66回目のヒロシマ原爆の日。
1947年から毎年(1950年を除く。1951年は市長あいさつ)広島市長によって発表されている平和宣言。
その時々の国内外の核をめぐる情勢を分析しつつ、核兵器の廃絶を世界にアピールしてきた。今年は秋葉忠利前市長に代わって新たに市長となった松井一實氏がどのようなメッセージを発するか、そして福島第一原発の事故を被爆地はどう受け止め、「核の平和利用」(というから誤解を招きがち。正確には「核の商業利用」)に対してどのような見解を示すかに注目した。
一読して、秋葉市長の時代の平和宣言と比較し、全体に言葉が平易になった。
よく言えばわかりやすいが、昨年までと比べて格調高くないなぁ、思想的な深さを感じないなぁというのが率直な印象。起草委員会のメンバーもおそらくほとんど入れ替わったのだろう。昨年までの平和宣言はこちらで。
また、秋葉さんは2020ビジョンを提唱し、平和市長会議を拡大、充実させるなど自ら行動してきただけあって、平和宣言でも核廃絶への具体的なプロセス、戦略を語り続けた。被爆者が次々と亡くなる中、一人でも多くの被爆者が生存している間に核廃絶を実現したいという広島市長としての責任、執念に近いものを感じた(オリンピックはやや勇み足だったか?)。
松井市長はまだ就任して日も浅く、秋葉路線の何を引き継ぎ、どこを軌道修正かけるのかまだ煮詰められていないのかもしれないが、核廃絶への踏み込んだ展望を語っていないし、核廃絶に向けて自ら先頭になって奮闘するという決意も感じられない。残念といわざるをえない。
また、原発問題に触れた分、字数も厳しくなったのかもしれないが世界情勢の分析も入っていない。昨年5月にニューヨークで開催された核拡散防止条約再検討会議後の動きくらいは最低限言及して欲しかった。
市長として初めての宣言ということで、原則的なことを押さえるということなら平和憲法に言及がないのも残念である。秋葉市長は平和憲法の世界史的意義を踏まえ、改憲への圧力を強める米国にノーと言えとまで言及していた。
原発について。
触れただけでも評価するという見解もあるかもしれない。
これまでの原発を容認してきた被爆地にとって「『核と人類は共存できない』との思いから脱原発を主張する人々」がいる、という表現が精一杯なのかもしれない。
だけど、「二度とヒバクシャを生み出さない」を原点とする原水禁運動に関わってきた立場から言うと、原発は被曝労働者を前提にしており、そして今回、多くの新たな被曝者を生み出す原発震災を防ぐことができなかったことは残念でならない。そのあたりの思いを共有する言葉がほしいと思うが、被爆地に対して酷な要求だろうか。
さらに言えば、フクシマが世界に放射能を撒き散らす加害者の立場に立ったことへの認識もほしかった。
原爆投下に至る経緯はまさに日本が「加害」の立場であり、都市としての広島、長崎も軍需産業を抱え一方的な「被害」の立場の主張には無理があるが、それでも被爆者は完全な「被害」の立場である。
フクシマの事故で、原発を推進してきた日本政府、そしてそれを望み、あるいは容認してきた日本国民は世界に対して加害の立場に立ってしまったのである。
以上のような観点から、2011年平和宣言はこれまでのヒロシマの運動を後退させる内容であり、原発問題にも十分向き合えなかったと私は厳しい採点をせざるをえないと思う。
以下、今日の平和宣言である。
66年前、あの時を迎えるまで、戦時中とはいえ、広島の市民はいつも通りに生活していました。かつて市内有数の繁華街であった、ここ平和記念公園の地にも、多くの家族が幸せに暮らす姿がありました。当時13歳だった男性は、打ち明けます。――「8月5日は、中学2年生の私にとっては久しぶりに一日ゆっくり休める日曜日でした。仲良しだった同級生を誘って、近くの川で時間の経つのも忘れて夕方まで、砂場でたわむれ、泳いだのですが、真夏の暑いその日が彼との出会いの最後だったのです。」
ところが、翌日の8月6日午前8時15分に、一発の原子爆弾でそれまでの生活が根底から破壊されてしまいます。当時16歳だった女性の言葉です。――「体重40キロの私の体は、爆風に7メートル吹き飛ばされ意識を失った。意識が戻ったとき、辺りは真っ暗で、音の無い、静かな世界に、私一人、この世に取り残されたように思った。私は、腰のところにボロ布をまとっているだけの裸体で、左腕の皮膚が5センチ間隔で破れクルクルッと巻いていた。右腕は白っぽくなっていた。顔に手をやると、右頬はガサガサしていて、左頬はねっとりしていた。」
原爆により街と暮らしが破壊し尽くされた中で、人々は、とまどい、傷つきながらもお互いに助け合おうとしました。――「突然、『助けて!』『おかあちゃん助けて!』泣き叫ぶたくさんの声が聞こえてきた。私は近くから聞こえる声に『助けてあげる』と呼びかけ、その方へ歩み寄ろうとしたが、体が重く、何とか動いて一人の幼い子供を助けた。両手の皮膚が無い私は、もう助けることはできない。…『ごめんなさい』…。」
それは、この平和記念公園の地のみならず、広島のいたるところに見られた情景です。助けようにも助けられなかった、あるいは、身内で自分一人だけ生き残ったことへの罪の意識をいまだに持ち続けている人も少なくありません。
被爆者は、様々な体験を通じて、原爆で犠牲となった方々の声や思いを胸に、核兵器のない世界を願い、毎日を懸命に生き抜いてきました。そして、被爆者をはじめとする広島市民は、国内外から心温まる多くの支援を受け、この街を蘇らせました。
その被爆者は、平均年齢77歳を超えながらも、今もって、街を蘇生させた力を振り絞り、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求し続けています。このままで良いのでしょうか。決してそうではありません。今こそ私たちが、すべての被爆者からその体験や平和への思いをしっかり学び、次世代に、そして世界に伝えていかなければなりません。
私は、この平和宣言により、被爆者の体験や平和への思いを、この世界に生きる一人一人に伝えたいと考えています。そして、人々が集まる世界の都市が2020年までの核兵器廃絶を目指すよう、長崎市とともに平和市長会議の輪を広げることに力を注ぎます。さらに、各国、とりわけ臨界前核実験などを繰り返す米国を含めすべての核保有国には、核兵器廃絶に向けた取組を強力に進めてほしいのです。そのため、世界の為政者たちが広島の地に集い核不拡散体制を議論するための国際会議の開催を目指します。
今年3月11日に東日本大震災が発生しました。その惨状は、66年前の広島の姿を彷彿させるものであり、とても心を痛めています。震災により亡くなられた多くの方々の御冥福を心からお祈りします。そして、広島は、一日も早い復興を願い、被災地の皆さんを応援しています。
また、東京電力福島第一原子力発電所の事故も起こり、今なお続いている放射線の脅威は、被災者をはじめ多くの人々を不安に陥れ、原子力発電に対する国民の信頼を根底から崩してしまいました。そして、「核と人類は共存できない」との思いから脱原発を主張する人々、あるいは、原子力管理の一層の厳格化とともに、再生可能エネルギーの活用を訴える人々がいます。
日本政府は、このような現状を真摯に受け止め、国民の理解と信頼を得られるよう早急にエネルギー政策を見直し、具体的な対応策を講じていくべきです。また、被爆者の高齢化は年々進んでいます。日本政府には、「黒い雨降雨地域」を早期に拡大するとともに、国の内外を問わず、きめ細かく温かい援護策を充実するよう強く求めます。
私たちは、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、「原爆は二度とごめんだ」、「こんな思いをほかの誰にもさせてはならない」という思いを新たにし、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に全力を尽くすことを、ここに誓います。
1947年から毎年(1950年を除く。1951年は市長あいさつ)広島市長によって発表されている平和宣言。
その時々の国内外の核をめぐる情勢を分析しつつ、核兵器の廃絶を世界にアピールしてきた。今年は秋葉忠利前市長に代わって新たに市長となった松井一實氏がどのようなメッセージを発するか、そして福島第一原発の事故を被爆地はどう受け止め、「核の平和利用」(というから誤解を招きがち。正確には「核の商業利用」)に対してどのような見解を示すかに注目した。
一読して、秋葉市長の時代の平和宣言と比較し、全体に言葉が平易になった。
よく言えばわかりやすいが、昨年までと比べて格調高くないなぁ、思想的な深さを感じないなぁというのが率直な印象。起草委員会のメンバーもおそらくほとんど入れ替わったのだろう。昨年までの平和宣言はこちらで。
また、秋葉さんは2020ビジョンを提唱し、平和市長会議を拡大、充実させるなど自ら行動してきただけあって、平和宣言でも核廃絶への具体的なプロセス、戦略を語り続けた。被爆者が次々と亡くなる中、一人でも多くの被爆者が生存している間に核廃絶を実現したいという広島市長としての責任、執念に近いものを感じた(オリンピックはやや勇み足だったか?)。
松井市長はまだ就任して日も浅く、秋葉路線の何を引き継ぎ、どこを軌道修正かけるのかまだ煮詰められていないのかもしれないが、核廃絶への踏み込んだ展望を語っていないし、核廃絶に向けて自ら先頭になって奮闘するという決意も感じられない。残念といわざるをえない。
また、原発問題に触れた分、字数も厳しくなったのかもしれないが世界情勢の分析も入っていない。昨年5月にニューヨークで開催された核拡散防止条約再検討会議後の動きくらいは最低限言及して欲しかった。
市長として初めての宣言ということで、原則的なことを押さえるということなら平和憲法に言及がないのも残念である。秋葉市長は平和憲法の世界史的意義を踏まえ、改憲への圧力を強める米国にノーと言えとまで言及していた。
原発について。
触れただけでも評価するという見解もあるかもしれない。
これまでの原発を容認してきた被爆地にとって「『核と人類は共存できない』との思いから脱原発を主張する人々」がいる、という表現が精一杯なのかもしれない。
だけど、「二度とヒバクシャを生み出さない」を原点とする原水禁運動に関わってきた立場から言うと、原発は被曝労働者を前提にしており、そして今回、多くの新たな被曝者を生み出す原発震災を防ぐことができなかったことは残念でならない。そのあたりの思いを共有する言葉がほしいと思うが、被爆地に対して酷な要求だろうか。
さらに言えば、フクシマが世界に放射能を撒き散らす加害者の立場に立ったことへの認識もほしかった。
原爆投下に至る経緯はまさに日本が「加害」の立場であり、都市としての広島、長崎も軍需産業を抱え一方的な「被害」の立場の主張には無理があるが、それでも被爆者は完全な「被害」の立場である。
フクシマの事故で、原発を推進してきた日本政府、そしてそれを望み、あるいは容認してきた日本国民は世界に対して加害の立場に立ってしまったのである。
以上のような観点から、2011年平和宣言はこれまでのヒロシマの運動を後退させる内容であり、原発問題にも十分向き合えなかったと私は厳しい採点をせざるをえないと思う。
以下、今日の平和宣言である。
2011年平和宣言
66年前、あの時を迎えるまで、戦時中とはいえ、広島の市民はいつも通りに生活していました。かつて市内有数の繁華街であった、ここ平和記念公園の地にも、多くの家族が幸せに暮らす姿がありました。当時13歳だった男性は、打ち明けます。――「8月5日は、中学2年生の私にとっては久しぶりに一日ゆっくり休める日曜日でした。仲良しだった同級生を誘って、近くの川で時間の経つのも忘れて夕方まで、砂場でたわむれ、泳いだのですが、真夏の暑いその日が彼との出会いの最後だったのです。」
ところが、翌日の8月6日午前8時15分に、一発の原子爆弾でそれまでの生活が根底から破壊されてしまいます。当時16歳だった女性の言葉です。――「体重40キロの私の体は、爆風に7メートル吹き飛ばされ意識を失った。意識が戻ったとき、辺りは真っ暗で、音の無い、静かな世界に、私一人、この世に取り残されたように思った。私は、腰のところにボロ布をまとっているだけの裸体で、左腕の皮膚が5センチ間隔で破れクルクルッと巻いていた。右腕は白っぽくなっていた。顔に手をやると、右頬はガサガサしていて、左頬はねっとりしていた。」
原爆により街と暮らしが破壊し尽くされた中で、人々は、とまどい、傷つきながらもお互いに助け合おうとしました。――「突然、『助けて!』『おかあちゃん助けて!』泣き叫ぶたくさんの声が聞こえてきた。私は近くから聞こえる声に『助けてあげる』と呼びかけ、その方へ歩み寄ろうとしたが、体が重く、何とか動いて一人の幼い子供を助けた。両手の皮膚が無い私は、もう助けることはできない。…『ごめんなさい』…。」
それは、この平和記念公園の地のみならず、広島のいたるところに見られた情景です。助けようにも助けられなかった、あるいは、身内で自分一人だけ生き残ったことへの罪の意識をいまだに持ち続けている人も少なくありません。
被爆者は、様々な体験を通じて、原爆で犠牲となった方々の声や思いを胸に、核兵器のない世界を願い、毎日を懸命に生き抜いてきました。そして、被爆者をはじめとする広島市民は、国内外から心温まる多くの支援を受け、この街を蘇らせました。
その被爆者は、平均年齢77歳を超えながらも、今もって、街を蘇生させた力を振り絞り、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求し続けています。このままで良いのでしょうか。決してそうではありません。今こそ私たちが、すべての被爆者からその体験や平和への思いをしっかり学び、次世代に、そして世界に伝えていかなければなりません。
私は、この平和宣言により、被爆者の体験や平和への思いを、この世界に生きる一人一人に伝えたいと考えています。そして、人々が集まる世界の都市が2020年までの核兵器廃絶を目指すよう、長崎市とともに平和市長会議の輪を広げることに力を注ぎます。さらに、各国、とりわけ臨界前核実験などを繰り返す米国を含めすべての核保有国には、核兵器廃絶に向けた取組を強力に進めてほしいのです。そのため、世界の為政者たちが広島の地に集い核不拡散体制を議論するための国際会議の開催を目指します。
今年3月11日に東日本大震災が発生しました。その惨状は、66年前の広島の姿を彷彿させるものであり、とても心を痛めています。震災により亡くなられた多くの方々の御冥福を心からお祈りします。そして、広島は、一日も早い復興を願い、被災地の皆さんを応援しています。
また、東京電力福島第一原子力発電所の事故も起こり、今なお続いている放射線の脅威は、被災者をはじめ多くの人々を不安に陥れ、原子力発電に対する国民の信頼を根底から崩してしまいました。そして、「核と人類は共存できない」との思いから脱原発を主張する人々、あるいは、原子力管理の一層の厳格化とともに、再生可能エネルギーの活用を訴える人々がいます。
日本政府は、このような現状を真摯に受け止め、国民の理解と信頼を得られるよう早急にエネルギー政策を見直し、具体的な対応策を講じていくべきです。また、被爆者の高齢化は年々進んでいます。日本政府には、「黒い雨降雨地域」を早期に拡大するとともに、国の内外を問わず、きめ細かく温かい援護策を充実するよう強く求めます。
私たちは、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、「原爆は二度とごめんだ」、「こんな思いをほかの誰にもさせてはならない」という思いを新たにし、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に全力を尽くすことを、ここに誓います。
平成23年(2011年)8月6日
広島市長 松 井 一 實
広島市長 松 井 一 實
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