8月31日に書いた第五福竜丸のことが気になり、9.19さようなら原発集会がおこなわれた日の午前中、江東区の夢の島公園にある「第五福竜丸展示館」を訪れる。
目の前には夢の島マリーナが広がるが、展示館はゴミの埋立地とは思えない緑いっぱいの公園の中にひっそりと建っている。
展示館の入り口には第五福竜丸の大量旗。
そして管内に入ると目の前、というか頭上に福竜丸がドーンと展示されている。よくぞこんな木造船で太平洋を南下し、マーシャル諸島まで行ったものだとまず感心する。
しばらくすると20人あまりの団体がやってきて、展示館の方から説明を受ける。埼玉県の平和団体の皆さんだった。私も横で聞くことにする。
ここ数年、毎年のように広島、長崎を訪れ、3月1日のビキニデーには静岡市で開催される平和集会にも参加してきたが、第五福竜丸事件について、あまりにも知識がないことに自分でもあきれるほどだ。
操業中に被爆し、久保山愛吉さんが亡くなったこと。汚染されたマグロが出回ったこと。そしてこの事件をきっかけに杉並の主婦の皆さんから核廃絶の署名運動が始まり、今日の原水禁運動の原点となったことくらいである。
まず、抑えておかなければならないのは、第五福竜丸が死の灰を持ち帰ったという重大な事実である。展示館にもその白い灰が展示されている。ビキニ環礁のサンゴが水爆で粉々となって灰のように降ってきたものだ。
後にこの灰の分析で、米軍の最高軍事機密である水爆の構造まで明らかになったのだから、米軍に居場所を知られず焼津港へまっしぐらに寄港した久保山愛吉さんの判断は歴史に残る英断である。
被爆66年の時代を生きる私たちからみれば、広島・長崎の悲劇を経験し、戦後すぐに核兵器廃絶への声が上がったと思いがちである。しかし、日本で原水禁運動が広がったのはこのビキニ以降。
つまり日米両政府は被爆の実相をひた隠しにしてきたのである。第五福竜丸の乗組員は原爆と言っても「新型爆弾」、「ビカドン」以上のことは知らなかったそうである。焼津の漁師さんだから知らなかったのではない。多くの日本人が知らなかったのである。
放射能のことも、被爆のことも知らない。死の灰を体内に入れてしまったことも悔やまれるが、原爆投下から約10年間、国民は被爆の恐怖を知らされていなかったのである。
ビキニ事件後、被爆マグロが日本中に流通し、消費者はパニックとなり、さらに久保山愛吉さんが亡くなり、放射能の恐怖が現実のものとなる。
ようやくここで、広島、長崎の被爆問題も表面化し、1957年3月、原爆医療法が成立する。ところがここで法律の対象は広島、長崎の被爆者だけにされてしまったのである。つまり、ビキニでの被爆者には「被爆者手帳」さえ交付されていないのである。
被爆者としての差別にあい、わずかだが見舞金をもらったということで他の漁船の乗組員からはねたまれ、核廃絶の運動に関われば「アカ」と指差され、多くの乗組員は肝臓癌や肝硬変で亡くなっている。第五福竜丸の被爆者で、現在まで語り部として活動している大石又七さんも、その後の人生を東京で暮らし、ふるさと焼津にはほとんど帰っていないそうだ。
原発との関係でも忘れてはいけないことがある。ビキニ事件が1954年。日本政府は米国との間での被害者への補償交渉をわずかな見舞金で政治決着をはかり、汚染マグロの調査も打ち切り、事件の収束を一気に図ったのである。それが1955年1月4日。そしてその1週間後の11日、米国から日本政府に濃縮ウランの受入れ打診の文書が届いたのである。そしてこの年の6月21日、日米原子力協定が仮調印、翌年には東海村に原子炉が搬入。日本の原子力発電のスタートである。
さらに日本政府は第五福竜丸はじめ多くの日本漁船(856隻)の被爆にもかかわらず米国の核実験に一貫して中止を求めず賛成してきた。
原発の早期導入の引き換えに核実験賛成、ビキニ事件の早期収束のカードを切った疑いがもたれる。
大石さんは、ビキニの被爆者は日本の原子力発電の人柱にされたと怒りを込める。
第五福竜丸から見えてくる問題は福島にも通じる。
処分された被爆マグロのは485.7トンだそうだ。これまた現在の放射能汚染食品の教訓が込められている。
展示館の外には、いずれ築地に置かれる予定の「マグロ塚」の石碑がある。
第五福竜丸のエンジンも後日帰ってきて展示されている。
そして「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」という久保山愛吉さんの言葉が刻まれた石碑が建っている。
目の前には夢の島マリーナが広がるが、展示館はゴミの埋立地とは思えない緑いっぱいの公園の中にひっそりと建っている。
展示館の入り口には第五福竜丸の大量旗。
そして管内に入ると目の前、というか頭上に福竜丸がドーンと展示されている。よくぞこんな木造船で太平洋を南下し、マーシャル諸島まで行ったものだとまず感心する。
しばらくすると20人あまりの団体がやってきて、展示館の方から説明を受ける。埼玉県の平和団体の皆さんだった。私も横で聞くことにする。
ここ数年、毎年のように広島、長崎を訪れ、3月1日のビキニデーには静岡市で開催される平和集会にも参加してきたが、第五福竜丸事件について、あまりにも知識がないことに自分でもあきれるほどだ。
操業中に被爆し、久保山愛吉さんが亡くなったこと。汚染されたマグロが出回ったこと。そしてこの事件をきっかけに杉並の主婦の皆さんから核廃絶の署名運動が始まり、今日の原水禁運動の原点となったことくらいである。
まず、抑えておかなければならないのは、第五福竜丸が死の灰を持ち帰ったという重大な事実である。展示館にもその白い灰が展示されている。ビキニ環礁のサンゴが水爆で粉々となって灰のように降ってきたものだ。
後にこの灰の分析で、米軍の最高軍事機密である水爆の構造まで明らかになったのだから、米軍に居場所を知られず焼津港へまっしぐらに寄港した久保山愛吉さんの判断は歴史に残る英断である。
被爆66年の時代を生きる私たちからみれば、広島・長崎の悲劇を経験し、戦後すぐに核兵器廃絶への声が上がったと思いがちである。しかし、日本で原水禁運動が広がったのはこのビキニ以降。
つまり日米両政府は被爆の実相をひた隠しにしてきたのである。第五福竜丸の乗組員は原爆と言っても「新型爆弾」、「ビカドン」以上のことは知らなかったそうである。焼津の漁師さんだから知らなかったのではない。多くの日本人が知らなかったのである。
放射能のことも、被爆のことも知らない。死の灰を体内に入れてしまったことも悔やまれるが、原爆投下から約10年間、国民は被爆の恐怖を知らされていなかったのである。
ビキニ事件後、被爆マグロが日本中に流通し、消費者はパニックとなり、さらに久保山愛吉さんが亡くなり、放射能の恐怖が現実のものとなる。
ようやくここで、広島、長崎の被爆問題も表面化し、1957年3月、原爆医療法が成立する。ところがここで法律の対象は広島、長崎の被爆者だけにされてしまったのである。つまり、ビキニでの被爆者には「被爆者手帳」さえ交付されていないのである。
被爆者としての差別にあい、わずかだが見舞金をもらったということで他の漁船の乗組員からはねたまれ、核廃絶の運動に関われば「アカ」と指差され、多くの乗組員は肝臓癌や肝硬変で亡くなっている。第五福竜丸の被爆者で、現在まで語り部として活動している大石又七さんも、その後の人生を東京で暮らし、ふるさと焼津にはほとんど帰っていないそうだ。
原発との関係でも忘れてはいけないことがある。ビキニ事件が1954年。日本政府は米国との間での被害者への補償交渉をわずかな見舞金で政治決着をはかり、汚染マグロの調査も打ち切り、事件の収束を一気に図ったのである。それが1955年1月4日。そしてその1週間後の11日、米国から日本政府に濃縮ウランの受入れ打診の文書が届いたのである。そしてこの年の6月21日、日米原子力協定が仮調印、翌年には東海村に原子炉が搬入。日本の原子力発電のスタートである。
さらに日本政府は第五福竜丸はじめ多くの日本漁船(856隻)の被爆にもかかわらず米国の核実験に一貫して中止を求めず賛成してきた。
原発の早期導入の引き換えに核実験賛成、ビキニ事件の早期収束のカードを切った疑いがもたれる。
大石さんは、ビキニの被爆者は日本の原子力発電の人柱にされたと怒りを込める。
第五福竜丸から見えてくる問題は福島にも通じる。
処分された被爆マグロのは485.7トンだそうだ。これまた現在の放射能汚染食品の教訓が込められている。
展示館の外には、いずれ築地に置かれる予定の「マグロ塚」の石碑がある。
第五福竜丸のエンジンも後日帰ってきて展示されている。
そして「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」という久保山愛吉さんの言葉が刻まれた石碑が建っている。
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