝本坊、等覚坊、不動坊、山本坊)を配した真言宗吉祥山今水寺が建てられた。そして山頂には吉祥天が祀られ、吉祥山の名の由来となったとされている。
 私が寺跡に最初に訪れたのは昭和58年。麓に住む私と同名の方に案内していただき、この寺跡を巡った。あれから24年が経過した。
途中の林道は、その後完成した水道タンクまでの区間が舗装されていたが、それ以上は変わらない光景であった。

   
 平安時代に隆盛を極めた今水寺であったが次第に衰退し、円寿坊だけになったという。そして元亀四年(1573)野田の戦いの際、武田勢がこの今水寺に陣を構えようとしたが、拒否されたことにより火を放たれ、僧侶も殺害されたという。このとき、今水寺は過去のものとなった。
その後、文政十一年(1828)に一時「延寿庵」として再興したが、明治6年(1873)に廃寺となっている。
 今水寺本堂のあった南側には当時から祀られていた守護神の熊野三社が現在も建ち、本堂の北西側に鐘楼、そして墓地が存在した。本尊十一面観音は、麓の集落に建つ「阿弥陀堂」に移され、今も住民によって守られている。
        
(関連記事 川添道八名井 旗頭城

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富岡コスモス迷路

2007-10-28 00:00:30 | ふるさとの木々
(愛知県新城市富岡)
 地域の皆さんによって休耕地を利用して育てられたコスモス畑は、3,500㎡に40万本のコスモスが花開いている。訪れたときは天候もあまり良くなく、花もやや盛りを過ぎた感じであったが、緑の地域に彩りを放っていた。
 その花の量を利用して、迷路が設けられている。大勢の人が、花びらの中で行ったり来たり迷い続けていた。
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川越城

2007-10-27 00:00:34 | 城郭・城下町
(河越城 埼玉県川越市 県指定文化財 日本100名城19番)
 住宅地の中に存在する城跡、その一角に天守代わりであった富士見櫓跡の土塁と、川越高校側に堀の一部が残っている。櫓跡には御嶽神社や、「稲荷詞」と刻まれた祠等がある。近年、川越藩士末裔宅から富士見櫓の図面が見つかり、二層の櫓の再現計画が持ち上がっている。
 富士見櫓からまた住宅地を挟み、本丸御殿がある。
現在残るものはその内の玄関、広間部分と家老詰所で、嘉永元年(1848)松平斉典(なりつね)のとき築造されたものである。貴重な建築物である御殿のすぐ前は道路であり、その前は駐車場となっている。日本100名城に選定されたが、現状維持だけではなく、それに似合った整備も望まれよう。このことに関して、御殿管理職員の方も同様の見解であった。
 本丸御殿の南東、大同二年(807)創建の三芳野神社境内にも天神郭部分の土塁の一部がある。これら以外に残る遺構は、外堀の代わりとなっていた新河岸川以外はなく、九万八千坪あったという城地の殆どが市街地化され、住宅の他、多くの公共施設に変わった。せめて本丸部分及び現存する三ヶ所の遺構の一角でも整備されていたらと、非常に残念に感じた。寧ろ川越城外郭ともされる、喜多院に残る堀、土塁の方が残存状態としては良い。
 現在、二の丸跡が市立博物館、美術館、三の丸跡が住宅地、馬場跡が川越高校、武家屋敷等が小中学校、市民会館、市民体育館、市役所等になっており、小江戸蔵の町並みを観光としながらも、城下町としての城跡の整備は軽視され、手遅れ感が否めない。最も最近である、平成2年開館の市立博物館及び美術館建設の際にも、二の丸跡再現等を考慮せず建てられている。
      
 川越城は長禄元年(1457)上杉持朝臣太田道真及び資長(道灌)によって築かれた。
天文六年(1537)北条氏綱が攻め落とし、北条氏の拠点の一つとなった。そして天文十五年(1546)になると、関東管領上杉憲政、上杉朝定、古河公方足利晴氏が連合軍を組み、七万の兵で川越城を取り囲んだが、結果、川越城北条氏康側が勝利した。(川越夜戦)
 天正十八年(1590)豊臣方の前田利家勢に攻められ落城し、三河西尾より酒井重忠が入城する。また、寛永元年(1624)酒井忠勝のとき、現存する三芳野神社社殿を造営している。
寛永十二年(1634)からは堀田正盛が入り、寛永十五年(1638)信濃松本へ移封、代わって武蔵忍から大河内松平信綱が入り、城郭の拡大を行った。
元禄七年(1694)松平信輝は下総古河に移封し、柳沢吉保が入ったが、宝永元年(1704)に甲斐甲府に移った。続いて甲斐谷村から秋元喬知が入り、明和四年(1767)秋元涼朝のとき、出羽山形へ移封し、上野前橋から越前松平朝矩が入り、廃藩まで松平氏が務めた。
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旗頭城

2007-10-26 00:00:17 | 城郭・城下町
(吉祥山城 愛知県豊川市金沢町・新城市八名井)
 元亀四年(1573)野田の戦いの際、徳川家康勢三千が陣を敷いたという旗頭山(98m)は、吉祥山(382m)の支丘であり、古墳時代終末期の積石塚といわれる尾根古墳群が存在する山でもある。
その旗頭山も、連なる山と共に古墳群の文化財指定範囲外は年々採石によって縮小していっている。
 南朝史学会によると、南朝延元年中(1336-39)一宮町金沢(現豊川市)吉祥山旗頭城が存在したとしている。
また、私が昭和53年から56年にかけて付近を訪れた際に、付近の何人かの住民から「八名井神社、龍雲寺の辺りにお城があったという言い伝えがある」という話しを聞かされた。確かに八名井神社を中心に、西屋敷、下タ屋敷、上地屋敷、豊辺屋敷等の地名が残っている。
 
(関連記事:川添道八名井 今水寺跡
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仙波堀の内 喜多院

2007-10-25 00:00:39 | 城郭・城下町

(埼玉県川越市小仙波町)
 天長七年(830)開山の天台宗星野山無量寿寺(川越大師)及び仙波東照宮には、深い堀と土塁があり、川越城の前身、または外郭ではないかという説がある。
同寺はその後、寺内に北院、中院、南院が設けたが、北院だけが残った。
そして慶長四年(1599)南光坊天海が入寺し、その北院が喜多院となった。
寛永十五年(1638)の川越大火による焼失後は、徳川家光によって江戸城から御殿を移築している。
   
 また、堀に架かる「どろぼう橋」は、江戸時代、泥棒がこの橋を渡って喜多院に入り、寺人に諭され改心したところからきているという。

(関連記事:川越城 小江戸川越 ハイカラ川越

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Roppongi

2007-10-24 00:00:52 | 漂い紀行

 森タワーが完成してからは初めて訪れる。
この六本木、恵比寿そして名駅は、いわゆる超高層ビル(Skyscraper)地帯であり、その地域の景気を象徴しているといわれる。
「六本木ヒルズ」周辺は潤っているようだったが、それ以外は以前とさほど変わっていないようだった。
    
 続いて乃木坂方面へと歩を進め、招待を受けている、今年開館した新国立美術館に入る。フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展等を観覧した。
訪れたこの日、この建物を設計した黒川紀章氏が逝去した。同氏とは面識はないが、同氏の師とされる丹下健三氏は、出身地の愛媛県今治市が私の父の故郷であり、整形外科医をしていた祖父が、近所の丹下氏が来院したこともあり知り合いだったという。
    

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鏡ヶ浦 北条海岸

2007-10-23 00:00:23 | 海道・みなと
(館山湾 千葉県館山市)
 今回の宿は汐入川の河口にあった。窓から釣りができそうな、真下は海水が満ちる。
鏡ヶ浦は波静かで、形状が円を成しているところから鏡のようであるとして名付けられたものという。そして天候によっては富士が見えることもあり、富士見の名所にもなっている。
 かつては海水浴で賑わった海岸も、近年は閑散としたものだという。

(関連記事:館山城
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一宮の大堀

2007-10-22 00:00:50 | 水のほとり
(愛知県豊川市一宮町)
 この場合の「大堀」は、災害と治水の両面を持つものである。それは大雨により、川が水嵩を増して氾濫したときに水害をもたらすが、その後氾濫分流したいわゆる「野水」といわれるものが、次第に「水みち」としてまとまり始め、それを人の手によって掘削、浚渫を施し、放水、分水、排水路としての役目を持たせたのである。よって人工の川ということで俗に「大堀」と呼ばれた訳である。この場合での大濠は、城郭の周囲に掘られた防御のための堀と造られた理由は異なるが、後に排水大堀を利用し、写真にある一宮砦横の大堀のように城郭を構えた場合もある。
 一宮の大堀は、標高789mの本宮山から発する豊川支流宝川が、宝川支流の白鳥川合流付近の小南口原(こなこうばら:一宮中学校裏手付近)から分流し、吉田往還(伊那街道)に沿って流れ、砥鹿神社の社叢の間を流れて、後の一宮砦横で豊川(とよがわ)に注いでいたようである。然し、次第にその用途は無用のものとなり、人々から忘れ去られていった。往時の痕跡は早くから失われたようだが、戦時中の開墾前までは、所々名残として存在したようである。
また、一宮砦横の谷の深さから推察して、垂直方向に存在する帯川(足山田町から佐奈川に注ぐ川)の旧流が、大木地区の条理を築く以前に、この場所に注いでいたのではないかとも想像できる。
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館山陣屋 貴美稲荷

2007-10-21 00:00:42 | 孝霊天皇流族関係記事

(千葉県館山市)
 御霊山からまた城山の方へ足を向けた。
「鍵形の道」といわれる小道を入ると石段が現れる。上ると鬱蒼とした中に少し屋根の壊れた小さな社殿がある、これが貴美稲荷神社である。
中を覗くと、「正一位貴美稲荷大明神」の神額と、折敷に三文字の神紋が置かれている。それは、この場所に稲葉氏の館山陣屋があったからである。
 天明元年(1781)稲葉正明が一万石で館山の知行を始め、寛政三年(1791)旧館山城南東麓に陣屋が設けられた。このとき敷地内に祀られたのが、この貴美稲荷である。また、折敷に三文字は、河野氏族稲葉氏の家紋である。
 稲葉正明、正武、正盛、正巳と続き、明治4年(1871)正善のとき廃藩となり、一時的に館山県となったが、間もなくして木更津県となり屋敷は廃され、神社だけが残された。
現在、神社以外で残るものは、陣屋跡の平地と、「御屋敷」の地名が残るのみである。
また、陣屋跡の近くには館山城時代、里見氏の家臣、印東釆女(うねめ)の屋敷にあったという井戸が残されている。
   

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一宮砦

2007-10-20 00:30:40 | 城郭・城下町

(一宮城 一宮端城 愛知県豊川市一宮町 市指定史跡)
 私の家に最も近い場所にある城跡。故に幼い頃から馴染み深いところでもある。
大堀」と呼ばれる段丘上を切り裂いた野水路の河口部分と、文安四年(1447)までの古豊川の跡である河岸段丘端との角地の地形を利用して築かれた砦である。また、古城の地名も残っている。
 虎口は桝形を成しており、左右向かって土塁の一部を残し、防御性の高い大堀側と古豊川側は低土塁を配している。南側は堀が道路となっており、崖面から当時及びそれ以前の陶器片が散見することがある。また、以前は井戸が残存していたが、今は確認できない。
 一宮砦は永禄五年頃に今川勢侵攻を防御するため、松平元康(後の徳川家康)臣本田信俊によって築かれた砦である。永禄六年(1563)(五年説、七年説あり)今川氏真勢によって包囲されたが、その背後を元康勢が布陣し、氏真勢は退散した。これを俗に「一宮の後詰」という。
 戦勝した元康は、その後砦に隣接する砥鹿神社に参詣し、その際神職の草鹿砥家に元康の胴衣を与えたという。草鹿砥家は、近隣日下部村領主日下部氏の裔といわれ、現在は砦跡の所有者である。
      

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ROBOT MUSEUM in NAGOYA

2007-10-19 06:00:41 | STRUCTURE-構造物残影-
 私は多分、他の人と比べるとロボットに対して馴染みが薄いのだろうと思っている。
子どもの頃は、アルプスの少女ハイジ、フランダースの犬、母を訪ねて三千里、一休さん等情操系アニメを主に見ていて、正義感はあっても「闘う」系のアニメはあまり見なかった。然し、他の子どもと同じように、たまにはロボットのプラモデルをつくったりして遊んだこともあった。
 そんな中、9月末で休館する名古屋栄のロボットミュージアムに訪れてみた。
子どもたちにとっては、子ども向けイベントもあり、わくわくするだろうと思ったが、入場料の高さもさることながら、客のリピート性につながり難い設定や場所の手狭さ、小さなものが多いこともあって、大人にとっては物足りなさを感じた。
また、立地は良い筈であるのに、この場所の特性であるのか、過去の商業を見ても落ち着きがない。狭い範囲内に、凝縮した要素を要求される都会の中心地であるため、面積の狭さや、低層施設故の単一性業種の店舗特性、それにより客層が限定され、相乗効果が得られず事業に響いたのであろう。
 元々松坂屋の資産に、大阪の不動産会社と企画運営会社により3年間の期間限定で始まった事業企画が、来館者目標を大きく達成できなかったことで、開館1年を待たずに運営会社が撤退したのである。
 このような施設は、内容と規模を調整して科学館や愛知万博跡地等、公共文化、学習施設等に併設して運営するほうがまだ生き残れるのかもしれない。
    
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天王山 御霊山

2007-10-19 00:00:02 | 城郭・城下町
(千葉県館山市)
 城山から東麓の館山城馬屋のあったとされる宗真寺に向かい、続いて東側に並ぶ独立した二つの丘、天王山(てんのうやま)と御霊山(ごりょうやま)に向かった。
双方の丘は、館山城の外郭惣構えの一部を成し、支城の役割も成していたものと推定される。
山の東側には堀の跡があり、御霊山の東では明確に残っている。発掘調査により水堀であることが分かり、館山城の周囲に築造された外堀、鹿島堀につながるものであることが分かった。
南東側の現存する堀が途切れるところでは、堀割内に建物が建ち、異様さを放っている。
 
 続いて館山陣屋跡及び貴美稲荷神社へ向かった。
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