徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

穴太衆のふるさと

2016-05-17 19:19:08 | 歴史
 震災発生以来、どうも思考回路が熊本や地震のことから抜け出せないので、今日はあえて熊本から離れてみた。ただし、発想したのは一昨日、熊本城石垣で話題にした石工集団・穴太衆である。

 まずは、今から23年ほど前、僕が滋賀県彦根市に勤務していた頃のある日の想い出から。

――守山から琵琶湖大橋を渡ると堅田の町に入る。西近江路を少し南下したところに堅田高校があった。進路指導の先生にご挨拶を済ませると再び西近江路を南下。かつて歓楽街として名をはせた雄琴温泉を通り過ぎ、やがて坂本の町に入る。ここは比叡山麓の門前町。次に訪問する比叡山高校へ向かう前に、とあるお土産物店で一服することにした。――

 この坂本が実は穴太衆のふるさとなのである。穴太という地区も残っているが、そこは6世紀頃に大陸からやって来た渡来人の集落があったそうで、穴太衆も渡来人の血を引く人たちだったのかもしれない。ひょっとしたら、聖徳太子の側近として活躍し、能楽の祖ともいわれる秦河勝と同時期にやって来た人たちかもしれない。坂本の町の寺院など至るところに穴太積みと呼ばれる石積みが見られるが、穴太衆は延暦寺の建設にも与って力があったといわれている。その延暦寺を1571年に焼き討ちにしたのが織田信長。その後、信長の命により延暦寺の抑えとして坂本城を建てたのが明智光秀である。後の細川ガラシャも坂本城で幼少期を過している。
 余談になるが、5、6年前、BS放送で女優の真野響子さんが、白洲正子の随筆「近江山河抄」を追体験するというような番組があった。その番組の中で真野さんが自らの出自を「渡来人の後裔」であり、琵琶湖西岸に祖先の地があると語っていたが、たしかに琵琶湖大橋を渡った堅田の町に真野という地区があった。


琵琶湖から比叡山を望む