雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車の昔話-60

2007-05-20 05:31:34 | カワサキ単車の昔話
仙台時代ー2   東北での昔話

仙台を拠点に東北6県を担当した。
商売としては、代理店営業であったがその先の販売店の訪問もあったので、車を使っての出張であった。

今は高速道路も出来ているが、1967年当時の東北は峠越えなどまだ地道のところが殆どで大変であった。
それにとにかく関西などでは想像できないほど広いのである。
仙台ー盛岡は隣だが200キロ。盛岡ー青森も200キロ。
200キロとは兵庫県明石を基点にすると名古屋までの距離である。
兵庫、大阪、京都、滋賀、岐阜、やっと愛知、五つの県をまたいでの距離なのである。

それでも人間慣れで、200キロはそんなに遠いとは思わぬようになり、夕方まで秋田に居て300キロの道を夜車を飛ばして帰ってきたりしていた。
冬場になると雪道で、それこそ大変だったのだが、雪の舗装で夏の砂利道よりいいと思ったりした。

レース担当直後だったし、アウトイン、アウト。スローイン、ファーストアウト。ダブルクラッチ、ヒール&トウ、カウンターなどのレーステクニックは結構雪道では重宝した。
ある意味、安全運転テクニックでもあった。

まだ珍しかったミシュランのラジアルタイヤをはいて、回転計をセットして、東北6県走り廻った。お陰で殆どの道も、温泉もを知っている。

その車に、一本500円の二級酒をいっぱい積んでいた。
販売店といっても自転車屋さんが殆どだったが、訪問して酒を二本お土産に上げると大体なんでも解決した。
金の多寡ではなく、気持ちが何よりも優先した。
関西から行って、人に二級酒を思ったが、一本は駄目で二本なら二級酒で十分というそんな時代であった。

仙台で肉といえば、豚肉のことで、すき焼きも豚肉、牛肉は殆どなかった。
仙台の牛タンなど、あろう筈はない1967年から70年頃の話である。

仙台の家に雨戸がないので、「用心が悪い」と言ったら、大家さん曰く「ここは泥棒はいない」と仰った。そんなのどかな時代でもあった。

確かに東北の人たちは、人間本来の良さを沢山身につけていて、東北で4年間過ごせたのは本当によかったと思っている。
その最後の一年、隣の北海道もついでに担当してくれと言われて引き受けた。


然し、これには本当に困り果てた。北海道そのものが広く大きい上に、関西から見ると確かに隣だが、仙台ー明石と仙台ー札幌は電話代が一通話同じなのである。
ということは、距離が一緒丁度1000キロ離れている、という事である。

更に冬場は、飛行機が飛ばず汽車と船を乗り継いでの札幌への移動で、動くだけでバテテシマッタ。

後年、国内を担当したとき、北海道は迷うことなく東京の担当とした。
まだどこも、そんなテリトリー制を敷いているところはなかった、1979年の話である。札幌は東京が一番近く便利なのである。

今は、そんなテリトリーも珍しくなくなったが、これは経験が生み出した知恵だった。
私も30代後半、若くて元気であった時代の昔話だが、40年ほど前の話である。
コメント (1)
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