flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

元屋敷古窯 清安寺古窯 窯ヶ根古窯

2008-03-31 00:00:32 | いにしえの人びと
(瀬戸美濃系古窯群 岐阜県土岐市泉町久尻 元屋敷古窯は国指定史跡 1990年3月25日踏査)
 隠居山から、この地に差し掛かかった。
元屋敷古窯は、天正十一年(1583)加藤景延が肥前唐津の技術を、初めてこの地に取り入れたとされる窯である。連房式登窯(斜面に造られた複数の焼成室がつながった形式)では、織部釉、黄瀬戸釉、志野釉、天目釉の焼物が焼成された。付近では唯一、窯跡に覆いがかけられ、保存措置がされている。また、この窯で焼かれたとみられる慶長十七年銘織部釉香炉が、東京国立博物館に収蔵されている。
 元屋敷古窯と清安寺古窯の中間の平地で、発掘調査が行なわれていた。
その清安寺古窯は、加藤景延の墓所である清安寺の裏側で、元屋敷に続いて江戸初期にかけて、御深井釉(灰釉)、織部釉、天目釉の食器等が焼かれた。清安寺窯に隣接して、窯ヶ根古窯があり、織部釉、天目釉の焼物が焼かれた。熱田神宮奉納の獅子紐香炉は、この窯で焼成されたという。この清安寺古窯、窯ヶ根古窯は、昭和45年(1970)中央自動車道築造に伴い、道路にかかる部分の発掘調査が行なわれている。
   (清安寺古窯)
※釉薬(ゆうやく:うわぐすり)
・御深井釉…淡い青磁色の釉薬、灰釉。尾張藩御庭焼の御深井焼をルーツとする。
・織部釉…緑色の釉薬。一般的には、焼物の一部に織部釉が掛けられ、あとは鉄釉により絵が描かれることが多い。また、焼物全体に掛けられたものを総織部といい、織部のスタイルで鉄釉を用いた黒織部(掛け分け)と織部黒(総掛け)等がある。
・黄瀬戸釉…黄色の釉薬。隣接する瀬戸焼をルーツとする。
・志野釉…白濁した釉薬。下地に鉄釉を薄く施すことによって、焼成で志野釉が灰色に変化したものを鼠志野という。
・天目釉…鉄(飴)色の釉薬。焼成中の状況によって、独特の模様が現れる。

(関連記事:段尻巻古墳・乙塚古墳 五斗蒔 大富館
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島田宿

2008-03-30 00:00:42 | 街道・宿場町

(東海道二十三番 静岡県島田市)
 今回は夕刻間近であったため、宿中心地のみを漫ろ歩いた。
往時は本陣三軒、旅籠四十八軒があったという島田宿は、大井川の難所があったために、足止めの旅人で賑わったという。然し、その大井川のために、宿開設三年後の慶長九年(1604)には、氾濫により宿が一時北側へ移されたが、大井川治水工事完了後の元和元年(1616)には、元の位置に戻されている。
 大井川側である、宿の西桝形(入口)には、正覚寺と、弥都波能売神(ミヅハノメノカミ)を祀る大井神社がある。神社は幾度か大井川の氾濫によって遷座しているが、元禄元年(1688)からは現在の地に鎮座している。参道脇には、川越人足が大井川から一つずつ運んだという「参道石垣」があり、正徳三年(1713)神輿渡御のために造営された石造太鼓橋がある。
        
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」と刻む碑

(本陣跡に建つ、おび通り からくり時計)

(関連記事:金谷宿 島田陣屋

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隠居山

2008-03-29 00:00:23 | いにしえびとの睡

(隠居山遺跡群(デスモスチルス化石発掘地・横穴古墳・隠居山大窯跡・西窯跡・北窯跡・東窯跡) 岐阜県土岐市泉町久尻 1990年3月25日/2006年4月1日)
 舌状に伸びる丘陵地の南端に位置する隠居山は、凡そ1200万年前に絶滅したデスモスチルス類(ゾウやジュゴンに近い哺乳類)のパレオパラドキシヤの化石が、昭和25年(1950)に発見されている。また、サバ土の斜面に掘られた横穴古墳が6基、古墳時代後期の須恵器窯や、安土桃山時代から江戸時代中期にかけての御深井釉、織部釉、黄瀬戸釉、志野釉等の陶器を焼いた窯跡がある。
   (横穴1号・2号墳)
(横穴3号墳)
(横穴4号墳)
(横穴5号墳)
(横穴6号墳)
(大窯 1990年撮影)
 (北窯)
 この後は、元屋敷古窯、清安寺古窯に向かった。

(関連記事:段尻巻古墳乙塚古墳 五斗蒔 大富館

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富士 上井出

2008-03-28 00:00:05 | いにしえびとの睡

(静岡県富士宮市上井出)
 富士山西麓のこの地を訪れた。標高凡そ500m,富士山からの浸透水が豊富にあり、白糸の滝音止滝等の水音がそこかしこで聞こえる。
 芝川のほとりには、源頼朝が行なった巻狩(狩猟競技)の際に、曽我兄弟が父の仇である頼朝臣の工藤祐経を討とろうと考え、岩に隠れて密談をした「曽我の隠れ岩」がある。その岩の南側には、工藤祐経の陣所があり、その場所で討たれた祐経の墓碑が建つ。また、天明元年(1781)付近で三椏(みつまた)が発見され、紙の材料としてこの地で栽培が始まったことを記念した碑が白糸の滝の近くに建っている。
     
(終戦後に埋められ、その後掘り出され再建立された、上井出の忠魂碑)

(関連記事:富士宮 富士山本

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年度末の県都

2008-03-28 00:00:00 | STRUCTURE-構造物残影-

 桜の開花発表のあった今週、また名駅摩天楼に新たな仲間入りをした構造物があった。
昨年は、シンプル低コスト長方形ビルが竣工し、今度は捻りビル(スパイラルタワーズ)である。その地下には「広小路横断地下街」も造られ、景気後退の昨今でも、じわじわと成長を続けるこの地であった。
 

(関連記事:Skyscraper in Nagoya Nagoya castle’08

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RODEN MINOMACHI LINE

2008-03-27 00:00:17 | RODEN-哀愁のRailway-

(名古屋鉄道美濃町線 岐阜市・関市・美濃市)
 岐阜市内線揖斐線同様、平成17年3月31日をもって廃止された軌道線(路面電車)であり、最盛期には徹明町(岐阜市)~美濃(美濃市)間25.1kmに及ぶ路線であった。
   
(左:600形・中:510形・右:870形)
 美濃町線は、明治44年(1911)美濃電気軌道として神田町(柳ヶ瀬)~上有知(美濃町)を開業したのが始まりである。その後、名古屋鉄道美濃町線となった。
 昭和25年(1950)殿町を経由する、途中の梅林~柳ヶ瀬間を、揖斐方面に乗り換えられる梅林~徹明町間に変更している。そして、昭和45年(1970)には、途中の競輪場前から新岐阜駅までを直通させるための田神線(1.4km)を開業した。この田神線開業により、電圧の違う鉄道線、各務原線に乗り入れるための複電圧(600V/1500V)対応車両(600形)を導入している。また、平成11年には、長良川鉄道線と重複する新関~美濃間(6.3km)を廃し、長良川鉄道線関駅に接続する連絡線(0.3km)を開業している。
(関連絡線 2003年4月28日)
(880形 小屋名駅東 2005年3月27日)
(800形 津保川橋梁 2005年3月27日)
(上芥見付近路盤 2005年3月27日)
(上芥見付近架線)
(880形 上芥見付近 2005年3月27日)
(旧札幌市電870形 上芥見付近 2005年3月27日)
(590形592 琴塚駅 2004年11月20日)
(590形591 琴塚駅 2004年11月20日)
(800形 琴塚駅西 2004年11月20日)
 然しながら、揖斐線の項でも触れたように、岐阜地域における軌道線の距離が長かったことや、岐阜市は古くから路面電車を倦厭する傾向にあり、末期に他社の支援表明を受けながらも存続はできず、美濃町線徹明町~関間(18.8km)を含む、岐阜地域の軌道線が全線廃止された。
  
(野一色駅) (日野橋駅ホーム)
 美濃町線の代替ともいえる、長良川鉄道線関~高山線鵜沼及び名鉄犬山線新鵜沼を結ぶ、「中濃新線」の構想があるが、目立った進展はみられない。

(関連記事:岐阜南東 哀愁のrailway 「百年公園駅」

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芝川 白糸の滝

2008-03-26 00:00:51 | 水のほとり
(富士川水系芝川 静岡県富士宮市上井出/原 日本の滝百選50番)
 芝川の分流と、富士山麓の溶岩断層から染み出す水が合わさり、幅約200m,高さ20mの幾つもの糸状の滝となって流れ落ちている。
   (冷たい水に漂うカモ)   (ユキノシタ)
 白糸の滝から約500m下流で、東約150mにある音止滝の芝川本流と合流する。

 (関連記事:富士上井出 湧玉池 岳南原田 六田川水源域 富士岡湧水池 柿田川 小浜ヶ池
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段尻巻古墳 乙塚古墳

2008-03-25 00:00:01 | いにしえびとの睡
(岐阜県土岐市泉町久尻 国指定史跡 1990年3月25日の日記から)
 初めて土岐市を訪れたこの日、美濃陶磁歴史館、段尻巻古墳、乙塚古墳、隠居山遺跡群、清安寺及び清安寺古窯発掘調査地、元屋敷古窯の順に訪れた。
 段尻巻古墳(トップ写真)は、古墳時代後期である7世紀に築かれた円墳で、直径17m,高さ3.6mであり、横穴式石室が開口している。

 乙塚古墳(次の写真)は同じく7世紀の円墳で、直径27m,高さ7.3m,同様に石室が開口している。

 
(段尻巻古墳石室・奥壁)

(関連記事:五斗蒔 大富館
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音止滝

2008-03-24 00:00:46 | 水のほとり
(富士川水系芝川 静岡県富士宮市上井出 日本の滝百選50番)
 落差25m、まるで地球の亀裂に落ち込むが如く、水量が多く、力強い滝である。
滝の名の由来は、建久四年(1193)五月二十八日、源頼朝が行なった巻狩(狩猟競技)の際に、曽我兄弟が父の仇である頼朝臣の工藤祐経を討とろうと考え、その密談をしていたところ、滝の轟音で話が聞き取れなかった。そこで天に念じたところ、滝の音が止んだのだという。そんな伝説の地である。
    
 下流では、白糸の滝から流れ落ちる、芝川の支流が注いでいる。

(関連記事:富士上井出 湧玉池 岳南原田 六田川水源域 富士岡湧水池 柿田川 小浜ヶ池
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タイカ遺跡

2008-03-23 00:00:37 | いにしえの人びと
(古御堂遺跡・土取遺跡 愛知県新城市上平井/矢部 タイカ遺跡は市指定史跡 1990年3月19日)
 豊川(とよがわ)の支流、半場川に面する丘陵上には、矢部字土取、上平井字タイカ、古御堂ノ入、そして西側の夷ヶ谷城跡にかけて、縄文時代晩期後半(凡そ2500年前)から古墳時代の古代遺跡群が広がっている。
 昭和44年(1969)新城市家畜市場建設に伴う矢部字土取地内の発掘調査で、縄文晩期の人を葬った合口甕棺(甕を二つ合わせた棺)と、祭祀跡とみられる竪穴遺構、弥生時代後期の人を葬った方形周溝墓(墓の周囲に溝を有する)等が検出された。
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走井山 愛宕山

2008-03-22 00:00:47 | 城郭・城下町

(三重県桑名市城山町)
 旧諸戸水道水源地の水脈は、その西側の丘陵地、矢田の丘陵からである。
その矢田の丘陵の末端には、並んで二つの城があった。一つは「矢田城」であり、現在は走井山(はしりいざん)公園となっているが、土塁の名残と、郭が残っている。桜の木に囲まれた公園内には、「お菊稲荷神社」、「白龍神社」、自然石の庚申塔等があり、また、真言宗走井山勧学寺もあって、信仰の場所でもある。
  
(庚申塔:貞享四年(1687)・寛保元年(1741)・天和二年(1682))
(庚申塔の詳細へ)

 矢田城は、安芸国(広島県)毛利氏臣、山内俊元がこの地に城を築いて矢田姓を名乗り、伊勢国守護北畠氏に属したのが始まりとされ、永禄十一年(1568)織田信長の北伊勢侵攻により落城した。その後、天正二年(1574)信長臣、滝川一益の長島城の支城として、滝川氏臣である杉山左衛門、野呂孫右衛門が入った。そして、天正十一年(1583)羽柴秀吉の北伊勢侵攻により落城となっている。
 
 城跡に建つ勧学寺は、元々城の麓にあり、矢田氏が帰依していた。廃城後の元和年間(1615-24)本多半弥が現在地に移したという。その後、桑名藩主松平定重が現在の本堂を再建している。

 もう一つの「愛宕山城」は、矢田城の北隣に位置し、矢田氏の一族が居城したが、矢田城と同じ運命を辿っている。廃城後に寺院、養像院が建ち、明治初期に廃寺後は、料理屋が一時存在していた。その後は竹薮及び雑木林となり、平成18年、宅地化に伴う調査で、堀、土塁が検出された。また、城跡に10基の庚申塔があり、調査後に勧学寺の脇に移されている。
 

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矢部古墳群 上ノ川古墳

2008-03-21 00:00:52 | いにしえびとの睡
(愛知県新城市矢部字上ノ川 1990年3月19日踏査)
 北畠信雄本陣地付近は、弥生時代後期から古墳時代にかけての遺跡、「上ノ川遺跡」であり、同所にある旧西矢部村の鎮守、八幡神社の社殿は、上ノ川古墳の上に建てられたものである。その社殿の両側及び背後に僅かながら、墳丘の裾部の痕跡がみられる。また、社殿の礎石として、古墳の石材とみられる平たい石が利用されている。
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諸戸水道貯水池遺構

2008-03-20 00:00:30 | STRUCTURE-構造物残影-
(三重県桑名市東方 市指定史跡)
 明治37年(1904)桑名の豪商諸戸清六が私財を投じ、面積330㎡,体積953m³の煉瓦造り貯水池を築き、丘陵地の地下水をここに集め、市街地への上水道を築いた。昭和4年(1929)桑名市が新たに上水道施設を築造するまで使用された。

(関連記事:六華苑 桑名宿 桑名城 走井山
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御堂山 北畠信雄本陣地

2008-03-19 00:00:29 | 城郭・城下町
(愛知県新城市矢部字上ノ川 1990年3月19日)
 天正三年(1575)五月、長篠の戦いの際、織田徳川軍の陣所として、織田信長二男である北畠信雄(のぶお/のぶかつ)が、西方を半場川に面した矢部丘陵南端の御堂山に本陣を敷いた。

 また、この辺りは弥生時代後期から古墳時代にかけての「上ノ川遺跡」でもあり、本陣地後方、矢部八幡神社の建つ場所は、上ノ川古墳の存在した場所である。
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野川の春’08

2008-03-18 21:00:07 | 水のほとり
(愛知県豊川市蔵子七丁目 堺橋より)
 我が家の近くを流れる、帯川の下流は佐奈川となる。
古来、普段は殆ど水の無い川が、大雨の際は野原に氾濫して川を成すため「野川」と呼ばれた。

今年は、植物界でも春の歩みはやや遅い。
堤防に植わる桜の蕾も、例年より小さかった。

(2007年の模様へ)2008年4月の模様
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