flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

菜の花おこわ

2007-02-28 22:30:25 | てんゆうれしぴ
 先日の菜の花が満開の光景…ということもあって、それを食材にしてみた。
おかずは質素でも、少しはごちそうに感じるかも…。
もち米と、だし汁をベースに味醂(または酒と砂糖少々)を少々、千切りの人参と、山菜の水煮を入れ炊きます。別に軽く塩茹でしておいた菜の花を炊き上がってから混ぜ合わせると出来上がり。
 好みでごま塩を加えると、おかずいらずかも…。
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岳都 松本

2007-02-28 06:00:55 | 漂い紀行
(2004年2月29日)
 二年振りの信州松本。
この日は天候が芳しくなく、到着した際小雨が降っていた。
先回は美ヶ原温泉へ向かったが、今回は浅間温泉に立ち寄った。
 温泉は、天慶二年(939)この地の豪族犬飼氏によって発見され、「犬飼の湯」と呼ばれたのが始まりとされるが、日本書紀や万葉集にも浅間温泉らしき記述が見え、起源ははっきりしない。
浅間温泉会館で湯に浸かり、天候回復待ちを兼ねて休憩。次第に回復し、浅間を後にし再び市街地へ。
当初、先ずアルプス公園へ向かう予定だったが、午後から向かうことになった。然し公園行きのバスの本数が約二時間に一本しかなく、待ち時間で大手町付近を散策。先回再建途中であった松本城太鼓門が完成していた。
 ようやく標高約800mの公園に辿り着いた。眺めは良いが、すっきりとは晴れなかった。また、アルプス山岳館も冬季休館で、今日まで休み、三月一日から開館。休日というのに売店も閉まっており、小動物園はあるものの観光地としては、やや寂しさを隠せなかった。
公園内は整備途中が目立ち、後方にも拡張予定があるようだが、あまり進んでいない様子。
早々に引き揚げようと思ったが、帰りのバスも待ち時間が相当あり、歩いて丘を下りることとした。道程は長かったが、標高の高いところに密集する住宅地を見ながら、松本市北部に住む住人の気持ちを想像した。
      
(関連記事:上高地 美ヶ原 梓橋
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円城寺

2007-02-27 00:15:01 | 街道・宿場町
(羽島郡笠松町円城寺)
 木曽川本流が天正年間に円城寺の南を流れるようになって、この地に尾張からの渡し場が設けられた。
その後岐阜街道黒田から三宅印食を経て岐阜に至る尾張藩主通行道路御成道が整備されたのである。
 元々尾張国葉栗郡木瀬というところであったこの地は、流路変遷によってその後美濃国羽栗郡円城寺村となった。
円城寺の川沿いには、木曽川沿いに置かれた御番所の野々垣源兵衛ら川並奉行の墓がある圓城山専養寺、榮日山聞瑞寺、そして河野九門徒の一つである葉栗山河野圓城寺がある。
   
(河野門徒関連記事:竹鼻 下印食 三宅 黒田 )
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「八幡砦」発掘調査

2007-02-26 00:00:20 | 城郭・城下町
(2000年2月26日 平成11年度発掘調査)
 現地説明会の当日は、訪れることはできなかったが、「国分寺北遺跡」の調査地点を踏査した。
昨今の情報化社会の影響もあろうが、現説翌日の底冷えする今日のような日でも、見学者が見受けられた。
 八幡台地は、先土器時代からの人々の営みが確認されている遺跡の宝庫であるが、今回の調査によって、弥生時代後期の方形周溝墓や、国分寺関連の住居遺構、中世の住居遺構、また、「八幡砦」の堀・土塁・土橋遺構などが確認された。
 八幡砦は、碧海郡中島城主であった今川氏臣板倉重定が、永禄四年(1561)に松平元康によって追われ、額田郡岡城に移り、更に敗退して宝飯郡八幡村に砦を築いたのが始まりである。然し翌年、重定(弾正)は元康勢との戦いで討ち死にした。また、この戦いで渡辺守綱が戦功をあげたので「槍半蔵」と呼ばれるようになったといわれている。
八幡砦は、今までの説として、八幡宮境内地説と国分寺跡遺構利用説とが存在していたが、今回の台地西端に城郭残存遺構が確認されたことにより、八幡地区の歴史を紐解く上で、かなりの裏付けとなったといえる。
 これから先予定されている区画整理事業の進展によって、更なる埋蔵文化財が確認されて行くことであろうが、「発掘調査」は、「事実」を後世に残すことに対しては最良の手段ではあるが、あくまでも破壊を前提とした作業であり、「歴史」を後世に伝えて行く最良の手段とはいえないということを、最後に付け加えておきたいと思う。
       
(順に砦土塁、98D地点、98B地点建物跡、98B地点掘立柱建物跡柱穴群、砦土塁、98B地点掘立柱建物跡、99C地点竪穴式住居跡砦堀跡、砦縁端、土塁西)
(関連記事:平成15年度八幡砦跡発掘調査
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下呂

2007-02-25 00:30:09 | 街道・宿場町
(2001年2月24・25日)
 春の兆しが感じられる今日この頃… 冬の名残を見届けるために奥美濃を訪れた。
この地方では雪が残るものの、やはり確実に春は到来しつつあった。
日中はぐずついていた空模様も、黄昏時には清々しい流雲の向こうに輝く星が瞬いていた…。
夜の飛騨越中街道下呂のまちを漫ろ歩き、小さな旅館に泊まった。
 

 翌朝、飛騨の朝は少し冬に逆戻り… 朝日に輝く降雪は‘純粋’という美しさ。
‘山の天気は変わりやすい’というように、冬の演出と春の木漏れ日が主役を競いあっていた。
     
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長山城

2007-02-24 00:30:20 | 城郭・城下町
(長山屋敷 豊川市下長山町)
 私が豊川の城屋敷跡をまわり始めた頃、市教委や郷土史家の方たちから「長山城、岩瀬雅楽助(うたのすけ)居城、天文元年築城、堀、土塁残る」をご教示いただいた。
上善寺南側、旧吉田往還南側(新道北側)の字北側にあって、宅地の裏、畑地のうち一部分残る堀と土塁の部分が藪地となっていた。
現在は東側にアパートが建ち、遺構も以前より小さくなっているが、土塁と堀の窪みが確認できる。
 長山城は、砦とも屋敷ともいい、三ヶ所の跡からなるといわれる。
享禄二年(1529)牛窪城を築城した直後の天文元年(1532)に長山城は築かれたといわれ、牧野氏臣である岩瀬氏定、氏則、山本市左衛門がそれぞれ居住といわれるが、築城者は明確ではない。
字中屋敷には、岩瀬氏屋敷跡に氏定(雅楽助)の墓所であるとされる「春光塚」があって、後に地主が堂宇を建て嘉竹居堂としたという。
 古来、苗字を持つ者は、遺体埋葬場所(最期の場所)~遥拝所(宝筐印塔・五輪塔=定期参拝)~位牌(日常参拝)があって、その習慣によるものであるのか、雅楽助の墓は牛久保光輝庵や下五井満光寺にありと、移転したのか複数あったのか、この点もはっきりとはしない。
 この他、寛文三年(1633)から元禄十年(1697)まで小笠原長定が知行した長山陣屋があったという。
  
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和田岡古墳群

2007-02-23 06:00:50 | いにしえびとの睡

(静岡県掛川市高田 1999年2月21日踏査)
 8年振りの中遠地方、そして昭和57年6月以来の掛川を訪れた。
 新幹線停車駅となったこの地も、西部である天浜線細谷駅を降りると、デンマークとスリランカが並ぶような景であった。辺りは近年住宅が増え始めているようだが、茅葺屋根の民家がまだ所々にみられる。その集落の一角、原野谷川右岸洪積台地上には40基からなる和田岡古墳群が点在する。
 「和田岡」とは、各和、高田、吉岡の各一文字を取った地名である。
(瓢塚 前方部から)
 そのうちの一つ、細谷集落からでも望むことのできる瓢塚古墳は、主軸を北に向ける全長63m、高さ3mの前方後円墳であり、付近の礫を利用し、葺石としている。出土する壺形埴輪から5世紀前半とみられ、前方部南西角が削り取られている。

(大塚 前方部から)
 吉岡大塚古墳は、全長55m、高さ現状6.1m、東側に向く帆立貝式前方後円墳である。この古墳は保存状態が良好であり、二段築成の墳丘、葺石、帯状列石、石堤、周濠が確認できる。埴輪から、5世紀中葉とみられる。

(春林院古墳)
 大塚古墳の東方、原野谷川を見下ろす台地縁端に位置する春林院古墳は、「ビオトープ(=動植物の安定した生息空間の意)自然公園」内にあり、径30m、高さ5mの古式円墳である。近年発掘調査が行われ、トレンチ跡が残る。墳頂では方形石敷遺構が検出された。
 これら3基と、金塚古墳、行人塚古墳を合わせ、平成8年に国指定史跡となった。
 掛川は、史跡案内に関しては若干遅れているように感じた。ただ最後に訪れた春林院古墳は、今後史跡公園として整備されるようである。

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野川の春

2007-02-23 00:30:50 | 水のほとり
 帰りに水辺を歩いてみた。
佐奈川は古来、雨前雨後の水量の違いから「野川」と呼ばれた。

季節先取りの今日、人間以上に植物は敏感である。
花粉が舞い始め、目が霞む今日この頃ながら、目に鮮やかな黄色が差し込んだ。

(2008年の模様へ)
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額田郡 井田城

2007-02-22 00:00:42 | 城郭・城下町
(岡崎市井田町)
 松平家臣酒井氏忠が井田野の丘陵端に築いたとされる。
忠勝、康忠、忠親と続き、忠次のとき松平清康と共に吉田城を攻め、その功により吉田城の城代を務めた。
 城地南東の井田八幡宮は、井田城酒井氏の産土神として崇められたという。
現在城跡は城山稲荷社及び公園となっていて、また三河武士の功を神格化し、清明白龍大神として祀られた社殿が建つ。
 
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80系電車 最期

2007-02-21 00:00:49 | RODEN-哀愁のRailway-
(1983年2月20日)
 2月14日に飯田線119系電車の導入により引退することとなった湘南型電車。
1978年に戦前製52形等の置き換えにより、東海道線より飯田線に転入して以来、豊橋口で活躍してきたこの車両は、80系最終型300番台の1957年製であり、車齢26年、飯田線では4年余りで置き換えられることになる。
 この日は岐阜に向かう途中、80系上り電車に乗り、豊橋駅到着で折り返し準備の「さようなら80系」のヘッドマークが付けられた。
 後日、古参の68形を先置いて、カーテンが下ろされ回送される80系電車。
更に数日後、日本車両豊川工場の片隅に、切断された80系車両の残骸が積まれていた。
 
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国府陣屋

2007-02-20 00:00:18 | 城郭・城下町

(豊川市国府町)
 安永元年(1772)字中道の高膳寺横に築かれ、国府村他十二ヶ村は遠州相良藩主であり老中の田沼意次の所領となった。
高膳寺境内には御油村境から移された「従是南相良領」の標柱が立ち、弘法山には「従是北相良領」の標柱が残されている。
天明六年(1786)意次失脚により廃止、使われていた石垣は、東海道筋大社神社の塀に使われた。
その後享和三年(1803)弘法山麓音羽川河畔に改めて陣屋が築かれ、磐城平藩主であり幕府若年寄、後の老中安藤信成の所領地となり、以後幕末まで続いた。
明治時代に入り、この場所は国府小学校となった。
 
(関連記事:切通陣屋

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穂国 八幡

2007-02-19 12:45:15 | 街道・宿場町
(本坂通 新城街道 豊川市八幡町)
 信州飯田へと達する信濃往還は、この地で姫街道と分かれ、一宮で吉田往還と合流する。
古代三河の中心地であったこの地には、国府、国分寺、国分尼寺が置かれた重要な場所であった。
国府鎮護のために勧請された八幡宮が地名の由来である。
 またこの地には古東海道(鎌倉街道)が通り、更には鳳来寺へ至る古道が発していた。
 
(関連記事:御油
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碧海郡 池端城

2007-02-18 21:00:01 | 城郭・城下町
(岡崎市昭和町)
 池端村は古矢作川分流の名残、妙覚池ほとりの自然堤防上に形成された村である。
村西部に天満宮、秋葉神社が鎮座する。
慶安二年(1649)の干拓により池は無くなったが、地名は残された。
然し、明治22年(1889)合併により中郷村となり池端村は消滅した。
 字高畑の「池端古城」は弓削氏流族上野氏裔とも、小笠原氏裔ともいわれる、足利氏臣後に松平氏臣となった長坂守重居城という。
現在は畑地、宅地となっている。

 字神郷の「池端城」は「池端古城」の西側に位置し、長坂氏同族の平岩光吉が居城した。
「池端平岩光吉畠地寄進状」には、明眼寺(後の妙源寺)に畠地を寄進するとあり、「天文参年申午八月九日 池端左京進光吉」とある。
現在は宅地となり、面影はない。
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科目修得試験

2007-02-18 12:00:51 | kourei-ki-日記-
 午前中の部は終わった。
昨日に引き続き、生涯学習論、社会教育計画そして生涯学習政策…とファジーな分野が続く。
午後の部が始まり、そして来週の一教科を終えると、今学期は終了する。
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岐阜司町

2007-02-17 19:00:49 | STRUCTURE-構造物残影-

 明治4年(1871)、笠松から県庁がこの地に移転し、司町は誕生した。
現在の岐阜県岐阜総合庁舎は昭和41年(1966)岐阜市郊外薮田に移転するまで、県庁舎であった。
 大正13年(1924)に竣工した県庁は、RC造地下1階地上3階、延面積7,759㎡の庁舎棟と、一部SRC造延面積1,656㎡の議会棟からなり、当初は11階建て塔屋付きの予定であったが、建築段階で関東大震災が発生し、現在の構造に急遽変更されたという。
 現在は岐阜県近代化遺産に指定され、内装に赤坂金生山産のシカマイア(古生代二枚貝)化石含有大理石を使用し、ステンドグラスを採用するなどの特徴がみられる。
  
 県庁に隣接する旧岐阜大学医学部附属病院は、明治8年(1875)に岐阜県公立病院として開設され、翌年この地に移転したことに始まる。
 2004年閉鎖時点で残された建物は、 1954年南病棟、1956年北病棟 、1961年中病棟、1965年看護婦宿舎がそれぞれ築造され、1967年には、当時岐阜県立医科大学附属病院であった施設を国立移管し、岐阜大学医学部附属病院となった。そして1970年放射線治療棟、外来診療棟、1972年病棟(東側・第1期工事)、 1973年病棟(西側・第2期工事) 、1976年中央診療棟、1986年リハビリ棟、1991年MRI-CT装置棟がそれぞれ築造されたが、その後は手狭となったことと、相次ぐ増築により敷地面積30,900㎡に対し延床面積69,700㎡と空間が著しく減少したこと、更に外壁落下等の老朽化が進み、耐震割合が21%で、残りの建物79%が耐震不合格危険構造物となってしまったこと等により、移転することを決定。2004年に岐阜大学分散校舎統合と共に岐阜市西部郊外柳戸に移転した。
 2007年度には解体を開始し、土壌調査後に再開発されることになっている。
事実上制約を受けやすい病院施設跡地利用を、市文化施設として整備する方針が進められているという。
 栄枯盛衰を如実に現したようなこの地を、感慨深くみる人は多いことだろう。
    

(関連記事:旧岐阜県庁舎2008

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