flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

2007 年の瀬の長良川

2007-12-31 00:00:45 | 水のほとり
 今年も間もなく終えようとしている。
水面を見ると、量は変わりながらも、流れは絶えず続く川があった。
一年を振り返り、そして来年を思い浮かべてみる。
私が幼い頃、教科書であった川を眺めながらそう思う。
 
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伊予 大洲

2007-12-30 00:00:03 | 街道・宿場町

(愛媛県大洲市)
 南予地域の北の入口、大洲(おおず)
暴れ川であった、肱川(ひじかわ)に沿って栄えた大洲城城下町である。また、松山からの大洲街道、南予地方へ向けての宇和島街道の接点にあり、伊予の小京都とも呼ばれる。
大洲は、空襲被害を受けなかったため江戸時代からの町並みが残り、戦後に始まった肱川の鵜飼いも盛に行われている。
            
 この地は昭和41年(1966)のNHK連続テレビ小説「おはなはん」の舞台となった。明治34年(1901)建造の旧大洲商業銀行(現おおず赤煉瓦館)や、往時の町並みが今も残っている。

(小京都関連記事:信濃松代 筑摩松本 伊那飯田 加賀金沢 飛騨高山 飛騨古川 郡上八幡 尾張犬山 三河西尾 伊賀上野 近江長浜 近江八幡

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鷹狩山

2007-12-29 00:00:57 | 漂い紀行

(長野県大町市)
 木崎から大町の市街地へと入っていく。
当初、塩の道博物館等、市街地を散策する予定だったが、街を望める高台の大町公園からの夕景を勧められ、三年半振りの大町公園へと向かった。そして現地に到着したが、せっかく訪れたということもあり、更にその上の標高1164mの鷹狩山頂を目指した。
  
 餓鬼岳に沈む夕日
 爺ヶ岳・鹿島槍
 
 鷹狩山は、松本藩の鷹狩りを行う山であったことから、こう呼ばれるようになったという。一昨年までは北安曇郡八坂村であったこの地は、昨年元旦、大町市に編入された。
 北アルプス後立山連峰の“夕刻”を確認し、下山、先回は早朝であったため訪れることのできなかった大町山岳博物館を見学し、今夜の宿に向かった。

(関連記事:松本城平成十九年

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「医は仁術」

2007-12-28 21:00:30 | 天祐語録
…大阪で起きた、受け入れ先なしでその後死亡のニュース。
何故こんなことが起るのだろう。
医師不足?
患者が多い?

私の祖父は、田舎の外科医だった。
「医は仁術」を口癖に、一年365日、元旦以外は休まなかった、その元旦も、急患が来れば、処置したという。
今の医師数より、人口比でみても、当時ははるかに少ない医師の数。
その中でインターン1名、住み込みの看護士8名でまわしていた。

休みがなかったため、父は、父兄参観日どころか、一緒に遊んでもらった覚えもなかったと言っていた。然し、患者のためにそこまで尽くしたことは、誇りに思ったと、生前語っていた。

今の病院制度は過酷で、医師看護士への負担も大だという。
システムが複雑になり、責任問題から、医師科目の偏り、諸々の問題を抱えている。
然し、急患を目の前にして、取りあえずの処置を決断できる人間はいないのだろうか。
責任を果たすべき上席の人間は何をしているのだろう。
面倒くさいことは除外か?事勿れ主義か?

私も以前、救急車を呼ぶほどではないが、具合が悪くなり、近くの医者に行ったところ、「予約を取ってからにしてください」と言われたことがある。
また、会社でも具合が悪くなり、医務室に行ったところ、「休憩時間に来ないでください」と言われたことがあった。

果たして医師って何?
単なる仕事の一つか?

本当に手がまわらないのか?
一般開業医でも、応急処置くらいはできるだろう。
何故、緊急の緊急処置を決断できないのか。

人の一生を左右する、大事な聖職ではないのか?

教師、宗教者同様、ほかの職業よりも一生をかけて、取り組んでほしいと願う。
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設楽原 柳田前

2007-12-28 00:00:03 | 城郭・城下町
(長篠の戦い設楽原柳田前激戦地 新城市竹広・八束穂)
 天正三年(1573)連吾川を挟んで織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が決戦を行った激戦地の一つが、この柳田前激戦地である。この「柳田前」は、連吾川(柳田川)対岸丘陵上の「家康物見塚」にも程近い。
 決戦は次第に織田・徳川連合軍が優勢となり、そして武田軍である甘利信康は、軍勢の末期の悟って、この地で自害した。ここには同氏の碑がある。
  
(関連記事:設楽原竹広 大宮前 長篠城 火おんどり 鳶ヶ巣山
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軽便 奥山線跡

2007-12-27 00:00:35 | RODEN-哀愁のRailway-
(遠州鉄道奥山線 静岡県浜松市)
 大正4年(1915)に市街地板屋町から引佐郡の気賀まで開通した浜松鉄道を起源とする軽便鉄道である。大正12年(1923)終点奥山まで全通した。
 軽便鉄道とは、一般的な鉄道より低規格で建設されたものであり、路盤の線路幅もJR等での基準幅1067㎜より狭いものを指している。この奥山線では、762㎜の軌間であった。
 昭和22年(1947)遠州鉄道に合併し、遠州鉄道奥山線となった。昭和25年(1950)途中の曳馬野駅まで電化され、昭和33年(1958)起点が二俣線(西鹿島線)遠鉄浜松駅となった。然しこの地方でのモータリゼーションの力は強く、昭和39年(1969)全線廃止となっている。
 この日は、犀ヶ崖から姫街道を経てこの路線跡に差し掛かり、名残駅から広沢駅、亀山トンネルを経て、元城駅跡までを歩いた。この区間はその後サイクリングロードとして整備され、トンネルも補修が行われた。
(名残駅跡)
  
(広沢駅跡)
    
 この後は、旧元城駅近くに存在した、地名が示す通りの浜松城前身である曳馬城跡へ向かった。
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仁科 森城

2007-12-26 00:00:23 | 城郭・城下町

(長野県大町市平)
 木崎湖畔には、平安時代末、仁科庄壮官仁科氏によって城館が築かれた。
その後天文年間(1532-)仁科盛能のとき、娘を信濃守護小笠原長時に嫁がせ同盟を結んだという。そして小笠原氏が追放されると、武田氏臣となった。
 永禄十一年(1568)盛能の孫盛政のとき、仁科氏臣が上杉氏に加担したため、武田信玄が盛政を切腹させ、信玄の五男晴清を仁科盛信と名乗らせて森城に居城させたという。盛信は、城を拡大し、木崎湖と農具川を結ぶ幾つもの水堀を築き、水城を築いた。然し天正十年(1582)盛信は、高遠城において、織田信忠によって討死したという。
      (仁科盛遠髻塚)
 (阿部神社)
 城跡は現在、本丸跡が仁科神社となり、境内には仁科盛遠の遺髪である髻(もとどり)塚があって、背後には仁科氏祖、阿部氏を祀る阿部神社、周囲には堀と土塁の一部が残る。本丸西側の一段低い地点が二の丸跡とされ、本丸南側の民家や旅館がある付近に三の丸があったという。更に木崎湖の南端を「機織り淵」と言い、森城落城の際、城主の妻がこの淵に投身し、以後その淵から機織りの音が聞こえたという言い伝えが残っている。
 

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月のかさ

2007-12-25 01:45:10 | まちの違和感
 今、空を見上げると、「月のかさ」と呼ばれる光の輪郭が見える。
高度5000m~10000mに発生する巻層(けんそう)雲によって、月の光が屈折して見えるからだという。



天使の輪のようで、聖夜にぴったりかも♪

 (一枚目は通常撮影、二枚目は、高感度撮影)
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設楽原 竹広

2007-12-25 00:00:56 | 城郭・城下町
(長篠の戦い設楽原 愛知県新城市竹広)
 天正三年(1573)織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が決戦を行った場所である。そして連吾川沿いのこの場所は、徳川家康の本陣に程近い激戦地の一つである。
 この日は木々が伐採され、明るくなった設楽氏陣屋跡の横を通り、合戦の行われた信玄原、設楽原を貫く、部分完成間近の国道151号バイパスを抜け、先ず竹広激戦地へと訪れた。
 私が初めてこの地を訪れた30年前は、国道バイパスはまだ構想の段階であり、辺りの農地も整備されておらず、連吾川も昔そのままといった流れをしていた。
   

(関連記事:設楽原柳田前 大宮前 長篠城 火おんどり 鳶ヶ巣山
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姫街道 鹿谷

2007-12-24 00:00:15 | 街道・宿場町
(本坂通 静岡県浜松市中区鹿谷町)
 東海道の脇街道として、浜松から三遠国境本坂峠を経て、御油に至る街道。
この辺りでは、三方原の戦いで、多くの死者を出した犀ヶ崖の上を通り、延暦十五年(795)創始という三社神社の前で、浜名湖東岸に突き出る庄内半島に向けて「庄内道」が分かれる。また、犀ヶ崖側に向けて、「真向坂」の道も分かれいる。
  

(関連記事:奥山線跡
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木崎湖

2007-12-23 00:00:06 | 水のほとり
(仁科三湖 長野県大町市)
 千国街道(塩の道)沿いには、青木湖中綱湖、そして木崎湖の仁科三湖と呼ばれる断層自然湖が存在する。
その内の一つ、木崎湖は面積1.4k㎡(周囲6.5km)、最大水深約30mであり、中綱湖から流れる農具川が流入し、そして流出する。
 付近は温泉旅館等が立ち並び、仁科氏の森城跡、仁科神社があり、夏には賑やかであろう湖岸の水泳場、この湖特有の木崎マスを釣るための釣具店、ボート場等がある。
       

(関連記事:安曇野2007秋
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吉田城 平成十九年秋

2007-12-22 12:00:34 | 城郭・城下町

(愛知県豊橋市)
 私にとって、身近な場所にある吉田城を、改めてゆっくり見てみると、三河国最大の藩であったことを感じ取ることができる。池田輝政時代に整備された石垣、深い堀、往時の面積… 然し播磨姫路へ転封したため未完成で終わり、更に今は城跡が小さくなり、また、豊橋市の自治体性格が地味であるために積極的に観光活用をしていないが、歴史的には貴重なものである。
(三の丸口御門跡)
(金柑丸(旧今橋城主郭)跡)
(本丸・金柑丸間空堀)
   
(模擬入道(鉄)櫓)
(本丸南側石垣)
  
 
(辰巳櫓跡)
(南御多門跡)
(本丸西側塀跡)

(私が子どもの頃、本丸西側石垣内から採集した、石垣加工道具)



(関連記事:吉田城 陸軍歩兵第十八聯隊跡 西方陣屋 吉田宿

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曳馬城

2007-12-21 00:00:36 | 城郭・城下町

(引馬城 引間城 静岡県浜松市中区元城町)
 浜松城の前身、永正年間(1504-20)今川氏臣飯尾乗連が築いた城である。
乗連の子連竜のとき徳川家康に内通し、今川氏真に攻められ、その後連竜は殺された。残された連竜の妻や家臣がいた城は、家康によって侵攻された。そして元亀元年(1570)家康は岡崎城からこの地に移り、城郭を拡大し、浜松城となった。
 明治19年(1886)旧浜松藩主井上氏により、曳馬城跡に東照宮(大権現)が創建された。
    

(関連記事:三方原犀ヶ崖 奥山線跡

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千国街道 仁科

2007-12-20 00:00:05 | 街道・宿場町
(塩の道 仁科街道 長野県大町市平・木崎)
 仁科三湖、木崎湖の両岸を通る塩の道。主な道は、湖の西側を通っている。
この辺りでは標高約770m地点を通り、湖及び農具川沿いに進んでいる。
 付近は古来より仁科郷と呼ばれ、仁科氏が居城した森城や、仁科神社、仁科三十三番札所等があり、葛温泉から引く木崎湖温泉の宿泊施設が立ち並んでいるが、非常に閑散としている。然し、古くからの民家もみられ、街道沿いに栄えた集落の名残がそこにはあった。
         
(関連記事:千国 千国街道簗場 中綱湖 青木湖 アルペンエントランス 安曇野2007秋 鷹狩山
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筒針

2007-12-19 00:00:03 | 城郭・城下町
(愛知県岡崎市筒針町)
 この日は牧内地区から北隣の筒針地区へと差し掛かった。

 旧碧海郡筒針村は、鹿乗川(旧矢作川分流)東側に位置している。
村内は往古、この地が矢作川の傍であったことから、それを鎮護する堤墾神社が創建され、明治5年(1872)須佐之男神社と改められている。社伝には、建武二年(1335)矢作川の戦いの際、新田義貞臣畑六左衛門尉時能が、兜の中に納めていた八幡大神を奉納したと伝えている。また近隣には、天福元年(1233)創立の浄土真宗筒井山教泉寺があり、寺に隣接して、松平氏臣小栗正重の居城した筒針城が存在したという。正重の次は松平忠吉の子、吉忠が母方の実家である筒針の小栗氏に入り、小栗吉忠となった。
 永禄七年(1564)吉忠は、三河一向一揆の抑えで活躍し、後に三河、遠江奉行職を務めた。
(須佐之男神社)(筒井山教泉寺)
この後、岡崎城大林寺郭堀調査地へと向かった。
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