6/30(木) 昨日の夕刻、横須賀中央駅(京浜急行)に着いた。今回の横須賀は、佐賀から研修で来たMASUDA・RYOTA君(ユニカレ佐賀のスタッフ)と食事&懇談が目的であった。が、久々の横須賀である。かつて親交を頂いた故・横塚博充さんの墓に詣でることにした。
横塚さんは、トヨタ系列の関東自動車工業に勤務しておられた頃に、横須賀工業倶楽部に出向され事務局長をされていた。工業倶楽部のメンバーであったことから、横塚さんとの交流が始まった。温厚で人を逸らさない人柄であったことから、横須賀の夜を度々ご一緒するようになった。私が横須賀を離れ、横塚さんが関東自動車を退職された後も交流は頂いたが、平成16年7月の下旬、癌の為に逝去。享年65歳であった。
命日の頃に墓参をするように努めていたが、昨年は出来なかったはずだ。RYOTA君が横須賀に宿を取ったことは、奇しくもご縁であった。横須賀中央駅から坂を昇った高台に、そのお寺「龍本寺」があり、本堂の左手の石段を上がった処に墓がある。墓前に未だ古くはない花が飾られていた。それと一緒に、持参した仏花を活けた。
最初に墓参した折にご一緒頂いた、奥様とご長男の物静かな雰囲気が思ひ起こされた。今年の賀状では、奥様は体調が優れないようなことが記されていたが・・・・。「逸見の自宅に立ち寄って下さい」と、何時もお誘いの言葉が記されているが・・・・。
横塚さんの父上は、海軍の軍人であったと聞いている。改めてその没年を確認すると、昭和19年とある。彼の大戦で戦死され、母上も早くに亡くされていた。幾多のご苦労があったであろう、それを乗り越えて道を拓いてきた優しさ、そんなことが偲ばれる横塚さんの笑顔を墓前に浮かべた。
墓所からの風景、猿島が見える。ただ墓所の裏には大きなマンションが建ち、変わり行く街の姿に過ぎ去った年月を感じた。墓参の後、急な階段をメイン通りの方に下りた。そこ彼処がマンションとなり、店が変わり、あらためてその変わり行く様に驚く。昔馴染んだ、塚さんと飲んだ路地裏の「かすみ」も無くなって数年。その跡もすっかり変わっていた。
駅前の若松町から、RYOTA君の泊まるホテルが在る汐入駅前までブラブラと街を眺めながら歩いてみた。メインの大通りは変わらないが、かつて在ったデパート「さいかや」は、高層マンションとなってその威容を誇っていた。この地に暮らした短い年月、雑賀屋さんの親族とも交流があった。往時を偲ぶばかりである。
かつて隆盛を誇った「どぶ板通り」もすかり綺麗に整備され、米軍関係者を相手にする飲食店もめっきりと少なくなった。静かなものである。そして、RYOTAが泊まるホテルに着くと、そこは以前の横須賀プリンスホテル。名前も変わり、ロビーも薄暗く、煌めいていたかつての面影を見ることはない。
『なにが食べたい、飲みたいんだ? 』と訊くと、「魚料理がいいです」と元気な返事。じゃあと向かったのは「魚藍亭」という、いた頃によく利用した料亭。だが昔の面影は・・・・。今じゃ隣で営む”海軍カレー”が有名だ。『海軍カレーで有名なんだよ』と話すと「カレーは大好きです」とのことだ。彼のリクエストにすべて応じる店があってよかった。
横須賀の歴史や、時間があれば寄るべき場所、海軍カレーの発祥など話ながら店に着いた。上の座敷を使う団体の姿もなく、静かな店内であった。彼のリクエストで、刺身盛り合わせ・野菜の天麩羅・アナゴ白焼きなどで、ビール・冷酒・ハイボールで暫し歓談した。とは言っても、相手は26歳の若者だ、こっちが賢しらなことを言うが、彼は素直に聞き、将来を語った。いい夜であった。
そして仕上げは、海軍カレー売りだしの草分けとも云える、この店のカレーをハーフサイズにしてもらい二人で食した。美味かった!ここでは、箱フグの味噌焼きを食したかったが、なかった(これは、実に美味いんだが・・・)。
RYOTA君と右左に別れ、快速特急に乗るために中央駅へとブラブラと歩んだ。店を出しなに聞いた、かつて平成会(元総理・小泉さんの地元応援団)の幹事として長くご苦労を頂いたHANYUDAさんが交通事故で半身不随になったことなど反芻し、運命について思案したのであった。
メイン通りのベンチに、こんなブロンズ像が点々と置いてある)
一夜明けた今朝、弁当作りの時間が来た。今朝のメニューは、「チキンライス」だ。これに卵焼を載せるとオムライスとなる。菜は、冷凍の鶏の甘酢揚げ、シューマイ、手作りの「ポテトサラダ」にした。昨日からの飯が残っていた、ご飯を無駄にしないための窮余のチキンライスである。チキンハート・ヤローにはお似合いだ。