(東海旅客鉄道飯田線 愛知県新城市平井字若杉)
新城を出ると次の駅は東新町である。大正3年(1914)豊川鉄道時代に途中で開設された駅である。昭和46年(1971)荷物取り扱いが廃止されたのを機に、列車交換設備である2番ホームも廃止された。
(愛知県新城市豊島字キシ 1987年7月23日)
自転車で奥三河に向かう際に必ず立ち寄る場所である。この豊川右岸の河岸段丘から染み出る清水は、本宮山から延びる舌状台地から伝わる水である。
(写真は生前の私の父)
(まんざもう 沖縄県国頭郡恩納村万座 沖縄海洋国定公園)
読谷村の東、名護市の西に位置する、東シナ海に面する地である。琉球王朝第二尚氏十三代尚敬王が、万人が座れる広い草原(毛)と評したことが由来とされる。
(神奈川県逗子市)
羽田から京急線に乗り、終点新逗子に着く。記録的な高温と道東帰りということもあって、耐え難い暑さであった。空港でのテレビインタビューで帰国者が、「東南アジアより暑い」と言ったのも頷けた。
(関連記事:逗子マリーナ)
(JR東海臨時急行いせ号)
式年遷宮の参拝客輸送のため、名古屋~伊勢市間でワイドビュー85系気動車による臨時急行いせ号が運行された。名古屋駅関西線ホームには、発車時刻を過ぎてから入線。直前に、あおなみ線側に待機していたのは知っていたが、通常ダイヤを1分もずらすことなく組み込んだ結果だろう。乗客が乗り込むとすぐ発車、四日市までの単線区間はほぼ全ての退避場所で快速、普通を見送った。
長良川を越える
伊勢線中世古待避
近鉄特急と競争
紀勢・参宮分岐 多気
清流宮川を越えると伊勢市
伊勢市着
改修された駅舎
快速みえ 75系
非貫通側先頭
山田上口
殆どの複線跡が残る参宮線
(セントラルパークビル 愛知県岡崎市康生通西)
昭和47年(1972)第1次市街地再開発によって、かつて名古屋刑務所岡崎支部のあった場所に誕生したセントラルパークビル(パークモールセルビ)は、協同組合岡崎ショッピングセンタービル(レオ(後のクレオ)・松坂屋)開業に伴って築造された、地上5階地下1階、延床面積25000㎡の商業ビルである。地下1階は食料品の松坂屋ストア及び地下駐車場で、地上1階、2階は専門店、3~5階は駐車場であった。私自身もそれら専門店で服等を購入したが、市街地空洞化で次第にテナント数を減らしていき、地階の松坂屋ストアも撤退した。一時、大手家電量販店が1フロアを占有し開業したが、3年で撤退している。平成21年、地下で繋がっている松坂屋が撤退を決め、専門店であるクレオが単独での営業を発表したが、間もなく撤回しクレオも閉店を決め、テナントは廃業あるいはシビコへ移転した。その頃から新文化会館構想やマンション構想が持ち上がり始め、その後もセルビは部分営業をしていたが存続を諦め、閉鎖、解体の道を選んだ。
残された地下行き階段
周囲の土止めに利用された旧地階
(関連記事:康生町遺跡 西三河総合ビル たつきビル 康生町トマソン)
気温19度の霧の都を後にし、酷暑の東国へ向かう。途中、駅から空港に向かう際、リムジンバスが明確に表示されておらず、かつ、路線バスの空港方面行きと混同して分かり辛かったが、案の定乗り間違えたり、乗れなかったりする乗客が複数いた。
郡山市街 猪苗代湖 須賀川市街 筑波山
( 三重県伊勢市神田久志本町 1990年7月5日)
薬医門をくぐると、伊勢神宮の資料を所蔵する神宮文庫がある。明治40年、それまでの豊宮崎文庫と、林崎文庫を統合し開設された文庫であり、神宮古文書、各学術図書等27万冊が所蔵されている。以前書簡で我が家祖先の資料の有無を神宮司廳の矢野氏に問い合わせをし、文庫担当の石井氏から書簡が返ってきた。そこで今回更に詳しいことを知るために石井氏にお会いし、関係資料を調べて頂いた。
(愛知県岡崎市康生通西)
ショッピングビル、シビコの一部であった新天地ビルの5階部分には、非常口の「高所ドア」がある。現状では、この扉から外に出ると地面に落下してしまうことになる。このような違和感の感じるものをトマソンと呼び、作家の赤瀬川原平氏らが提唱した芸術概念である。平成19年まで、この非常口手前部分に4階建のたつきビルが存在した。この扉は、そのたつきビル屋上に繋がる扉だったわけである。最古参であった昭和40年建造のたつきビルに昭和51年、第2次市街地再開発によって建造された新天地ビル、中央ビル、岡崎相互ビルが繋がりショッピングビル「シビコ」が誕生した訳であるが、市街地空洞化によって次第にテナントが撤退し、ビル解体に至った訳である。第1次市街地再開発で誕生したセントラルパークビル(パークモールセルビ)及び協同組合岡崎ショッピングセンタービル(レオ・松坂屋)、西三河総合ビル(名鉄岡崎ホテル・サンリバー)も、今は過去のものとなった。これらを総称して「康生町遺跡」と私は呼んでいる。