飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

聖書について!!⑧

2008-07-26 07:33:07 | 聖書について

聖書について、書くのはおよそ半年ぶり!!

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 世事が慌ただしい。目が離せない。が、時には内なる面に目を向ける必要もある。

 聖書は、何度も改変させられた。という。それは本当のことであろう。その主な点は、三位一体説であるとか、処女懐妊、十字架とか等々言われているが、そう言った説に穿ち得るところも多い。ほぼ言われている通りであると思う。しかし、かといってその神髄を失ってはいないと思う。

 パウロが、その異端の始まりであるという説までになると、それには与する気にはなれない。確かに原始キリスト教が、何ら文典を残さなかったことは事実である。文典はその後、編纂されたものである。これなどは仏教でも同じ。そして、文典は師ではなく、弟子達によって編纂された。これも同じ。それらは複数あって、意図的に聖書から排斥された、と言うことはあるであろう。あるいは意図せざる(つまり、一時的に失われた)事情によって、除外されたということも又、事実である。

 しかし、『覆い隠されたたもので、顕れないものはない』との経綸で、『死海文書』等で十数世紀を経て世に顕れたものもある。除外された文典で、トーマスの福音とか、マグダラのマリアによる福音等があると聞くが、それも確かな事実である。それらがいわゆる聖書に組み入れなかったことは事実としても、聖書その物の否定にまでは繋がらない。顕れたと言うことは、必要にして顕れたと言うことであるから、編纂を見直す必要がある。しかし、これは相当大変なことである。

 ならば、聖書を読む者が、広く心を開き、真実を探求すればよいことで、何ら差し支えがない。ところが、信者ともなるとそうもいくまい。信者の多くは聖書を独自で読むことをしない。牧師の説教による解釈を通じて聖書を読むことになる。ひどい場合は、事細かに教義化した解説本の方を重視して、聖書そのものを自由には読ませないところさえある。こうなると、カルトそのものであり、マインドコントロールに近い。

 投稿者は、聖書に親しんでいるのであって、キリスト教信者ではない。従って、自由である。別な言い方をすれば、勝手気ままである。だから、異端でも何でも良い、真実を求め、真理に学びたいからである。そうすると、聖書はやはりその骨格において、神髄において真理の書であるとの結論しか見えてこない。

 イエスが復活したのは真実か。? 真実である。それが物質としての復活か、霊としての復活か、論を待たないところであろうが、本当はそんなことはどうでも良い。しかし、聖書には未来としての復活であるとする。それは都合というモノがある。そうでなければ、キリスト教がここまで広まることはなかったかも知れない。そもそも、西欧においては、ギリシャがそうであるようにアリストテレスの物質文明の祖と言うべき地域であるから、その方が都合が良かったのである。

 イエスが処女降誕が真実か。? そんなことはない。その必要はない。それでも尚、イエスは偉大なる師である。三位一体を裏付け、神格化する必要があったに過ぎない。人間イエスを認めることは都合が悪いからである。しかし、それは投稿者に言わせれば、頭が悪いからであって、イエスが人間イエスであり、神の子イエスであることと関係がない。人間はすでに神の子である。そのこととイエスの言われる神の子を理解し得なかったに過ぎない。だから、イエスを唯一の神の御子とした。唯一の神の御子が、人間マリア、人間ヨセフから生まれたとするには理解の域を超えるからである。物質偏重は、二元論に固執する。神は霊なら、物質は土であり霊の息吹をもって命が宿るとされた。しかし、土もまた命であることに変わりがない。

 土から作られた人間は、人間たり得るには人間の霊の息吹が必要であるに過ぎない。

 その仕組みは、今後明らかにされるであろう。が、そのことを理解し得ない時代、イエスが神格化され、唯一の神の御子であっても、その語られる真理が真理であるならば、拘泥する必要はない。我々が求めるのは真理であって、理由付けは二の次である。

 その意味で、聖書は紛れもなく真理を伝える書であることに異議を差し挟む余地はない。

 理由付けは二の次ではあるが、理由が不明確であると、読む者によっては盲信と狂信を惹起する。そして、それに知と意が悪意に働けば、カルトを形成する。今、キリスト教が危ない。カルト化したキリスト教が、あちらこちらに跋扈する。今般も、その一つの教祖が、ヘリコプターで転けた。哀れ、黒こげか。.......?

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聖書について!!⑦

2008-02-19 09:32:51 | 聖書について

奇跡とは!!

 『常識では、理解できないような出来事』である。常識とは、『ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力』であるから、決して『あり得ないこと』ではないことが、分かる。つまり、奇跡とは、『ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力では、理解できないような出来事』にすぎない。

 さて、あまり聖書と引き合いに出すべき代物でもないかも知れないが、驚くべき映像を発見したので、掲載することにした。判断は、各自にゆだねたい。ちなみに、投稿者としては、あり得ると認識するが、実施者についての予備知識はないので、映像マジックかも知れないことを付言する。

http://jp.youtube.com/watch?v=sBQLq2VmZcA

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 マリックや、ユリ・ゲラーを、どう見るか。マジックもあろうし、そうでない場合もあると考える。むしろ、マジックの部分を強調することによって、エンターテイメントとして成立させていると見る。何故、そう見るかというと、『現代では、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力では、理解できないような出来事』 は、マジックで通用するからである。且つ、無難であり、生業(なりわい)にすることが出来る。

 

生業(なりわい)であるから、多少の啓蒙にはなるかも知れないが、それ以上のモノでは決してない。時として、危険でもある。何が危険かというと、善にも悪にも応用される危険である。科学的発見がそうであったように、その原理が悪用されるとすぐに、軍事利用される。であるから、今、そう多くは現出することはないであろう。悪用の一例は、Witchcraft(魔力)であって実在する。その見極めが肝要である。

 奇跡というのは、前述の通りであるから、あり得ない話ではないと言うことは、論を待たないとしても、どうして起こるかというと、それには理由がある。理由のない出来事は、宇宙には存在しない。原因と結果、因果律は大法則であって、ただ、その詳細を覚束無い状況にすぎない。それを奇跡と呼んでいる。

 何故、鳥は空を飛べるのか。それは、理由があった。何故、スプーンは曲がるのか。それには理由が分からない。しかし、スプーンは曲がるし、折れる。人も軽々と浮かぶのである。そして、天井にぶつかり、痛い思いもした。これは、投稿者の体験である。又、人は習いもしない異言を語ることはある。例えば、イタリヤ語であったり、ドイツ語であったり、中国語、ベンガル語(古代)であったりする。信じられないだろうが、アトランティス、ムーの当時の言語であったりすると、もはや確認のしようがない。と言うことは、理由は、人間は転生輪廻をしている証左としか考えられなくなる。これも不肖、投稿者の目撃体験である。

 思うに、人生は短く、生命(いのち)は永遠であるとの重みを痛感せざるを得ない。さすれば、聖書は真実の書であるとの実感を深くする。

 神=聖霊=イエス・キリストを三位一体という。これには議論がある。聖霊とは何か。永遠の生命(いのち)そのものである。そして、それは神(創造神)から出でたエネルギーそのものであって、イエス・キリストはその総体を顕している。故に神の子と称せられる。同時の人の子でもある。翻って、凡愚の我々は何であろうか。

 聖霊に満たされた人は、すべて神の子である。

 聖霊に満たされない場合が、あるであろうか。ある。それは闇の時である。太陽が隠され、真っ暗になるように、肉体をもって生まれた魂は、肉体煩悩に閉ざされて聖霊を拒否する場合がある。字のごとく闇の子である。これを罪と言う。故にパウロは、肉による罪と言い、それから離れることを救いと言った。そして、そのことをイエスの御名に依る救いと言った。そのことは大いに理解できる理由である。

 奇跡は、確かに存在するが、それにはすべて理由がある。あらゆる理由が存在するが、闇の奇跡はご免被りたい。Witchcraft(魔力)の奇跡なぞまっぴらご免である。そこに信仰による奇跡を正道としなければならない理由がある。

 正道ではない奇跡。闇の奇跡。サタンによる奇跡が実在する。それを見抜く賢さを備えなくてはならない。

マタイによる福音書 / 10章 16節   
わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。


聖書について!⑥

2008-02-17 07:05:08 | 聖書について

何故、イエスは十字架に.......
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人類の罪の贖いを、ひとりイエスは背負われた....と、言われている。そして、そのためにイエス・キリストにより、御名を崇めることにより罪から救われる.....。と言われている。

 信者として、教祖をそのように崇めることは当然といえるが、ひとりイエスが人類すべての罪を贖うということには、無理がある。帰する所、自己責任というモノが人間個々に存在する。個々の罪は、個々の贖いによる他はない。贖い、言い換えれば、罪の償いである。

 どうすればいいのであろうか。?

 確かに、イエスは人間の罪により、磔にあった。それは、人間の肉としての罪である。人間には霊としての無限性と普遍性を併せ持つが、肉体を持つと同時に霊性を失う。失うというか忘れる。忘れるというか、否定する。それ故に、自らの霊としての無限性と普遍性を見失うと同時に、偉大なる魂の霊性をも認めない。イエスを真の救世主=キリストであることを認めないばかりか、その御業があまりに大きかったので、妬んだ。妬むばかりでなく、怖れた。又、偽善を暴かれることを怖れた。要するに、イエスは疎ましく、邪魔だったのである。

 そのことをイエスは、当然、見抜いていた。その予定であった。推測であるが、そうなることを承知で、敢えて、激しく指摘し、説教した。奇跡を多く顕し、主なる道=創造主の意思を直裁に説いた。当然、その反発は大きい。同時に気付きも大きい。
 丁度、高熱を出して、早くウィルスをやっつけるようなモノである。風邪は、身体の不調によるモノで、ウィルスはその不調につけいる悪霊のようなモノである。正常な身体には、免疫があるのでウィルスは居着けない。

 当時は、あまりに人間の霊性を欠き、偽善が横行し、悪霊が跋扈(ばっこ)していたので、魂を救済する必要があった。故に救世主である。本性の霊性を思い起こさせるにはどうするのが、最適か。そのためには、愛、それも最愛を気づかせなければならない。それは犠牲である。自ら犠牲の愛を実践したのである。そう推測するのは、異端であろうか。

 たしかに、イエスには当時、たくさんの弟子がいた。12使徒に見るように、必ずしも確たる信念が確立していた訳ではない。ペテロですら、イエスに命を懸けると誓ったペテロですら、3度イエスを真に理解できてはいなかったのである。しかし、イエスの犠牲と復活は、使徒達(ユダを除く)を奮い立たせることに十二分であった。

マタイによる福音書 / 26章 34節
 イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」。
マタイによる福音書 / 26章 74節~75節
 彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。
                (中略)
ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

 イエスの御名を崇めると言うことは、その犠牲の愛を思い起こさせる。人は心に誓うのである。弱き肉の心を捨て措いて、霊性に立とうと。言い換えれば、保身の欲を捨てて、魂の願いに生きようと発心するのである。この為に、イエスは荒療治ではあるが、直裁に主=神の道を説き、悪霊を蹴散らし、又、憤らさせて、自らを十字架に誘った。

 それは、イエスの計画であったと解している。そして、復活もそうである。人間として考えると、これは相当難儀な計画である。とうてい真似の出来る代物ではない。しかし、今、少なくとも10億人を超える信者がいる。イエスの名を知る者は、さらに多くに登るであろう。その功績は偉大である。


 人間は、霊であり、又肉でもある。罪は肉による。罪を犯さない人間はいない。原罪というのは、肉による(肉体として生まれたことによる)必然的な結果である。これは、イエスが磔になったからと言って消えるわけではない。当然である。
 贖いというのは、悔い改めのことである。肉による罪は、霊性による省察により悔い改めることが出来る。そういうことである。霊性とは、真我・アートマ(究極の良心)に立って生きることである。簡単に言うと、偽善を排し、善に立つと言うことである。
 


聖書について!⑤

2008-02-11 20:07:54 | 聖書について

サイババの語るイエス!!! 

 (前略)きょう皆さんは、イエスが大切にした理想を思い出さなければなりません。幾時代にもわたって、大いなる霊的な力を 備えた幾多の高貴な魂たちが、世界に神聖な教えを広めるために、時おり地上に生まれてきました。

 彼らは、世界を、住む者にとって良い場所にするために大変 な努力をしました。ところが、愚かな人々は、その崇高な意図を理解することなく、彼らをあざけり、迫害しようとしました。イエスは、誕生のときから、多く の試練や苦難に遭わなければなりませんでした。高貴な魂たちの名声があまねく広まるとき、多くの人々はそれを妬みます。アスヤ(妬み)とアナスヤ(妬みの 欠如)とは姉妹のような関係にあります。

 バーラタの歴史にはこの真理を証する数多くの例が見られます。アスヤには、カーマ(欲望)、クローダ(怒り)、 ドゥウェーシャ(憎しみ)の3人の子供がいます。ブランマ(創造の神)、ヴィシュヌ(維持の神)、マヘーシュワラ(破壊の神)という三位 一体の神々は、アナスヤから生まれました。アスヤの3人の邪悪な子供たち(すなわち欲望・怒り・憎しみ)は、社会の平和と幸福のためにたゆみなく努力を続 けたイエスに多大な苦しみを与えました。

 イエスは慈悲の権化であり、貧しい人々や、見捨てられた人々の友でありました。しかし多くの人が、イエスの神聖な 教えや行いを嫌って、イエスを様々な困難に合わせようとしました。イエスに対する彼らの憎しみは日々高まっていきました。聖職者たちさえも、彼の人気が段 々と高まるのを妬んで彼に対抗するようになりました。漁師たちはイエスを敬いました。彼らはイエスの教えを守り始め、彼の弟子になりました。多くの人々が 妬みのゆえに彼の道を妨害し、彼を殺そうとさえしたのです。

 イエスには12人の弟子がいました。ユダは12番目の弟子であり、 最後にはイエスを裏切りました。その当時は、ユダは一人しかいませんでしたが、今の時代には、そのような「ユダたち」がたくさんいます。

 今日世界が不穏に 包まれているのは、ユダのような裏切り者の数が増えたためです。彼らは心が実に低劣なので、お金によって容易に誘惑されるのです。ユダは、たった何枚かの 銀貨のためにイエスを売りました。

 すでに2000年前においてさえ、お金が人間の主要な目的となっていたのです。人々は、金銭に対する貪欲さのために、邪 悪で不正な方法に訴え、真実を歪めて、偽りの敵対宣伝をしました。これはその当時の話しですが、その状況は今に到っても変わりません。誰も、そのような虚 偽の申し立てを恐れる必要はありません。どうして人間が自分の犯していない過ちを恐れなければならないのですか?

 過去において、多くの邪悪な心の持ち主が、真理と正義の教えを説いて世界的な名声を博した神人たちを妬みました。現代においてさえも、そのような邪(よこ しま)な人々の数は決して減ってはいないのです。(後略)

<逆さ十字の磔の図・おそらくペテロの磔の図であろう)

Photo_2 クリスチャンは、イエスをクリスチャン以外の者が語るのを、快く思わないかも知れない。それは見当違いである。イエスは、ユダヤ人として生まれた。それは、マタイ伝にはっきり記されている。そして、ユダヤ人にも説教したし、それ以外にもした。結局、ユダヤ人の会衆に十字架 につけられた。イエスはユダヤ人のものではなく、クリスチャンのものではなく、すべての主である。と、同じく、サイババは現代のすべてのグルである。

 復活して後、弟子を異邦人に遣わした。最大の功績は、サウロことパウロである。サウロは当初、パリサイ人の司祭としてイエスの弟子達を迫害したが、降臨したイエスに目覚め、ギリシャ、ローマに伝道し、現代のキリスト教の礎を築いた。

 イエスは、ユダヤの民に生まれ、ユダヤの会衆に殺されたが、形骸化されたユダヤ教をどうこうしたわけではない。普遍的な真理を説き、正義を説き、愛を説いた。だから、妬みを受けて殺された。

 サイババも同じである。サイババの語ること、行うことは普遍の真理である。それは、聖書を読むと分かる。5つのパンと、2切れの魚を裂いて、5,000人の食物としたことなど、まるで手品ではないか。イエスが為したことが奇跡であるなら、サイババのそれも奇跡である。

 聖書を読む上に、奇跡を度外視するのは、苦行に近い。漫然と生きるのも自由だが、実は奇跡を日々味わう生き方もある。それが、奇跡というモノである。水の上を歩くのも、空に浮遊するのも、消えるのもあって悪いことはない。ある日、死ぬこともある。無常の風は、いつも吹いている。しかし、今生きてこうしてブログを書けるのは、奇跡である。

マタイによる福音書 / 14章25節以下
 イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。
           (中略)
 するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。
 しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。


 

      

聖書について!④

2008-02-03 09:09:54 | 聖書について

いわゆる黙示録について!!

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 聖書をあまり読まないとき、それでも黙示録については、読み、聞き、そして考えた。

 黙示録は、その名の通り、はっきりと言わず、暗黙のうちに意志や考えを示すことの記録であるので、実はよくは分からない部分が多い。しかし、逆に、はっきりと言ってないことで、解釈する側から、あらゆる事に引用され易い。

 とりわけ、世の終わり、終末論には欠かすことの出来ない章である。最近では、陰謀論では、必ずと言って良いほど引用される。例にもれず、『読み、聞き、そして考えた』きっかけは、それではなかったかと思っている。そこで、虚心坦懐に再読した。

ヨハネの黙示録 / 1章 1節~最終章節
 イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起こるべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。
 ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。・・・・(中略) 

 この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。
 また、もし、この書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべきぶんを、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。
             これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。
             主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。

 いわば、これは霊界物語であって、めくるめく象徴の世界である。しかし、その象徴は、現状の世界を見事に言い表している。具体的ではないが、ある意味、図星と思えるような具体事例をちりばめている。議論されるところは、これは、何時の時代の黙示であるかという点である。 新約聖書が登場して、約2000年。常に、その間、この黙示録は議論されてきたであろう事は、よく解る。新参者の素人が、この議論に参加する資格はないことは重々承知しているが、今の現状に鑑みると、今しかないというのが正直な感想である。

 『すぐにも起るべきことを.....云々』というと、何時の時代にも、『今しかない』と感じ、終末論議があったことが頷ける。それはそれで、キリスト教がある意味で、緊張感を保ってきた所以であろう。最後の審判と終末論は、キリスト教の本分である。しかし、これは読み方である。

 最後の審判には、2つある。1つは個々人にある最期、つまり、肉体の死である。肉体の死により、霊の生まれがある。その時、例外なく、霊による審判がある。肉の罪をどのように裁くかは、それぞれの霊の範疇にある。

 もう一つは、人類全般に渡る最後の審判である。いわば、集団審判である。これは、永いスパンであるものと考える。文明の人類世界の『立て替え立て直し』である。このことを黙示していると考えると、もうぼつぼつかなと思われる。これは救世主『キリスト=神』たる役目と考えると、この黙示録は現実味を帯びてくる。

 そして、終末とは何か。? 世の終わり、世相の終わりである。今の世相は、肉の世相である。肉の世相とは何か。利益欲得の世相である。そして、それは支配と奴隷の格差を生む世相となった。又、真顔でそれを進捗(しんちょく=進めること)しようとする輩がいる。今では裏に隠れているが、表面にまさに出ようとしている。そのことは『シオンの議定書』等読めば、如何に取り繕うと透けて見えてくる。

 又、最近でOne World Orderなるモノが叫ばれ、世界統一支配体制が吹聴される。ブッシュがそうだし、実はイランの大統領Mahmoud Ahmadinejadも同じ見解なのである。

2つのマスクの下には同じ顔
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イランの大統領Mahmoud Ahmadinejadはグローバルゼーション研究の国立センターの記念式典で次のように語った。「今日の人類が最も必要としているのは世界統一政府である」

全世界で一つの法律は人類が最も必要としているものだと提案した後、大統領は続けて、「世界には何千もの法律があるので、国際化された社会が均衡がとれ、正義が行われ、安定した状態に到達するのを望むことは不可能だ」と語った。

 よく見て欲しい。あのイランとアメリカの大統領が、同じ穴の狢であるという現実を。斯くほどに偽善の横行している時代はない。もうそろそろ、終末にしなければと思うのは、神=救世主ならぬ一介の市民の感想である。

 紙数の関係で、黙示録を全編紹介することは出来ないが、霊性を知り、肉の罪を認識し、善を採り、偽善を排する見解をもって世相を厳しく見ていくと、『ヨハネの黙示録』ほど面白く、勇気づけられる書物はない。いろいろ黙示録があるが、やっぱり聖書の黙示録は一級品である。