雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

私の生きてきた人生

2016-07-02 08:19:15 | 私の生き方、考え方&意見

★83才になっていま、ちょっと考えていることがある。

『よく今まで生きれたな』と思っている。

20歳のころ、肺結核になって、『そんなに長くは生きられないのだから、幾らかでも足跡を残しておこう』と書き始めた日記は今も尚続いていて、お蔭様で振り返るとそれぞれの年に、その日にどんなことをしていたかは解るのである。

性格的に結構いい加減なのだが、自分で言ったこと、やったことには『責任を負うべき』というのは会社勤めの時も徹底していて、自分の意見とかやってきたことはすべて文書や、それを整理したファイルに纏めてある。

 

 

 

 これはいま私が持っている、カワサキの二輪事業で私が担当した時の資料を纏めたファイルで、年次ごと、プロジェクトごとに纏められている。

カワサキの二輪事業の中では中枢にいたので、その記録自体が『カワサキの二輪事業』そのモノなのである。

その二輪事業のスタート昭和36年から40年間、ずっと二輪事業と一緒に歩いたので、ある意味『カワサキの二輪事業を創った』とも云えるのである。

『カワサキの歴史の本』などと言われる方もおられるのだが、とても一冊の本に納まるような量とは違うのである。

これらのファイルは、約15年の国内マーケットの第1線に出向から事業本部の企画に復帰した1976年から以降20数年間のものなのである。

 

  

 

 こんな風に、年ごとに時系列に月ごとに纏めてあるし、その月の内容は日ごとに纏められていて、その時の資料がそのまま整理されてファイルされているのである。

川重の事業部の中には『社史』編纂のための資料もあるのだろうが、大きな流れの資料としては、これ以上のものはないと思っている。

私だけが持っていても、仕方がないので、そのうちのオモシロそうなのは、そのまま開示するのが一番正直かなと思ったりもしている。

 

  

 

 この年当時のカワ販の企画部長から、単車事業部の企画課長に10月に異動したこの年からスタートしているのである。

 

国内市場の『特約店制度』や『部品発送システム』を約5年間掛かって仕上げて、国内市場も一段落した時期である。

事業本部では、アメリカ市場がオイルショック以降の陰りと、スノーモービル事業の赤字でちょっと大変な時期で、一方明石工場では『小型車市場』への進出が、『生産スタイル』から発想されていた時代で、その構想に本社の吉田専務が乗っておられたそんな危かしい時期だったのである。

このファイルにも『東南アジア』プロジェクトの文字が見えるが、小型車の対策はそんな『生産指向』的な不純な発想ではなくて、マーケットから考えられるべきだと、『市場開発プロジェクト』を私自身が提唱し、1年後には『市場開発プロジェクト室』が高橋鐵郎技術本部長兼務でスタートしたそんな時期なのである。

 

その時書いた『私の提案書』もそのまま残っている。

これは出来れば、そのままご紹介しようかな、とも思っているのである。

それから約30年経って、いまの事業部の事業の主体は、この開発途上国市場が中心に展開されているのである。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スバルに社名変更 雑感

2016-07-02 07:00:12 | 発想$感想

★ 富士重工業がスバルに社名変更するらしい

  

 

こんなニュースが流れた。

http://www.msn.com/ja-jp/news/money/%e3%82%b9%e3%83%90%e3%83%ab%e3%81%b8%e3%81%ae%e7%a4%be%e5%90%8d%e5%a4%89%e6%9b%b4%e3%81%8c%e5%af%8c%e5%a3%ab%e9%87%8d%e5%b7%a5%e3%81%ab%e3%81%a8%e3%81%a3%e3%81%a6%e6%ad%a3%e3%81%97%e3%81%84%e7%90%86%e7%94%b1/ar-AAhPdc9?ocid=SK2MDHP#page=2

 

それはそれなりに、いろいろと理由はあるのだろうが、

取り扱い商品が変わってくると、社名が邪魔になってくるのである。

私が務めたカワサキも国内の販売会社は、このように社名は変化した。

 

   

 

1961年(昭和36年)に設立した当時は、川崎航空機4輪車の開発中だったのである。 Z1の4サイクルエンジン開発で有名な稲村暁一さんは、入社以来この4輪車のエンジン開発を担当していたのである。

私が、二輪車部門の営業に異動になった当時はまだ『カワサキ自販』で神田岩本町に本社があったのだが、4輪車を諦めてしまったので、カワサキオートバイ販売に社名変更し『カワ販』の名称で長らく親しまれていたのである。

90年代になって新しく扱ったジェットスキーが7000台も売れたりして、オートバイからカワサキモータースジャパンに社名変更したのである。

当時、私は国内の責任者をしていたので、その経緯はよく解っている。

 

★ 昭和20年代後半から昭和30年代前半には、日本の二輪メーカーは100社を超えていて、弱小企業も含まれていたが、富士重工業も二輪メーカーであったことなどいまはご存じの方は少ないのかも知れない。

● 『ラビット』と言う名称で売られていたスクーターが富士重工業製であり、富士重工業はかっての中島飛行機なのである。

● 『シルバービジョン』と言うスクーターは、三菱重工業製である。その社名は、中日本重工業→新三菱重工業→三菱重工業このように変化して、いまの三菱重工業がある。

● 『ポインター』当時一番有名だったのがこのポインターでオートバイのことを『ポインター』と言っていた。これはかっての川西航空機ー新明和工業が生産していたのである。

● このほかにも『トーハツ』もいいオートバイを造っていたのだが、生産中止して技術屋さんやレース関係者が、ブリジストンに大量に移動してBSも二輪車生産をやっていた。

 

★戦後の二輪業界は、このような大メーカーが参画していたのだが、ホンダ、スズキ、ヤマハの浜松勢とカワサキとBSが残っていたのだが、BSも撤退して、いまの4社体制になったのである。

それにしても、時代とともに取り扱い商品が変わるので、それに伴って社名が邪魔になるのだと思う。

冒頭の『富士重工業』は『スバル』が調子イイだけに、『富士重工業』が邪魔になるのだと思う。

世の中の末端のユーザーは、『ネーミング』でいろんなことをイメージするのである。

 

冒頭の記事の中にも、アメリカ市場でのホンダやトヨタの4輪車イメージは、『高級車イメージ』にはなっていないので、両社の高級車、『ホンダのアキュラ、そしてトヨタのレクサス』という商品名を敢えて『ホンダ・トヨタ』の社名を出さない『ネーミング戦略』だったのである。

ブランド・イメージ』もアメリカ市場での末端の人たちの評価だから、敢えて高級車のイメージを別に創りだしたかったに違いない。

その時には、『ホンダ・トヨタ』と言う社名が邪魔になるというのである。

 

この辺りの発想と、イメージ戦略はなかなかオモシロい。

そういう意味では『スバル』はそれなりの『いいイメージ』が既に定着しているのだろう

 

 

★NPO  The Good Times のホ―ムページです

 

★三木 緑が丘 サンロードを愛する人のカイ!のホームページです

 

★燦々Sun Sun です。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする