電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

コレルリ「クリスマス協奏曲」を聴く

2007年12月15日 10時04分31秒 | -オーケストラ
ジョージ・セルの残された録音には、ロンドン響とのヘンデル「水上の音楽」等の名演がありますが、全体に、近現代のものに比べてバロック時代の作品は少ないようです。その意味で、1968年12月19日の定期演奏会で、コレルリの合奏協奏曲第8番、いわゆる「クリスマス協奏曲」が取り上げられている点は注目されます。セルお気に入りの、ラファエル・ドルイアンとエイブラハム・スカーニックがヴァイオリンとヴィオラのソロを受け持つ、現代オーケストラの精華と言うべきクリーヴランド管弦楽団が演奏するコレルリ。緊密で荘厳で豪華なバロック演奏の極北と言って良いかもしれません。このときの演奏が、正規盤で出ていたらなぁと残念に思います。

これに対し、小規模な室内合奏団による演奏は、もう少し伸びやかなものになります。クレスト1000シリーズに配された二枚組CD(COCO 70663-4)は、コンタリーニ宮におけるイタリア合奏団の演奏をデジタル録音したもので、以前も通勤の音楽として聴いておりました。今回は、時期もちょうどクリスマスを前にした時期です。

第1楽章、ヴィヴァーチェ~グラーヴェ。輝かしい始まりが印象的で、あとに沈み込ような音楽が続きます。第2楽章、アレグロ。第3楽章、アンダンテ~アレグロ~アダージョ。いわゆるバロック音楽らしい、優しい雰囲気を持った楽章です。第4楽章、ヴィヴァーチェ。第5楽章、アレグロ。こういう速い楽章は、小編成室内合奏の緊密なアンサンブルの特質がよく出ていると思います。現代の大オーケストラでは、この軽やかさは出せないでしょう。第6楽章、ラルゴ、パストラーレ・アド・リビトゥム。

テンポはやや速めで、響きが透明なこと、倍音成分が豊かなのでしょうか、ふわっとしたやわらかさを感じます。バブル絶頂期、クレスト1000シリーズとして提供されている、当時のデジタル録音のCDのラインナップを見るにつけても、DENON はいい仕事をしてくれたと思います。願わくは、ゲルバーのベートーヴェンのピアノソナタ全集を、ぜひ完成させてほしいものです。

■イタリア合奏団
I=1'33" II=2'29" III=3'13" IV=1'19" V=1'38" VI=3'36" total=13'48"
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手帳に書かれることがら

2007年12月14日 06時57分24秒 | 手帳文具書斎
先日、付録のミニ万年筆目当てに購入したラピタ(Lapita)1月号ですが、実はシステム手帳が特集されていました。最近、復権が目立つシステム手帳ですが、当方も数年間の中断を挟みながらも、20年来のシステム手帳ユーザーです。どんな特集になっているのかを興味深く読みました。雑誌の性格から言って、深い内容などは期待できず、ユーザー事例の紹介とセンスの良い商品案内のみ。やや表層的な印象は免れません。

それでも、ユーザー事例紹介の中に、きらりと光る言葉があります。たとえば、能率手帳の商品開発を進める二人の女性を紹介した「進化するシステム手帳、その開発ストーリー」という記事は、プライベート・リフィルの開発にかかわる話が面白かった。

当社が2007年に行った調査では、手帳に書き入れる内容としていちばん多かったのが"プライベートの予定"。その次が"仕事の予定"でした。つまり手帳の主な用途が、ビジネス中心からプライベート中心へと移りつつあるということが、客観的なデータとして明らかになったんです。

この一言が、たいへん興味深く面白く感じました。私の手帳も、仕事にかかわるスケジュールがメインとはいうものの、山響(山形交響楽団)や山形弦楽四重奏団の演奏会の予定をはじめ、図書館の返却予定、新譜CD発売日、地域行事や冠婚葬祭の予定、読書記録、物品のwishリスト、宴会アカペラ用18番の歌詞など、様々なものが挟み込んであります。エアチェックをしていた時分なら、さらに放送予定なども書き込まれていたことでしょう。

きちんと仕事をしながらも、プライベートは大切にしたい。そういう時代なのだとあらためて思います。朝早く会社に行き、夜も会社の同僚と飲み、会社の慰安旅行に懇親会、そして倒れるまで働き、定年まで働けたとしても、家族にも自分の住む地域にも何も残らない、そういう時代ではないのだ、ということなのでしょう。むしろ、家庭や地域でのプライベートな活動が、仕事のほうへ、時代の変化を伝える役割を果たすのだ、と言ってよいのかもしれません。
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イチョウの落葉~英語で何て言うの?

2007年12月13日 06時57分07秒 | 散歩外出ドライブ
12月も中旬に入り、イチョウもすっかり落葉して、写真のような黄金色の絨毯となっております。そういえば、先日の忘年会でも、茶碗蒸しに銀杏の実が入っておりました。
ところで、イチョウを英語で何と言うのだろうと思い、忘年会の席で、某カナダ人に

What do you say "gin-nan" in English?

と聞いてみたところ、知らないとのこと。興味を持って調べてみました。

goo 辞書によれば、ginkgo というのだそうです。発音は前にアクセントがあって「ギンコウ」。Wikipedia でイチョウを調べると、銀杏(ぎんきょう)を gin-kyo と発音したのを、西洋人が gin-kou と聞き取ったものだとか。由来を聞くと、なるほど、です。英語版の Wikipedia で、ginkgo を調べ(*)、該当ページをくだんの某カナダ人に教えてあげたら、これなら知っている、葉っぱを薬にする人もいる、とのこと。ついでに

Yamagata-ginkou is not "ginkgo".

と言ったら、笑われました。山形銀行さん、ダジャレのネタにしちゃって、ごめんなさい(^o^)/

(*):ginkgo~英語版Wikipedia
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ミニ万年筆のこと

2007年12月12日 06時38分42秒 | 手帳文具書斎
先日の「没後10年、藤沢周平の魅力を語る」シンポジウムの記事を書きたいのですが、なかなかまとまった時間が取れず、次の週末あたりになるかもしれません。
当日、帰りに書店で「Lapita」1月号を見つけ、ミニ万年筆が付録だという好奇心で、購入してみました。それが、この写真の左側の、オレンジ色のものです。
ヨーロッパ・タイプのハーフサイズのリフィルが使えるということですが、雑誌の付録とは思えない出来栄えです。昔の学研の「学習」「科学」の付録を思わず思い出してしまいました。
書き味はけっして良好とは言えず、鉄ペンの実用性は、隣のパイロットのカスタムやウォーターマンと比べてしまうと、だいぶ劣りますが、独特の紫をおびたブルーのインクもかわいらしく、しばらく飽きずに遊べそうです(^o^)/
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藤沢周平『夜消える』を読む

2007年12月11日 06時58分41秒 | -藤沢周平
藤沢周平の本は、自分の手元に置きたいので、できるだけ自分で購入するようにしておりますが、これは珍しく図書館から借りて来た、文藝春秋社刊の短編集。いずれも昭和58年から平成2年ごろ、『週刊小説』『小説宝石』に掲載されたものだそうです。平成6年には文庫版も出ているそうですが、うっかり見落としてしまっていたようです。

表題作「夜消える」、酒びたりの厄介者の亭主・兼七は、娘の幸せをぶち壊しかねません。年寄りが若者を羨むのはいいけれど嫉妬すべきではないのと同様、兼七の失踪で購った娘の幸せを、母親が密かに憎んではいけませんね。自然主義文学ばりのリアルな描写です。
第2編「にがい再会」、はじめは善意であっても、小心者が用心深く再会するには、岡場所で暮らして来た女は住む世界が違い過ぎた。新之助は、懐かしさや感傷ではどうにもならないものがあると知っただけでも良かったというべきでしょう。
第3編「永代橋」、博奕に入れ上げ、病気の子どもを見殺しにした職人と女房の激しいいさかい。時を隔てて、まだやり直せないかと誘う男の身勝手さは相変わらずさ、という見方もできるかも。
第4編「踊る手」、絶望して食を絶った老婆に食事を届ける男の子。食べてくれないとしゃくりあげる男の子が不憫と、老婆は食べ始めます。ここはいい場面ですね。
第5編「消息」。失踪した亭主を探す女房と娘には、失踪の原因が皆目わかりませんでした。まさか、そんな事情だったとは。
第6編「初つばめ」。境遇の違い、でしょうか。弟のためにと働いてきたのに、弟は良い婿入り先をみつけたようです。岡場所上りの酒呑みの女は身内としては迷惑なのか。少し頼りないが、生真面目な滝蔵となら、いい組合せかもしれません。
第7編「遠ざかる声」。珍しい幽霊ものです。死んだ女房の幽霊が、後添い話をことごとく邪魔をします。しかし、良い話だと思ったとびきりの美人には裏がありました。身の回りの世話をしてくれるおまさは、自宅に青い鳥がいるんだよ、という謎だったのでしょうか。

第1編から第6編まで、いささか気の滅入るような話ばかりで、最後の、少々大人向けのユーモラスな佳編に、ほっと息をつく思いです。

そういえば、昭和58年から平成2年頃というと、MS-DOSの普及とパソコン通信の黎明期でした。雑誌も「ASCII」誌がまだ元気で、パソコン通信専門誌「Networker」が季刊で発行されていた頃です。故小渕官房長官が「平成」と書かれた年号を持って、報道のフラッシュを浴びていた姿が印象的です。その平成ももう20年、早いものです。

写真は、「夜消える」という表題にかけた、先日の披露宴会場の照明です。ちょいと藤沢周平ワールドとは縁遠いようですが…(^o^;)>poripori
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最近の若い人の結婚披露宴は

2007年12月10日 06時43分53秒 | Weblog
先日は、忘年会の翌日に結婚披露宴が予定されているというゴールデン進行、ご馳走攻めにあいました。楽しかったけれど、大変でした(^o^)/

最近の若い人の結婚披露宴は、どうも「こじんまり派」と「豪華派」の両極端に分裂しているようです。先日の披露宴は、どちらかというと豪華派でした。出席者も多く、盛大で賑やか、新郎新婦も明るく嬉しく楽しそう。親の考えと本人どうしの考えが一致しないと、こういう披露宴にはなりませんね。最近の世相では、「こじんまり派」が多いのかな、と思っていましたが、式場の賑わいを見ると、意外にそうでもないようです。盛大な披露宴をすると、簡単には別れられないと、決意も深まるのだとか。なるほど、です。


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新聞の演奏会評

2007年12月09日 05時09分23秒 | クラシック音楽
忘年会に続き結婚披露宴と、二日続きの宴席ですが、なんとか元気です。外出の際に携帯したCDプレイヤーには、コレルリのクリスマス協奏曲を含む、合奏協奏曲集を入れて出かけました。

さて、ブログを始めて、それまでは気づかなかったことに気がつくことがあります。たとえば新聞の演奏会評です。わが家では戦前から某A紙を購読しているそうですが、全国紙に掲載される東京での演奏会の批評は、いわば東京ローカル記事。地方在住者にとってはほとんど意味を持ちません。存在は知っていましたが、過去40年以上、内容を読んだことはありませんでした。

地元のオーケストラや室内楽等の演奏会に頻繁に行けるようになって、山形新聞などの地方紙に掲載される演奏会評に目が向くようになりました。自分が聴衆として参加したあの演奏会がどんなふうに評価されているのか、たいへん興味があります。さすがに専門家に依頼するだけあり、なるほどと感心することが多いのですが、あるときは「新人にはもう少しあたたかい評価でよいのではないか」と思い、またあるときは「表現が少々主観的に過ぎないか」とも思います。批評を批評するようなものですが、それはそれでけっこう楽しいものです。

ところで、地元紙の場合に比べて、全国紙の場合の演奏会評は、地方在住者にはどんな意味があるのだろうか。これには、やや懐疑的にならざるをえません。東京で開かれる様々な東京ローカル演奏会の評を毎回定番にし、各地方で開かれる画期的な演奏会を順番に取材し、同時に並べて掲載するような企画ができないものか。クラシック音楽の状況を、東京と地方と、同時複眼的な視点で見ることができる、全国紙らしい記事構成になると思うのですが、どんなものでしょうか。
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2007-08山響のパンフレットについて

2007年12月08日 06時48分00秒 | クラシック音楽
今年の山響に関係する印刷物の中で、重宝したものがあります。それは、2007~08年のシーズンの定期演奏会等を網羅した、写真のパンフレットです。A5判の小型版ですが、オールカラー印刷で、中身はたいへん充実しています。

最初のページは、音楽監督の飯森範親さんの「新たなシーズンに向けて」というご挨拶など、次のページは「食と温泉の国のオーケストラ」と題して、山形交響楽団の紹介、そして読み物のページとして、飯森さんと先日クララ・シューマンのピアノ協奏曲を演奏したピアニスト三浦友里枝さんの対談が2ページあります。次のページから、4月に始まり2008年3月まで、計8回の山形定期演奏会、酒田公演と鶴岡公園が各2回の計4回、定期演奏会会員制度の案内と続きます。そして東京公演など3回の特別演奏会と、今年3回分のモーツァルト交響曲全曲演奏を目指す「アマデウスへの旅」第一年と続きます。

結局、私はこのパンフレットを、セカンドバッグに入れて常に携帯しておりました。時間があると手帳のスケジュールを眺めながら、演奏会に行けるように雑事の段取りを考え、時間を都合しておりますが、なかなか実用的で便利なパンフレットです。

2007-08のシーズンの後半の予定は、次のようになっています。

■2007年12月15日(日) 19時~、山形県民会館、藤岡幸夫 指揮
エルガー/セレナード
黛敏郎/シロフォンのためのコンチェルティーノ、三村奈々恵(マリンバ)
ショスタコーヴィチ/バレエ組曲第1番、交響曲第9番

■2007年12月25日(火) 19時~、山形テルサ・ホール、飯森範親 指揮
ブラームス/ドイツ・レクイエム
松田奈緒美(Sop)、高田智宏(Bar)、山響楽友会合唱団

■2008年1月26日(土)19時~、27日(日)14時~、山形テルサホール、飯森範親 指揮
ヨハン・シュトラウス/皇帝円舞曲、ピチカート・ポルカ、美しく青きドナウ 等、
ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界より」

■2008年2月9日(土) 19時~、山形テルサ・ホール、飯森範親 指揮
モーツァルト/交響曲第5番、交響曲第26番
モーツァルト/ファゴット協奏曲、高橋あけみ(Fg)
モーツァルト/交響曲第29番

■2008年3月16日(日) 19時~、山形テルサ・ホール、イジー・シュトルンツ 指揮
リスト/交響詩「レ・プレリュード」
バルトーク/ピアノ協奏曲第3番、及川浩治(Pf)
ドヴォルザーク/序曲「オセロ」
コダーイ/ハンガリー民謡「孔雀」による変奏曲

■2008年3月31日(月) 19時~、山形県民会館
「オーケストラの日」コンサート

以上、意欲的で魅力的なプログラムが続きます。後半も、目が離せません。
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木曜時代劇「風の果て」第8回を観る

2007年12月07日 06時47分53秒 | -藤沢周平
NHKの木曜時代劇「風の果て」第8回を観ました。帰宅が遅くなる予定でしたので、最終回の今日はばっちりと録画の準備をしていたつもりでしたが、なんと大ポカ(*)をやらかしていたことに気づいて愕然!それでも、帰宅したのがちょうど果し合い後に自宅で握り飯を喰らう場面でした。ありがたいことに、番組の終わりのほうで、ちゃんと果し合いの場面を再現してくれましたので、おおよその様子はわかりました。

さて、果し合いで野瀬市之丞を斬った桑山又左衛門に、家族ははらはらします。なんと、ジコチューばあさんのはずの加音さんまで、孫助さんの言葉と言って、時が解決すると伝えます。妻の満江さんも、早く隠居してもらいたいようです。執政として決断に悩む姿に、杉山忠兵衛のことばが実感がこもりますが、おいおい、政敵とはそんな気安い間柄なのかい?と、思わず吹き出しそうになりました。

実直な兵六の存在は原作でも大切なポイントですが、このドラマでも兵六はいい役回りです。一時は執政の座にあったほどなのにいつまでも子どもっぽい杉山忠兵衛を叱咤するところなど、実にかっこいいです。

さて、藤沢周平原作『風の果て』をドラマ化した本作品は、権力を描くのではなく、友情と出世を軸とし、義父の孫助や妻の満江さん、心を寄せる理解者であるふきさんなどが絡むホームドラマに仕立てることでお茶の間にも受け入れられるようにした、ということなのでしょう。野瀬市之丞など、死病におかされたことを悟り、又左衛門に斬られることを望んで、わざと一歩足を後退させたように描いていました。最終回にはみんないい人になってしまったようで、なんだかなぁ、です。脚本家は、「だって、組織も権力も、経験ないも~ん!」ということかもしれません(^o^)/

原作にあった、現在と回想と、時間が交互に行きつもどりつする重層的な構造が回避され、たいへんわかりやすくなった半面、原作の持っている推理小説のような緊迫感や、広大な荒地を開墾し一国の執政となるにいたる叙事詩のようなスケール感、たんに友情というよりはもっと複雑な剣術修行の同門の仲間たちの間柄など、だいぶ省略してしまったものも多く、『蝉しぐれ』のドラマ化と比較して、惜しいなぁと感じてしまいます。第1回から第8回にわたり、多いに楽しんだドラマ化でしたが、これらの点は、やや残念に思うところです。

■『風の果て』関連記事リンク
(*1):藤沢周平『風の果て』上巻を読む
(*2):藤沢周平『風の果て』下巻を読む
(*3):「ながい坂」と「風の果て」
(*4):NHK木曜時代劇「風の果て」公式WEBサイト
(*5):木曜時代劇「風の果て」第1回を観る
(*6):木曜時代劇「風の果て」第2回を観る
(*7):先週の木曜時代劇「風の果て」第3回
(*8):木曜時代劇「風の果て」第4回を観る
(*9):木曜時代劇「風の果て」第5回を観る
(*10):木曜時代劇「風の果て」第6回を観る
(*11):木曜時代劇「風の果て」第7回を観る

(*):実は肝心のチャンネルが違っていた。日曜日のN響アワーの設定、教育テレビのままになっていたのです(^o^;)>poripori
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子育ての反省と子どもの学力

2007年12月06日 06時40分10秒 | Weblog
子どもが成長し、上の子はすでに結婚して二児の親となり、下の子らは大学院と大学生ですから、経済的な負担以外の、親としての子育てはあらかた終えたといってよいだろうと思います。比較的時間にゆとりのあった長女の場合は別として、多忙を理由にあまり遊んでやれなかったことが反省点です。(実は親が行きたかった)ピアノは習わせましたが、学習塾などは行かせませんでした。ですが、子どもの学力の面で言えば、医学部志望などの超難関希望ではなかったせいか、山形県の公立の小・中・高等学校だけで、必要とされる力はついたのではないかと思います。

今、振り返ってみると、子どもの本がたくさんある環境を作ってやったのが良かったと思います。幼児期に書店で楽しい絵本を探すのは楽しみでしたし、休日や夜寝る前に床の中で読んでやり、親も一緒に楽しみました。少し物心ついた頃には、福音館書店の「こどものとも」年少版、小学校に入ると「こどものとも」普及版や「かがくのとも」、中学年以上では「たくさんのふしぎ」を毎月購読し、きょうだいはもちろん親子で楽しんで読みました。親子で書店に行くと、年齢に応じて何時間でも本探しを楽しみました。学力の基礎は、子どもが経験した読書量ではないかと思います。

また、親戚知人近所の家庭を訪問したとき、来客時にもテレビがついている家庭と、来客時にはテレビを消す家庭とがあることに気づきます。その後の子どもの進路などを見るかぎりでは、来客時にきちんとテレビを消す家庭の子どもは、一般に学力が高い傾向があるように思います。子ども部屋にテレビがあるわけではないので、テレビを見る時間を制限していたり、がまんをさせたりビデオに録画させたり、その家庭なりのいろいろなしつけをしているからだろうと思います。
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ホウレンソウのグラタン

2007年12月05日 06時50分07秒 | 料理住居衣服
寒くなるとおいしくなるのがホウレンソウ。先日、ホウレンソウのグラタンを食べました。わが家のホウレンソウが豊作なので、いっぱい入れて、チーズたっぷりのグラタンです。美味しかった~、幸せ!(^o^)/

最近の通勤の音楽は、冬になるとなぜか聴きたくなるプロコフィエフのピアノソナタ。今はブロンフマンによる演奏で、第8番と第9番を聴いています。最近帰宅が遅いので、自宅ではなかなかゆっくり音楽を聴く時間がとれません。昨晩はアルゲリッチのピアノで、シューマン「幻想曲」を少々。エレーヌ・グリモーなどで、シューマンのピアノソナタ第1番のCDがほしいのですが、今週の花の金曜日には忘年会の予定があり、さらに翌日は前の職場関係の若い人の結婚披露宴に出席の予定。楽しみでもあり、なにかと気ぜわしい師走です。
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除雪機の整備

2007年12月04日 06時35分35秒 | 季節と行事
11月に、思わぬ量の雪が二度も降り、びっくりしましたが、しめった雪のために、除雪機が小さな石塊をかんでしまい、動かなくなってしまいました。業者にメインテナンスを依頼したものの、なかなか手が回らないようで、今週の雪の予報に間に合うかどうか微妙な予想です。念のために、自分で保守を試みました。

まず、エンジンのキャブレターから。一度始動して、エンジンがガス欠で止まるまで放置して、キャブ室内のクリーニングとしました。次に、ローターの回転部にかんでいる小石を、大型の長いバールを持ちだし、思いきりつつくと、小石が割れてばらばらと落ち、取り除くことができました。

もう一度ガソリンをつめてエンジンを始動すると、今度はローターが回り出し、ようやく復活、と思ったら、翌日にはガソリンがからっぽに。おかしいな、充分にあるはずなのに、と思って調べると、どうやら燃料が漏れているらしい。フロートかな?これは困った。整備してもらわないと。なんとか次の雪までに間に合わせてほしいものです。

わが家の車のほうは、全車スタッドレス・タイヤに交換し、冬の準備はようやくオッケーです。あとは除雪機のみ。頼むよ、○○さん!
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川上弘美『センセイの鞄』を読む

2007年12月03日 06時36分14秒 | 読書
文春文庫で、川上弘美著『センセイの鞄』を読みました。2001年だかに谷崎潤一郎賞を受賞したとのこと、当時は単身赴任夜間勤務の頃で、そうした情報にふれることもなく知らずにいましたが、高齢化社会を視野におき多くの読者を獲得できる狙い目の作品だろう、などと揶揄しながらも、なかなか面白く読みました。

「月と電池」、松本春綱センセイは、飲み屋に出入りする妙齢の教え子、大町月子さんを、わざわざ名簿とアルバムで見て確かめたのですね。
「ひよこ」、飲み屋でアルコールの取り持つ御縁ですが、ひよこが「可愛くないのがいいんですか」「可愛いと、つい夢中になる」という会話は、象徴的です。
「二十二個の星」、頑固で意固地な二人の性格の共通点が描かれます。
「キノコ狩」、いつもの飲み屋の主人の誘いで、センセイと一緒にキノコ狩に行きます。山中でのキノコ料理の最中に、センセイが息子や、出奔した妻の話をします。自由な妻の、日常の小さな失敗を許すことができなかった夫の回想の形で、説明が語られます。
「お正月」、月子さんの母子関係も、なんとなくぎくしゃくしています。父親不在の家庭のようです。兄夫婦はにぎやかに暮らしているようですが、かつて月子さんの恋人との関係も不器用なものでした。えらいえらいと頭をなでてくれるセンセイは、まだ父性的存在です。
「多生」、袖すりあうも多生の縁、ですか。理系石頭の私も、てっきり「多少」の縁だとばかり思っておりました。センセイと月子さんの二人に絡んだ酔っぱらいからの戦利品のエピソードは、70歳にして元気なセンセイの心意気を描きます。
「花見」、毎年、学校前の土手で、学校が始まる何日か前に、元職員が集まって花見をするのだとか。当地で花見のシーズンは四月下旬ですので、これはありえません。センセイが石野先生と親しく話す様子に、月子さんは嫉妬します。また、バツイチ同級生の小島孝からアプローチされますが、どうもしっくりいきません。求めるものが父性から変質する章です。
「ラッキーチャンス」「梅雨の雷」。小島孝の誘いを受けながら、センセイへの思いを自覚していきます。雷がこわい月子さんの背中をなでるセンセイの心中はかなり複雑でしょう。
「島へ」「干潟ー夢」。出奔した妻の墓碑を見せるために、センセイは島へ誘ったのでしょう。そして、老いの自覚と、もうすぐ四十になろうとする教え子との年齢差を自問自答したのでしょう。月子さんが見た夢は、生と死の境を漂うものでした。
「こおろぎ」、夢のせいか、センセイを避けていたのですが、センセイが風邪を引いたらしいとの情報にあわてます。センセイを失いたくない、何も望まない、センセイが元気でいてくれれば、という心境です。
以下、「公園で」「センセイの鞄」の章と続きますが、哀感に満ちた美しい幕切れは、最後はお楽しみと言うことにしておきましょう。



さて、自分の娘が月子さんのような立場になろうとしたら?たぶん、やめなさい、と言うでしょうね。人間は、自分の年齢を超えることはできません。できれば、同じテレビ番組の話などで盛り上がれる境遇や年代で相手を見つけてくれると、なんとなく安心します。あとは二人の心がけしだいでしょう。
では、自分がセンセイの立場になることは?これは明解で、ありません。なぜなら、自分よりもずっと年若い女性を誘うなど、彼女と同世代の男の子たちにたいして、卑怯だと思うからです。このあたりの公平さに対する感覚は、女性である作者の感性とはだいぶ異なるものがあるようです。

でも、たいへん面白く読みました。谷崎潤一郎賞受賞は伊達ではありません。
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プロコフィエフ「チェロソナタ」の魅力

2007年12月02日 07時05分38秒 | -室内楽
ここしばらく、通勤の音楽としてプロコフィエフの「チェロ・ソナタ」ハ長調、作品119 を聴いておりました。リューバ・エドリナ(Luba Edlina)のピアノ、ユーリ・トゥロフスキー(Yulo Turovsky)のチェロ、1982年のCHANDOS盤(CHAN8340)(*)です。当初は、併録されているショスタコーヴィチのチェロソナタ目当てで購入し聴いておりましたが、LPで言えばB面にあたるOp.119の魅力に目覚めてしまいました(^o^)/
好きですねぇ、こういう音楽!

第1楽章、アンダンテ・グラーヴェ。チェロの低音が、大柄な老人の昔語りのように始まります。やがて、チェロが高音域で美しい旋律を歌い始めると、ピアノもまた、ともに歌います。広い音域にわたる暖かいチェロとピアノの対話が、なんとも言えず素晴らしい!途中でやや活気づきますが、全体におだやかで表情豊かな音楽です。
第2楽章、モデラート。「ジングルベル」の音楽みたいな、童話的な軽さを持った、ユーモアがあり軽快なスケルツォです。ゆるやかな部分の叙情性も、すてきです。
第3楽章、叙情的な旋律線と、劇的な要素も併せ持った、なんという素晴らしい結尾!

1949年、病のため、作曲の時間が1日に1時間くらいしか許されない条件の中で、ロストロポーヴィチの協力を得ながら進められてようやく完成、1950年3月1日にモスクワで初演されたそうです。初演者は、チェロがロストロポーヴィチ、ピアノはリヒテルという豪華さです。
リリシズムと優しいユーモアに、チェロのカンティレーナが結び付いた、プロコフィエフの晩年の作品は、くり返し聴き込むほどに味わいのある音楽と感じます。

ピアノのリューバ・エドリナさんは、ボロディン・トリオのピアニストとして有名なのだそうで、私としては初めて。チェロのトゥロフスキーさんは同じくボロディン・トリオのメンバーで、指揮をしたCDなどもあるようです。シャンドス・レーベルのCDはナクソスのミュージック・ライブラリで試聴できるようですので、会員の方はたっぷり聴けるかもしれません。

(*):Chandos CHAN8340~ 現在、ナクソス・ミュージック・ライブラリで試聴できる?
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文書の編集について

2007年12月01日 08時02分02秒 | ブログ運営
先日の「ブログ文章構成法」について、以前、私が中心になり、ある報告書をまとめることになった際に、似たような文章を書いたことを思い出しました。途中の技術的な内容を省略していますが、大要はこんなものでした。

※文書の編集について

 文書の編集というと、その内容は次の三つのレベルに分けられると思います。

(1) 文中の字句の加除修正
(2) 段落の移動、順序変更
(3) 節、章の移動、順序変更

 ここで、(1)の字句の加除修正は、単純な文字挿入や削除が多いわけですが、他には文字単位のカットアンドペーストが頻用されます。また、(2)の段落の移動、順序変更は、行単位のカットアンドペーストが中心になるでしょう。

 これは、文字→文→段落→文章(節→章→文書)という考え方に立っているからですが、これについては、一つ印象的なことがあります。

 だいぶ前になりますが、朝日新聞に、井上ひさしさんが中公新書の『理科系の作文技術』(木下是雄著)という本を激賞する書評を発表したことがあります。その中で、パラグラフの意義を明快に定義していることを重視していました。文学者は、適当な長さになったからそろそろ段落を改めようか、くらいの意識しかない。それが、一つの段落には、中心となる必ずトピック・センテンスがあり、それらの段落が論理的につながって一つの文章の主張を構成する、という明快な考え方に賛同する趣旨だったと記憶しています。

 テキストエディタで文書を編集する場合、同じ段落の中で、主語と述語の関係を統一するのと、数行のパラグラフを移動するのと、節や章ごとそっくり移動することとは、たしかに質的に違うのですね。

 表記や文体の統一は確かに重要なことです。しかし、報告書全体としての重要性を考えれば、むしろ段落や節、章などの順序がこれでよいのかという、文書の構成にかかわる編集を行い、その良否を検討することが重要だと思います。それこそが、編集者の中心的な責務であるといえましょう。

 こうした編集が、自由自在に行えるテキストエディタは、長年使いつづけていますが、仕事の上でも私的な面でも、最も使用する頻度の高い、便利で生産的なツールであると感じます。
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