当時1年生担任、午後2:20一斉下校、お迎えのない児童を連れて教室に戻ると、お迎えの保護者と昇降口でお話していたときに地震がきた。急いで教室へ机の下に入り、教室のガラス破損を恐れて中央に移動させた。
そうこうしているうち、体育館が避難所になり、お世話をして9時過ぎ、若い4人の先生にあとをお願いして帰宅、しかし、6号国道陥没で迂回、やっと10時半過ぎ双葉町の家に帰宅した。主人も広野町から0時過ぎ帰宅、津波の惨状を聞いた。が、防災無線が流れて何か呼びかけていたが疲れで寝てしまった。
12日の翌朝7:30起床すると、近所の人はもう避難し始めていた。双葉町は国道114号から川俣へ、浪江町は114号の津島へ避難指示が出ていた。毛布2枚、コート、水、梅干し、少しの食べ物をもって避難、114号は大渋滞、自衛隊の車とすれ違いただ事でないことをかんじて、船引を経由して私の実家矢吹町に午後1時着いた。・・・・
千葉放医研の木村真三氏の行動で浪江津島のことは知っていた。が、この証言で双葉の避難がわかった。
また、広野町の避難はいわきの高坂小体育館で四倉の私たちと一緒になり、原発爆発は2度あったことを知ったし、そこで、湯本より南に避難しないとだめだというので私たちも翌日の13日泉に避難したのでした。
そうこうしているうち、体育館が避難所になり、お世話をして9時過ぎ、若い4人の先生にあとをお願いして帰宅、しかし、6号国道陥没で迂回、やっと10時半過ぎ双葉町の家に帰宅した。主人も広野町から0時過ぎ帰宅、津波の惨状を聞いた。が、防災無線が流れて何か呼びかけていたが疲れで寝てしまった。
12日の翌朝7:30起床すると、近所の人はもう避難し始めていた。双葉町は国道114号から川俣へ、浪江町は114号の津島へ避難指示が出ていた。毛布2枚、コート、水、梅干し、少しの食べ物をもって避難、114号は大渋滞、自衛隊の車とすれ違いただ事でないことをかんじて、船引を経由して私の実家矢吹町に午後1時着いた。・・・・
千葉放医研の木村真三氏の行動で浪江津島のことは知っていた。が、この証言で双葉の避難がわかった。
また、広野町の避難はいわきの高坂小体育館で四倉の私たちと一緒になり、原発爆発は2度あったことを知ったし、そこで、湯本より南に避難しないとだめだというので私たちも翌日の13日泉に避難したのでした。