flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

可児 兼山

2008-04-30 00:00:42 | 街道・宿場町
(岐阜県可児市兼山)
 中山道伏見宿から兼山道を通り、この地に差し掛かる。兼山は、平成17年の合併までは日本で二番目に面積の狭い町であったが、城下町時代に整備された木曽川の水運で栄え、明治22年(1889)に町制を施行し、明治18年(1885)には木造三階建ての兼山小学校を建てるなど、豊かな町であった。
(旧兼山小学校 街道側)(旧兼山小学校 木曽川側)
 現在の木曽川兼山ダムの南から兼山の町並みは始まり、寛永十九年(1642)建立の戸立観音堂、大通寺、森立寺(しんりゅうじ)、可成寺(かじょうじ)、西念寺等の仏閣がある。この内、臨済宗補陀山大通寺は、永正二年(1505)創建で、斎藤氏金山城築城以前からの寺であり、詳細な由緒は伝わっていないが、土岐氏支配の地と関わりの深い「大通寺」が各地にあり、興味深いものがある。また、永禄十年(1567)金山城主森長可の乳母「お立」が、森可成に頼んで創建したという法華宗妙法山森立寺や、元亀元年(1570)に戦死した森可成の菩提を弔うため、可成室の妙向尼が創建した臨済宗大龍山可成寺等、この地を支配した人物たちの歴史を伝える場所が、町並みの中に存在している。

 
(戸立観音堂 市指定文化財)

 
(大通寺)          (森立寺)

(西念寺)

(関連記事:八百津線跡
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「Nakagusuku plateau hotel」

2008-04-29 01:30:05 | STRUCTURE-構造物残影-
(中城高原ホテル 沖縄県中頭郡中城村伊舎堂)
 中城城跡公園内には、放置されている構造物がある。これは、昭和50年(1975)国頭郡本部町で開催された、沖縄国際海洋博覧会の来訪者を睨んで建設された、未完成の宿泊施設である。設置者が建物完成前に資金繰りが悪化し、建設中止となったが、一部施設はプレオープンしていたようである。
             
 この構造物は、山の尾根を利用して築かれ、階段状に長く部屋割りされている。ホテル付随設備として、ホール、パブレストラン、ゲームセンター、小動物園、ウォータースライダープール等を備えており、道を跨いだ上部建物は展望台となる予定であった。そして、上部ほど建設途中であり、展望台はコンクリートの枠組みしかみられない。外装としては、コンクリートにペンキを施した跡が建物下部でみられる。その色褪せ感により一層哀愁を与えているが、沖縄の建物は、毎年必ず台風に遭遇することもあり、耐久性のあるコンクリート造りが多く、また、タイルやモルタル等の外壁材を使わずに、ペンキを外装として施した建物が多い。
 近年、不動産所有者と公園管理者(自治体)との間で権利問題が起き、紛糾しているようである。
          



(構造物残影へ)
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造幣局 桜の通り抜け

2008-04-28 00:00:38 | ふるさとの木々

(大阪市北区天満)
 奈良の宿泊先から生駒線、環状線を経て、東西線大阪城北詰駅を降りる。間もなくして、大川(旧淀川)の向こうに人だかりが見えた。川崎橋を渡り造幣局の南門前に着くと、桜の木の数よりも多い人たちが蠢いていた。
   
 明治16年(1883)から行われている伝統行事は、「通り抜け」というだけあって、戻ることはできないため、ひたすら後ろを意識しながらの観覧となった。この日は既に、巷の桜の時期は過ぎているが、造幣局は八重桜系が多いために、開花の時期が遅い。故に、今年の桜のシーズンは長く味わうことができた。
(今年の花、普賢象)
      
 入口付近には、今年の花「普賢象」(雌しべの形が、普賢菩薩の乗る象の鼻に似ていることから命名された、室町時代からの桜種)があり、旧藤堂家蔵屋敷から移されたものも含む、125種370本、560mの桜並木を通り抜け、北門に至った。
                      

 この後は、つかの間の大阪を離れ、明日香村へ向かった。

(関連記事:大阪アメニティパーク 梅田平成二十二年 「うめきた」)

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中山道 伏見宿

2008-04-27 00:00:34 | 街道・宿場町
(岐阜県可児郡御嵩町)
 可児川を渡ると、中山道五十番目の伏見宿に差し掛かる。この地は可児市に両側を挟まれた御嵩町。産廃場問題や、古くからの宿場を要する伝統あるまちでもあるため、平成の大合併の際ご和讃となったところである。古い町屋もみられるが、早くから街道が幹線道路となったため、往時の面影は少ない。また、町も隣宿御嶽に主体を置いているようだった。ただ、兼山道との角に、宿場モニュメント的な場所を設けている。
   
 伏見宿は、元禄七年(1694)にそれまでの太田宿対岸の土田(どだ)宿(可児市土田)を、木曽川の渡し場変更に伴い移転した宿場であり、往時は本陣、脇本陣各一軒、旅籠は二十九軒存在した。

 この後は、飛地可児市となった、旧兼山町へ向かった。
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中城城

2008-04-26 06:00:19 | 城郭・城下町

(なかぐすく 沖縄県中頭郡中城村泊/北中城村大城 世界文化遺産 国指定史跡 日本100名城99番)
 私に似合う、小雨の日となった。
泡瀬東線バスに乗り、東海岸を北上する。このとき気づいたのが、第一※※、第二※※のバス停名が結構あることを。本土では、近隣するバス停名は、東※※、南※※等方角で示すが、沖縄は面積が狭いことや、地名が人名に関連することもあってか、数字で示されているようだ。
 中城湾に面する「久場崎」に到着。公民館から上がって行くのが近いという情報を得ていたが、公民館が見当たらなかった。そこで住人の方にお尋ねすると、途中まで案内していただいた。
 途中の斜面には、沖縄の墓地形式である「亀甲墓や破風墓」がいたるところでみられる。そして小雨模様の続く中、付近最高所標高160mにある、中城の丘へ辿り付いた。ここでも当初のイメージとは違い、雨の中訪れる人が少なからずいた。やはり世界遺産の影響力は凄いようだ。観光地となり人も多くなったが、この日は足元のぬかるみも多かった。
    
 ここでは昨晩の首里城とは違い、雨の似合う城跡の哀愁がそこにはあった。然しながら、往時の繁栄と高い文化の名残も感じとることができたように思う。

 中城城は、14世紀に先中城(さちなかぐすく)の按司(あじ:称号)が築いたとされ、続いて座喜味城(読谷村)から護佐丸盛春が移り、三の郭と北の郭を増築した。然し、天順(明朝)二年(1458)に勝連城(うるま市)主、阿麻和利の按司が首里城尚氏の命を受け、尚氏を攻略しようとしていた護佐丸中城城を攻め、護佐丸はこの地で自害したという。
(三の郭石垣)
 (裏門)
 入口にて傘を借り入城、そこは旧裏門であり、六つの連郭式山城の東側である。
門をくぐると、「北の郭」、左側上段が「三の郭」である。三の郭は、一番最後に構築された部分であり、新城(みーぐすく)と呼ばれる。
(三の郭石段と二の郭石垣)
(三の郭と二の郭石垣)
 北の郭は、正統(明朝)五年(1440)、護佐丸盛春(唐名:毛国鼎)のときに、井戸(うふがー)の周囲に石垣を組み、増築した部分である。
(北の郭物見台)
 
(北の郭石垣)
(北の郭井戸)
 北の郭を抜けると、「西の郭」となる。往時は兵馬の訓練をしたといい、長さ約120mの細長い郭である。西の郭を上ると、「二の郭」がある。蛇行した地形に沿って築かれた石垣が特徴的である。
(二の郭から中城湾を望む)  (二の郭石垣)  (先中城按司居館の台城を望む) (二の郭、一の郭間石門)
(石門から中城高原ホテルが見える)
 二の郭から石門をくぐると、「一の郭」である。往時は正殿があり、護佐丸が宴を催したという「観月台」がある。江戸時代は間切(まぎり:村)番所となり、廃藩後は中城村役場として使われたが、沖縄戦によって焼失している。
(一の郭側から見る石門)
(南郭から一の郭を見る)
 一の郭を更に西に進むと、「南の郭」となる。そこには御嶽拝所(うたきうがんじゅ)がある。
(南の郭と一の郭石垣)
(南の郭拝所)
 南の郭を下りると、正門となる。
(正門)
(正門布積み石垣)(狭間)
 正門及び南の郭西側には、岩肌の裾に鍛冶屋(かんじゃーがま)があり、鉄器が造られた。
(「かんじゃーがま」が存在した崖)
 この場所から更に西側には、未完成に終わった「中城高原ホテル」の残骸がある。

(関連記事:琉球の古民家中村家住宅

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金沢の山桜

2008-04-25 00:00:40 | ふるさとの木々
(愛知県豊川市金沢町小山下 市指定天然記念物)
 私の家から、豊川(とよがわ)を渡り、東山の丘陵に上がると、この桜はある。地目は墓地であり、墓碑の横にこの桜が植わっている。
 300年を超す古木であるため、近年、枝分かれする半分が台風で折れ、少々弱ってしまったが、「金沢ヤマザクラ保存会」の人たちの努力により、春になるとその健在さを見せてくれる。
       
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可児川 化石株

2008-04-24 00:00:10 | 水のほとり
(平貝戸珪化木 岐阜県可児市平貝戸 市指定天然記念物)
 明智城跡から北に向かい、可児市広見東公民館で地区のことを尋ね、明智駅東の天神神社を経て、御嵩町伏見地区との境を成す可児川に辿り付いた。
 八百津線鉄橋跡に程近い可児川の流路内には、1900万年前の木の株の化石化したものが露出している。凡そ、3m×2mの直径がある木の根元の部分で、その他付近は、泥岩、砂岩層に混ざる、ウリノキ、カエデ、コウホネ、サンショウモ等植物化石の産出地ともなっている。また、この化石株を間近に見学できるように、飛び石を設置する等の構想もあったようだが、保存の見地から現状のような離れたところから見学するかたちになったようである。
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園比屋武御嶽 石門

2008-04-23 00:00:29 | かみのやしろ
(そのひゃんうたき 沖縄県那覇市首里真和志町 世界文化遺産 沖縄県指定史跡)
 首里城歓会門と守礼門との間にあるこの石門は、園比屋武御嶽の石門で、正徳(中国明代)十四年(1519)第二尚氏尚真王のときに、竹富島の西塘(にしとう)という人物によって造られたという。そして、国王が各地を巡航する際に必ず拝礼したのが、この御嶽であり、王家尚氏ゆかりの島である沖縄本島北側の離島、伊平屋島の神「田の上のソノヒヤブ」を勧請し、祀っている。
 沖縄戦の際、首里城と共に戦禍に遭い、損傷してしまったが、昭和32年(1957)に残った部分の石材を生かしつつ復元が成された。
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新境川百十郎桜 平成二十年

2008-04-22 21:00:31 | ふるさとの木々

(岐阜県各務原市)
 二年振りにこの時期に訪れる。先回はまだ蕾の桜が多かったときであったが、今回は逆に散り始めていた。また、犬山祭の後に訪れたこともあり、催し等が終わる時刻ともなっていた。
  
 新境川は、昭和5年(1930)に度重なる洪水をもたらしていた長良川支流境川の木曽川への放水路として築造された。その完成記念として、ご当地出身の歌舞伎役者、市川百十郎が桜の苗木千本を寄贈し、植樹したのが始まりである。
       
 最期間近な水面に浮かぶ大量の花びらは、思わずそこへ足を踏み入れてしまいそうになるほどに、静かに浮かんでいた。


 
 

(関連記事:新境川百十郎桜平成十八年 那加2005 手力那加

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八百津線跡

2008-04-21 23:45:35 | RODEN-哀愁のRailway-
(名古屋鉄道八百津線 岐阜県可児市/可児郡御嵩町/旧兼山町/加茂郡八百津町)
 明智城跡から北に向かうと、明智駅の近くに弧を描く築堤が現れる。平成13年(2001)に廃止された、名古屋鉄道八百津線の路盤跡である。
 
 八百津線は、昭和5年(1930)東美鉄道線として伏見口(明智)から八百津までの7.3kmが開業し、戦時中に名古屋鉄道と合併した路線である。然しながら、モータリゼーションにより乗客が減少し、合理化のため昭和59年(1984)架線が取り払われ、レールバス化されている。更にグループの業績悪化により、不採算路線の切り捨てが行われ、廃止に至ったのである。
(可児川鉄橋跡)
(兼山付近)
 (末期に建設された、高架橋梁)
(兼山駅付近)(金山城跡と八百津線跡築堤)
 跡地の鉄橋や各駅の設備は撤去されたが、路盤はそのまま残されている。現在は各自治体が、バス会社に委託して代替バスを運行している。


(関連記事:可児川化石株 可児兼山
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首里城

2008-04-20 00:00:37 | 城郭・城下町

(すいぐすく 沖縄県那覇市首里金城町 世界文化遺産 国指定史跡 旧国宝 日本100名城100番 日本の歴史公園100選247番)

-知念から首里へ-
 安座真からバスに乗る。当初は一度、那覇バスターミナルに向かい、ゆいレールに乗り換えて首里城へ向かおうとしていたが、バス内で「首里方面は乗り換えです」の放送が聞こえたため、途中の与那原で降りることにした。時刻表を見ると、目的の「城間行き」は今出たところの時間であったが、渋滞の時間帯から定刻に来ることはないと思い、待ってみることにした。
 バス停は坂の途中にあり、すぐそばに信号がある。故に発進時の排気ガスは凄く、待ち時間が長く感じた。土地柄からか、あまり自動車の外観はこだわってない様子であり、沖縄の最も身近な移動手段であることもあって、慣れによる、いわゆる紙一重の運転がみられた。
 暫くすると、目的のバスが来た。時間は前の時間と次の時間の間くらいであったと思う。乗り込むと、渋滞のせいもあるが、思いのほか長い距離に感じられた。また、「首里」というバス停はこの線では存在せず、「鳥堀」で下車し、城跡へ向かった。
 私は人曰わく「小雨男」であるため、案の定、首里城公園に差し掛かる頃には、曇天から小雨が降り出してしまった。急いで城内に向かった。

-首里城到着- 
 薄暗くなった辺りも作用して、遠目にはコンクリートの壁に見える、面の揃えられた石垣は、本土の城郭の石垣とは違い、足がかからない程の滑らかさと、大陸文化の伝達を感じるライン、そして雨の多い地域だけに、内側も隙間なく組まれている。
  

 「喜び誇る」を意味する、「ほこりうじょう=うじょう:御門」と呼ばれた「久慶門」が視界に入る。かつては通用門として使われていた門である。
(久慶門)

 そして、「あまへうじょう」と呼ばれた、歓迎を意味する「歓会門」から城内外郭に入る。
(歓会門)
 

 歓会門をくぐると、「ひかわうじょう」と呼ばれた「瑞泉門」があり、内郭に入る。そして、門手前右側には湧水「龍樋」がある。
(瑞泉門)(龍樋)

 瑞泉門から、往時は水時計があった現在修理中の漏刻門、広福門をくぐると、下之御庭(しちゃぬうなー)の広場となる。そして、身分に応じた三つの入り口のある奉神門(君誇御門)をくぐると、琉球国王が政治と儀式を執り行った正殿のある御庭(うなー)に差し掛かる。
 (奉神門)
(正殿)
 首里城は、14世紀のいわゆる三山時代(北山、中山、南山)といわれた、中山王国(ちゅうざん=後の琉球王国)の王城として築いたとされる。そして、尚 巴志王(しょう はしおう=第一尚氏)が三山を統一し、永楽(明朝)四年(1406)に琉球王国を築いた際、首里を首都としている。その後、成化(明朝)六年(1469)からは、第一尚氏に代わって、尚 円王(しょう えんおう)を始祖とする第二尚氏が琉球国王となった。
 中国文化の影響を多分に含んでおり、日本本土より早く城に瓦を用い、礎石の上に朱塗りの建物を建てている。また、戦乱等により三度焼失しており、その都度再建されている。
 沖縄県となった後は、軍施設となり荒廃したが、正殿等の保存運動が起こり、国宝化された。然し、軍施設があったため、沖縄戦の際にアメリカ軍の襲撃を受け焼失した。そして戦後になり、再建運動の機運が高まり、昭和33年(1958)に守礼門、その後自治体の参画も進み、発掘調査と並行しながら平成元年に正殿等の再建が開始され、平成4年に首里城公園として開園した。また、その後も順時、各建物の再建が進行し、現在も東側(正殿背後)の再建が進められている。
(右掖門から那覇市街を望む)
(西(いり)のアザナから望む)
(北殿)
(守礼門)


(関連記事:園比屋武御嶽石門 首里城平成二十五年 中城城 今帰仁城 勝連城 座喜味城

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港町岩陰遺跡

2008-04-19 00:00:48 | いにしえの人びと
(岐阜県美濃市港町)
 花みこし終了と美濃にわか開始の間に、一昨年訪れることのできなかった岩陰遺跡へ訪れた。それは当初、民家の庭先を進んで行く場所とは思わなかったからである。
 
 この場所は臨済宗安住山清泰寺の北側で、長良川に面し、高さ約15mにわたって岩が露出した断崖の岩陰に、「山神」と刻まれた自然石の碑が立っている。ここは縄文時代の遺跡でもある。豊富な長良川の幸と風雨を遮る岩陰は、原始の人々にとって最良の場所であったに違いない。
  

(関連記事:哀愁のrailway 上有知宿 牧谷街道 長良川上有知湊 美濃橋 美濃小倉山城 美濃町平成十九年 美濃町線
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犬山祭

2008-04-18 02:00:46 | 民俗・伝承

(針綱神社祭礼 愛知県犬山市 国指定重要無形民俗文化財)
 犬山城の守護神である針綱神社の祭礼として、寛永十二年(1635)に下本町、魚屋町でお練りを行うようになり、その後、車山(やま:山車)でからくりが奉納されるようになったのが始まりである。その後、中本町、熊野町等でも車山が曳かれるようになり、犬山城主成瀬正虎がこれを奨励し、十三町全てで車山が曳かれるようになった。また、始められた当時は、台車の上に飾り物を載せていた程度のものであったようだが、次第に二層、三層に発展していった。
 
      (本町から犬山駅前に到着した、名栗町車山「絳英:ほうえい」)


  (鍛冶屋町車山「寿老臺」)

  (枝町車山「遊魚神」)

 (新町車山「浦島」)

   (本町角を曲がる、下本町車山「應合子」)

   (中本町車山「西王母」)

 (余坂車山「宝袋」)

 この日は、初日の試楽(しんがく)と呼ばれる日で、針綱神社へからくりの奉納が行われた後、車山を曳き回し、犬山駅前へは十三台中、七台が集結した。私は、犬山駅から本町を曲がり、残りの六台がある針綱神社前へと向かった。
 上の写真でも分かるように、電柱、電線が気にならないだろうか。犬山市では、地中化に向けた動きが始まってはいるようだったが、他の町並みを意識する観光地では、電線地中化は既に進んでおり、犬山市はやや遅い歩みといえる。他にも、町並みの景観対策や、街路での歩道の確保等、改善点は幾つかみられる。また、観光アピールに対しても、名古屋鉄道等に依存する傾向にあり、市の財政状況は厳しいと聞いているが、もう少し力を入れて欲しいと感じるところである。
 更に発展した観光推進策として、木曽川を跨いだ岐阜県各務原市との提携による相乗効果をねらいたい。犬山城の対岸には、犬山橋のたもとに存在する「鵜沼城跡」と、ライン大橋側対岸に位置する「伊木山城跡」があり、更に中山道鵜沼宿がある。これを活かさない手はない。
 また、市内でありながら、中心市街地からみて遠い位置に存在するため、来訪者が右肩下がりの「明治村」や「リトルワールド」は、それを補う交通手段の拡充(駅からの直通バスではなく、市街地を経由するタウンバスや、既存モノレールの改良等)や、越県を視野に入れた、相互観光対策が必要であろう。
 (外町「梅梢戯」と寺内町「老松」) 
(魚屋町「眞先」、本町「咸英」、練屋町「国香欄」、熊野町「住吉臺」)

(関連記事:犬山平成二十年 善師野 継鹿尾浣華渓 桃太郎神社

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安座真城

2008-04-17 00:00:06 | 城郭・城下町
(あざまぐすく 沖縄県南城市知念字安座真)
 斎場御嶽の北側に位置し、安座真海岸及び知念岬を見下ろす、標高凡そ120mの岩山に築かれた城である。
築城時期や城主等の詳細なことは不明確だが、地域と位置から考えて、安座真の按司(あじ:称号)が居城した城であろうと伝承されている。また、斜面には郭跡の石積みのほか、城主に関係があると思われる墓所が存在している。
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犬山 平成二十年

2008-04-16 00:00:38 | 街道・宿場町
(愛知県犬山市)
 この日は、大口町小口城跡、扶桑町長泉塚古墳木津用水を経て犬山入りをした。
 犬山の各町内では、犬山祭の準備が行われているようだった。また、この日は、テレビ局の取材も行われていた。
 往時は、美濃路枇杷島から犬山城下までの岩倉街道と、名古屋から小牧、犬山を経て中山道鵜沼に至る稲置街道、そして、この地から分かれ、上街道善師野を経て、中山道太田宿に至る犬山街道があった。故に城下町だけでなく、人々の集まる地としての寛容さと、誇りを持っているようでもあった。
(新町 米清旧宅)
 
      

(関連記事:犬山城 東山道善師野 継鹿尾山浣華渓 桃太郎神社
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