珠洲市長選挙の告示まであと6日となった。
今回の市長選について、5月7日のブログでは珠洲の教育を議論する場になればと期待を書かせてもらった。
その中で、「8年前、貝蔵市政から泉谷市政に変わり、私は大きく2つの点で市政の転換が図られたと思ってる」と書いた。
2つのうちの 一つは学校統廃合を中心とした教育政策の転換だが、もう一つは地域振興を巡る視点の転換である。
珠洲市の歴史を大雑把に振り返れば、1954年7月15日、合併により人口38,157人で発足して以降、過疎対策が市政の最大の課題であった。合併当時から若者の流出によって人口は減少し続け、若者が地元に残れるよう雇用の場の確保が叫ばれた。雇用の場=企業(工場)誘致である。まもなく日本は高度経済成長に突入。工場は太平洋ベルト地帯に集中し、若者の流出が止まることはなかった。新産業都市や日本列島改造論などで地方にも工場を分散する構想は打ち出されたが、半島先端の珠洲市は地の利がなく、企業はこない。
道路や港など産業基盤を整備し、半島先端のハンディを克服しなければならないとし、そのために打ち出されたのが原発計画だった。28年あまり原発誘致による地域活性化が行政の最大かつ唯一の課題だった。
2003年12月5日、電力3社が撤退した後も外からの施設誘致で雇用の場を確保する発想は変わらず、象徴的だったのが刑務所誘致だった。
2006年、貝蔵治市長が体調不良で辞職し、泉谷市政がスタートした。
ここで地域の食や資源を生かしたにローカルビジネス、スモールビジネスと言った新ビジネスによる雇用創出へと舵が切られた。私から見れば市政発足47年目にしての方針の大転換である。もちろんその背景には、かつてと違い、流出する若者自体が減少している現実、企業誘致をしても従業員を確保することが難しい過疎の深刻化もあった。
泉谷市長にとって幸運だったのは、就任直後に舞い込んだ金沢大学の里山里海自然学校の設置である。地域資源を端的に示す言葉として「里山里海」がクローズアップされた。さらに幸運は続く。2011年6月、珠洲市を含む能登の4市4町が「能登の里山里海」として世界農業遺産に認定されたのである。市政の方針転換に珠洲市を取り巻く環境の変化もかみ合って一つの方向が見えてきたかに思えた。
こうした中での今回の市長選挙である。
濱田市議は「日本全国を駆け回り、今まで珠洲市になかった新しい仕事を誘致し、雇用の場を増やすことで・・・」とリーフレットに記載している。
この背景には、地域資源を生かした新ビジネス創出の動きに対する物足りなさ、そして依然として歯止めのかからない過疎化・少子化、若者の減少への危機感がある。濱田市議が具体的にどのような「新しい仕事」を考えているのか、あるいは実現可能性はあるのかは現時点では不明である。今後、選挙広報を含め選挙戦で明らかにするのかもしれない。あるいはこのまま抽象的な表現であっても期待を集められると判断し、突き進むのかもしれない。
迎え撃つ泉谷市長も、道の駅狼煙や塩田村などの成功例を語るだけではなく、かつての工場誘致ではなく里山里海を生かした企業誘致にも力点を置く姿勢を先の3月議会で示している。国際芸術祭も外からのノウハウを導入しつつ地域資源を生かすチャレンジといえる。
泉谷市政8年間で、地域住民の様々な自主的活動を増え、それを行政が後方支援する流れは定着してきた。こうした動きはさらに拡大しつつある。しかし、この延長線上で地域の課題は克服され、将来展望が開けるのか。日々進行する厳しい現実を前に、多くの市民は確信を持てずにいる。
かつて47年間追い求めてきた外からの「新しい仕事の誘致」に再び賭けるのか、シングルヒットや四球、送りバントを手堅く積み重ねて展望を見出す努力を続けるのか。市民の皆さんの泉谷市政の審判が注目される。
さて、ここでこの8年間にわたる二つの政策転換に限って私の見解を言うなら、転換を評価する立場である。
ただし市長選挙はこうした政策の比較にとどまらず、政治信条や政治的スタンス、政治家としてのリーダーシップ、人柄含め諸々の判断基準による総合評価である。実際、私の耳に入ってくる有権者の皆さんが両立候補予定者に向ける視線は厳しい。
私の立場については繰り返しとなるが、4月26日のブログで書いた通り、どなたが市長になっても議員の立場で引き続き厳しく追及していくということで変わりはない。
今回の市長選について、5月7日のブログでは珠洲の教育を議論する場になればと期待を書かせてもらった。
その中で、「8年前、貝蔵市政から泉谷市政に変わり、私は大きく2つの点で市政の転換が図られたと思ってる」と書いた。
2つのうちの 一つは学校統廃合を中心とした教育政策の転換だが、もう一つは地域振興を巡る視点の転換である。
珠洲市の歴史を大雑把に振り返れば、1954年7月15日、合併により人口38,157人で発足して以降、過疎対策が市政の最大の課題であった。合併当時から若者の流出によって人口は減少し続け、若者が地元に残れるよう雇用の場の確保が叫ばれた。雇用の場=企業(工場)誘致である。まもなく日本は高度経済成長に突入。工場は太平洋ベルト地帯に集中し、若者の流出が止まることはなかった。新産業都市や日本列島改造論などで地方にも工場を分散する構想は打ち出されたが、半島先端の珠洲市は地の利がなく、企業はこない。
道路や港など産業基盤を整備し、半島先端のハンディを克服しなければならないとし、そのために打ち出されたのが原発計画だった。28年あまり原発誘致による地域活性化が行政の最大かつ唯一の課題だった。
2003年12月5日、電力3社が撤退した後も外からの施設誘致で雇用の場を確保する発想は変わらず、象徴的だったのが刑務所誘致だった。
2006年、貝蔵治市長が体調不良で辞職し、泉谷市政がスタートした。
ここで地域の食や資源を生かしたにローカルビジネス、スモールビジネスと言った新ビジネスによる雇用創出へと舵が切られた。私から見れば市政発足47年目にしての方針の大転換である。もちろんその背景には、かつてと違い、流出する若者自体が減少している現実、企業誘致をしても従業員を確保することが難しい過疎の深刻化もあった。
泉谷市長にとって幸運だったのは、就任直後に舞い込んだ金沢大学の里山里海自然学校の設置である。地域資源を端的に示す言葉として「里山里海」がクローズアップされた。さらに幸運は続く。2011年6月、珠洲市を含む能登の4市4町が「能登の里山里海」として世界農業遺産に認定されたのである。市政の方針転換に珠洲市を取り巻く環境の変化もかみ合って一つの方向が見えてきたかに思えた。
こうした中での今回の市長選挙である。
濱田市議は「日本全国を駆け回り、今まで珠洲市になかった新しい仕事を誘致し、雇用の場を増やすことで・・・」とリーフレットに記載している。
この背景には、地域資源を生かした新ビジネス創出の動きに対する物足りなさ、そして依然として歯止めのかからない過疎化・少子化、若者の減少への危機感がある。濱田市議が具体的にどのような「新しい仕事」を考えているのか、あるいは実現可能性はあるのかは現時点では不明である。今後、選挙広報を含め選挙戦で明らかにするのかもしれない。あるいはこのまま抽象的な表現であっても期待を集められると判断し、突き進むのかもしれない。
迎え撃つ泉谷市長も、道の駅狼煙や塩田村などの成功例を語るだけではなく、かつての工場誘致ではなく里山里海を生かした企業誘致にも力点を置く姿勢を先の3月議会で示している。国際芸術祭も外からのノウハウを導入しつつ地域資源を生かすチャレンジといえる。
泉谷市政8年間で、地域住民の様々な自主的活動を増え、それを行政が後方支援する流れは定着してきた。こうした動きはさらに拡大しつつある。しかし、この延長線上で地域の課題は克服され、将来展望が開けるのか。日々進行する厳しい現実を前に、多くの市民は確信を持てずにいる。
かつて47年間追い求めてきた外からの「新しい仕事の誘致」に再び賭けるのか、シングルヒットや四球、送りバントを手堅く積み重ねて展望を見出す努力を続けるのか。市民の皆さんの泉谷市政の審判が注目される。
さて、ここでこの8年間にわたる二つの政策転換に限って私の見解を言うなら、転換を評価する立場である。
ただし市長選挙はこうした政策の比較にとどまらず、政治信条や政治的スタンス、政治家としてのリーダーシップ、人柄含め諸々の判断基準による総合評価である。実際、私の耳に入ってくる有権者の皆さんが両立候補予定者に向ける視線は厳しい。
私の立場については繰り返しとなるが、4月26日のブログで書いた通り、どなたが市長になっても議員の立場で引き続き厳しく追及していくということで変わりはない。
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