龍安寺と書いて りょうあんじ であります。
このお寺も教科書に載っていまして石庭と蹲(つくばい)で有名であります。
と、いうことで自分のお目当も石庭なんですが、毎度の如く下調べは無く行き当たりばったりの拝観であります。
説明は英語がメインか?
あれです、京都のお寺は何処もとんでもない敷地の広さでしたが龍安寺も然りで、なんと境内は15万坪だそうであります。
15万坪ですかぁ、あぁそーですか、権力の象徴だったんでしょうね、と反権力志向の自分は僻み根性の一つも懐きそうですが、違います。
私ゃこの度の京都の寺巡りで文化財に対する認識を改めたのであります。
以前の自分は時の権力者が権勢を誇示するのに造ったと思しき神社仏閣を嫌っていたんですが今は違います。
当時の民百姓から巻き上げた銭で建立されたのは痛い処ですが、しかし権力者が財力に物を言わせて無駄に巨大な塔や建物を造らなければ日本の文化もなかったのである、なんて事に気がついたわけであります。
鞍馬天狗が出てきそうですが
龍安寺垣
いや、石庭が夙に有名な龍安寺ですが樹の手入れや垣根にも見るべきものは多いのであります。
石庭のある方丈へ
なんと申しましょうか、仏教は好きですが特別な宗派に思い入れがあるわけでも無い自分は各宗派の違いなど全く知らないんですが、何故かピリッとしたものを感じると禅宗の寺で、大概は臨済宗なのであります。
それはたぶん臨済宗の寺のご本尊が釈迦如来であることと無関係とは思えないのでありますが、まっ、いいでしょう。
教科書通りの石庭
龍安寺は売り物が一点集中の石庭だからか大した数の参拝者でも無いのにここだけ人が多いわけです。
で、本格的なカメラを持った人は拝観者の影の入らない画角を狙い、また人がいなくなるのを待っているわけですが、自分に言わせるとあんたがそこに座り続けたら俺だって撮れないから譲らないよ、と言いたくなるんですが、そこは大人の判断でして適当なところからのパチクリで我慢した次第であります。
こっち端からの石庭
石庭には意味ありげな石が15個配されているわけですがどー眺めても配置の意味は読み解けないものでありました。
いや、この庭は不思議だと散々言われているわけで、どんな解説を読んでも解釈は謎で見たものの自由となっているのであります。
しかも、何がしたくてこの創りなんだ、というのが庭を囲う油土の壁でして、奥に向かって妙に下がって見えるわけです。
これを美というのを許せない自分は、不愉快にさせる作りである、と思った次第であります。
で、これは文字では無い禅問答であると気がついたのは石庭から目を離して常識的な庭を見た時でありました。
ああ、そーいうことか、と私ゃ笑いがこみ上げたんですが、意外と簡単な公案だと思った次第であります、なんちゃって。
いや、答えは恥ずかしいので内緒です。
鏡容池 懸崖の紅葉
池に下がる懸崖の紅葉が水に映る様は美しいの一言であります。
重く無く軽く無く透かされた紅葉から見える枝の動きの妙には言葉もありませんでした。
と、いうことで次は「金閣寺」です。
つづく
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