飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

聖書について!③

2008-02-02 06:44:19 | 聖書について

霊性について知ろうとしなければ、聖書であれ、意味をなさない!!
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使徒行伝 / 2章 1節から20節にかけて、次のような記述がある。

 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。

 そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。

 「ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。
 そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。

 「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。......」

 つまり、『聖霊』に満たされた使徒たちが、異言を語ったとある。異言とは、異国語のことである。例えば、日本人でありながら、習ってもいないロシア語、又は、インドネシア語を語るようなものである。『聖霊』とは、聖書に随所に出てくる聖き霊の事であって、反対は悪霊である。当時は、悪霊も跋扈したようであって、至る所で登場する。
 『聖霊』に満たされたと言うことは、聖き霊=ハイアーセルフに肉体を支配されたと言うことであって、無意識に習ってもいない言葉が、思いもがな、口をついて出たと言うことである。そして、説教をした。
 その逆は、解離性同一障害の方が、まるで人格が変わったように喋る現象がある。これは悪霊に『満たされた=憑依された』結果である。医学は、唯物論であるから、とうてい認めないが、霊性を認容する立場からするとよく判る。

 とにかく、聖書を読むに当たって、この霊性についての認容なくして、読むには中(あた)らない。何故かというと、読み始めたらすぐに『奇跡』、ちょっと行ったら『悪鬼に憑かれたる.....云々』、またまた、『奇跡、奇跡』の連続であるからだ。丁度、いざ雪国へと言うとき、スタッドレスタイヤもチェーンも準備せず、出発するようなものだ。滑って滑って、前に進める道理がない。

 聖書は、一言も転生輪廻について書かれていないけれども、この使徒行伝 / 2章などは、そのことの暗示に他ならない。

 聖書について、さまざまな見解がある。しかし、霊性を否定して述べられた見解は、聞いていて、お門違いの感を拭えないし、皮相的見解としか見えない。
 イエスは、実在した。キリストである。復活した。そして、今に活きている。この『活きている』と言うのが、ミソである。肉体として生きてはいないけれども、活き活きと活きている。

 又、人間は生きる。活かされて生きる。そして、死ぬ。しかし、死んで活きる。だだし、霊によって救われなければ、すなわち、肉の罪を離れて、霊の義(定め)に立たなければ、生きて死ぬ。それを聖書を読むことによって、学んでいる。アーメン


聖書について!②

2008-01-27 07:18:01 | 聖書について

聖書について、書かなければならないのは......。

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 クリスチャンでもない私が、何故書こうと思ったか。? それは、イエスが実在したことと、その教えが汚されつつあると感じたからだ。
 イエスは、キリストであると確信している。キリストとは救世主のことである。救世主は、別名メシアとも呼ばれる。あるいは贖い主、助け主とも言う。グル(教師)であり、神の化身でもあると思う。要するに、イエスは、肉体人間として(と言うと、本物?のクリスチャンからは、抗議が来るかも知れないが、.....)生まれたことは確かであるが、その御魂において、偉大なる魂であることは間違いがなく、その御魂を通じて精霊が宿り、父なる存在(創造の意志)を顕したのである。
 御魂と精霊と神(父なる存在)が一体化した存在こそが、キリストであり、メシアであり、グルと言うものである。一体化しているからこそ、神の化身と言われる。イエスは肉体は人間であるが、霊においては、
神(父なる存在)でもある。魂と精霊とによって神(父なる存在)なのである。

 ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。ヨハネによる福音書 / 14章 8節』との問いに、イエスはこう答えておられる。
 『イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。
 どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。
 父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。ヨハネによる福音書 / 14章 9節~11節


 これは、物質的限界ではとうてい解り難いことである。精霊も
神(父なる存在)も目に見えず、触る事も出来ないからだ。その意味では、空気も電気も赤外線・紫外線も似たようなものである。最近でこそ、機器を通じて、素粒子まで感知することが出来るようになったが、それまではあり得ざるものであった。
 
 神の化身であるイエスは、実在の神を説いたのであるが、パリサイ人(ファリサイ人とも言う。ユダヤ教のグループ)や、サドカイ人(ユダヤ教の唯物論者グループ)は、理解しないばかりか、既存権力を守るために、イエスを攻撃した。

 その構図は、いまも全く同じである。理解しないのは、致し方がないとしても、毀損することは大いなる罪である。何故毀損するか。? イエスが言う三位一体の権威が真実であると、都合が悪いのである。 イエスが説いた教え、イエスが為した業(わざ)と、毀損したがる連中の思い、行動がことごとく反するからに他ならない。イエスが善としたら、彼らは偽善である。

 聖書を、素直に読むとよく解る。

 
偽善者は、語ることにおいて、神の代弁者のごとく語る。思いはまったく別である。自己中心であり、尊大である。神の子であることを拒否して、自らが神のごとくあるとする。且つ、狡猾である。偽りを畏れず、縦横に駆使して、自らの益に利することを彼らの善としている。ウソ偽りの常習犯である。詐欺師であり、ペテン師である。秘密を保持し、闇で謀る。欲で行動し、他の犠牲を誇る。富を尊び、自己を愛す。女性を酷使し、子供を狂わす。支配を望み、闇の帝王を奉る。

 挙げれば、きりがない。聖書にそのようなことは一つも言ってない。仮に、
聖書が永い時代を経て、変遷を経たことを差っ引いても、書かれた聖句は今にして、輝ける聖句である。

『人をさばくな。自分がさばかれないためである。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(うつばり)を認めないのか。自分の目には梁(うつばり)があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁(うつばり)を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。マタイによる福音書 / 7章 1節~5節

 最後に、聖書を読むにあたって、肝心なことは霊を認めなくてはならない。人間はこの世限りのものではないと言うことを認識する必要がある。霊的存在であることを認識しないでは、聖書は単なる倫理書にすぎず、これほど退屈な書物はないと言うことである。
 霊的存在であると言うことは、人間は神の一部であると言うことである。生ける神がイエスをしてキリストと成ったごとく、イエスを通じて、人間は神の子として成ると言うことである。イエスを通じてと言ったが、これには理由がある。 

『よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。』

 先にも書いたことであるが、私は正式なクリスチャンではないのでイエスに拘っているのではない。しかし、イエスを信じる。キリストとして信ずる。であるから、ここでは広義に『救世主=グル』を通じて、人間は神の子として成ると言い換える。要は、人間が霊的存在であるとして、子が親から生まれるように、魂の親が『救世主=グル』であるとの義を行うことが、神の子たる所以であるというのである。それは当然の事である。

 聖書を読むにあたっては、イエスは紛れもなく、キリストである。サイババの教えを読むにあたっては、サイババは紛れもなく『グル』である。そこには一点の矛盾がない。そして、私は一介の神の子であり、一介の神の化身であることを認識し、幸いを味わう。

 


 


聖書について

2008-01-23 07:07:28 | 聖書について

聖書について

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 もとより正式なクリスチャンではない。ましてやカトリックでもない。しかし、聖書は読む。読むほどに聖句は心に染み渡る。これは実感であって、誇張でも何でもない。
 そもそも聖書になれそめは、高校時代、ギデオン協会(?)の英対訳新約聖書の寄贈を受けたことに始まる。最初は、いわば英語の勉強を兼ねた読書に過ぎなかった。少々古い英語で辞書にもない単語が多く、閉口する部分もあったが、簡潔な文体で素直に親しむことが出来た。ずいぶん長く、座右の書の一つであった。

 それが何時の頃か、舊(きゅう=旧)新約聖書(日本聖書協会発行)に変わった。いわゆる文語訳の聖書である。最近は、これに親しんでいるものだから、口語訳の聖書は、少しこそばゆい感じがする。
 『元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり 地は定型(かたち)なく曠空(むなし)くして黒暗淵(やみわだ)の面(おもて)あり神の霊水(れいみづ)の面(おもて)を覆(おほひ)たりき....』で始まる聖書である。引用するにも一苦労する。もちろん仮名振りはしてある。そうでなければ、とうてい読むことを、とうに諦めたであろう。

 読み慣れると、これが非常にいい。文語と言うだけあって、目から音楽のように入り込んでくる。韻があるというか、調子よく流れるように文字を追っている自分が不思議な思いがする。そこは口語訳では味わえない何かがある。

 この聖書に出会ったのも、ひょんなきっかけである。ある時、洗礼について論議したことがある。論議というか、話題にしたぐらいだが、友人が『あの水をちょこっと頭に降り注ぐのは、本当の洗礼じゃあない。本物は全身をザブリと水に浸さなければならない。』と言った。それじゃ体験してみようと思って、体験した。友人はクリスチャンである。友人の親しんでいる牧師に頼んで、その洗礼を受けた。その時、この聖書を入手した。
 洗礼を受けたと言う意味では、クリスチャンなのかもしれない。しかし、その教会には洗礼を体験することが、狙いみたいだったので、数回、説教を聴きに行ったが、その後とんとご無沙汰している。
 洗礼は受けたが、寺には参るし、神社にも賽銭を投げる。友人は決してそういうことはしなかった。むしろ避けた。その意味では、私は決してクリスチャンではない。

 とはいえ、神の実在を信じている。しばしば臨在を感じる。臨在と言っても、神なのかそうでないのかは判らない。上(カミ)なる存在なのかもしれない。いわゆるハイアーセルフ(高次元の自己)と言うやつだ。しかし、そういうことはどうでも良いことである。生かされているという実感があるということは、少なくとも大いなる幸いと思っている。
 聖書は、大きく変遷をしてきたとも言われる。そうであろう。マリアの処女懐胎などはどうもあり得ないと思う。それも聖書の読みようである。マタイ伝の第一章などはアブラハムから延々と続くイエスまでの系譜を辿っている。そして、マリアの夫ヨセフをもってイエスに続く系譜としている点、あれは何のための記述かと思う。肉体の系譜であるから今風に言えばDNAの系譜である。
 それから唐突にイエスの誕生の下りになると、『その母マリア、ヨセフの許嫁(いいなづけ)したるのみにて、未だ偕(とも)にならざりしに、精霊によりて孕(みごも)り、その孕(みごも)りたること顕れたり。.....』となる。そこで、マリアの処女懐胎となるのであろうが、正式なクリスチャンではない者として、自由に読むとこうである。
 霊と肉は別であって、肉は生物学的原理により発生し、系譜が続いて当然である。別に何ら不都合はない。霊は、精霊は降臨による。イエスの御霊は、降臨によるモノで肉体の系譜とは無関係であると言っているに過ぎない。

 それは、別の下りでそう読み取れる。(これからやっかいなので原文引用はやめる。)

【聖書口語訳引用開始】「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。【聖書口語訳引用終了】

 分かり易く言うと、イエスという名前で生まれたキリストは、肉体はダビデの系譜、すなわち子である。しかし、その魂は、すなわちダビデが主と呼んだキリスト(救世主)であるから、ダビデの子であろうはずがない。ここは肉体と霊とは別だとしないと、とうてい、このことは理解できない。
 身近で言うと、肉親で親子でも魂は別であると言うことだ。縁あって今生、親子として肉体を持って生まれ合わせたことを意味している。そして、その子がその親より魂が大きい場合もあると言うことだ。

 こんな聖書読みが、クリスチャンで大人しく居られる訳がなかろう。