電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

「没後10年、藤沢周平の魅力を語る」(1)

2007年12月17日 06時44分46秒 | -藤沢周平
去る12月9日(日)、山形市のAZ七日町、山形市中央公民館の6階ホールにて、山形新聞社が主催する「没後10年、藤沢周平の魅力を語る」というシンポジウムが開かれました。前々から楽しみにしておりましたが、当日はAZの駐車場が混み合っていてなかなか入れず、向かいの八文字屋書店の有料駐車場に停めて、ようやく入場できました。おかげで、開会行事の主催者挨拶は聞けずじまい。当日の山形新聞夕刊の記事によれば、相馬健一会長が

1971(昭和46)年、藤沢さんが「オール読物」新人賞を受賞したさいにインタビューした経験に触れ「非常に魅力ある人柄だった」と振り返った。

というものだったようです。

続いて作家の高橋義夫さんによる「周平さんの椅子」と題した講演がありました。高橋さんが直木賞を受賞された際、藤沢さんが、歴史的事実について、単行本にするときには直したほうがよい、とアドバイスしてくれたことにふれて、選考の際に指摘するのではなく、後でそっと編集者を通じて知らせてくれる、そういう人柄だった、というエピソードを披露しました。受賞作品選考というきわめてデリケートな場面を考慮した、藤沢周平らしい、心優しい配慮を示すできごとでしょう。高橋さんも、実は今回初めてお話するのです、と言っていましたので、尊敬する先輩作家に対する感謝の気持ちを、そんな形で表明されたのかな、と思います。

『暗殺の年輪』の後、「なぜ時代小説を書くか」という随筆を発表しています。当時は、立原、五木、野坂さんなど、いかにも新しさが感じられる流行作家が活躍しており、ひっそりと登場した藤沢作品は、地味で暗いものでした。今でこそ海坂藩は有名になりましたが、かつての海坂藩は意地悪で抗争に明け暮れ、ここだけは住みたくないと思わせる土地でした。編集者は「いい本を書くんだが、売れない」と嘆く時期もあったようです。多くの読者に受け入れられるようになったのは、用心棒シリーズや隠し剣シリーズなど、作品が明るさを持つようになってからで、『蝉しぐれ』も、出て何年かたってから、じわじわと評価が高まっていったのです、と高橋さんは語ります。

高橋義夫さんが若い頃に、ある人から、流行作家の椅子は15脚しかない、と聞いたそうです。藤沢周平さんは、その「流行作家の椅子」にすわったことはない。きっと独自の、別の椅子にすわっていたのだろう。同じ作家の立場から、そう指摘する高橋さんの見解に、思わずなるほどと頷きます。

たいへん興味深い講演で、メモを全部記事にすると、いろいろと差障りもあろうかと思いますので、あとは多分単行本になることを期待し、最後に一つだけ。

市井ものに出てくる女性たちを読むと、江戸にあんなしおらしい女性が本当にいたのかと疑問に思うそうです。女性が二割位しかいない特殊な町で、商家の切盛りも女性が中心、離婚の申し立ても女性の方から、という例も多いのだとか。「不義密通は死罪」という法律も、土佐藩の実績では280年間に1件しか適用例がないのだそうです。法律どおりにしていたら、藩士がいなくなってしまう。そういう現実を充分に知っている藤沢さんがモデルにしたのは、故郷の庄内・黄金村の農家の女性たちだったのではないか。

この指摘は、思わずうーむ、とうなってしまいました。
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