6/8(水) 今朝の弁当は、なんと「サーロインステーキ」、これをステーキ丼風の弁当にした。丼風と云うのは、弁当箱が小さいのでご飯の上に肉を載せないと納まりきらんのだ。肉は、先日「日山」で贖った一枚3940円也の黒毛和牛と云うやつだ。家人が仕事でくたびれきっているので、”これでも喰って元気出せよ”の、麗しきエール弁当である。
牛脂とバターを少し、ニンニクのスライスと塩胡椒、仕上げに醤油をひと垂らし。美味い肉は、これで十分だ!
牛肉のいいのは、焼くだけで直ぐに出来上がると云う手軽さにもある。他の菜はあっさりと「ポテト・人参と茹卵のマヨ和え」「アスパラ・オクラ・細筍・小松菜のオリーブ油炒め」、以上である。ゆで卵を余分に作ったので、スペースが空けば弁当に加わる。
ご飯の上にレタスの千切りをチラシ、その上に焼きあがった肉をスライスして載せた。他の菜とのバランスも申し分ないだろう ? と、思うが。
忙しい、忙しいとボヤイている家人だが、こんな弁当の日ぐらいは、ゆっくりと食事を摂って欲しいものだ・・・・。
昨夕、学生時代からの友人TAKAHASHI・NAOKIが人形町に寄ってくれた。二ヶ月に一度、上野のマンションの理事会があり、その帰りだ。因みに彼の住いは田園都市線の沿線である。
彼は求人広告ビジネスをやっていたが、数年前に廃業した。今は孫の世話をしながらのんびりり過ごしている。と云う、結構な御身分である。その彼と、軽く食事でもして一杯と思っていた。処が「理事会で弁当が出た」と、食の方は要らんと云う、軽く一杯はと思ひきや、酒も要らんと言う。飲むならお茶がいいと、ドトールでコヒーを飲みながらの四方山話となった。
こっちも、夕方の歯科で歯茎を切られて出血が未だ止まっていなかった。先ずはお茶で良かったのかもしれない。最近の状況や、彼との話では何時も出る、「沼津の連中は元気かな?一度訪ねたいもんんだね」の会話となる。
そんな中で、『俺も草臥れて使えないよ。潮時を考えんとな』と云うと。「仕事があるのはいいよ、行くとこがあるからな」と、けだし迷言を吐いた。そんな考えもあるわな、と苦笑するばかり。
午後八時前に彼と別れた。歯の方は痛み止めが効いたのか、気にならなくなった。『これなら大丈夫だ、軽く一杯やってから帰ろう』そう考えるのは、パトロール隊としての自覚の現れ? で、「ローカーボ」へと向かった。美味いハイボールを軽くいただいてから帰ろうと、千円札をカウンターに置いた途端に、パトロール隊のHOAYA兄いと悪徳マッチャンが打ち揃って姿を見せた。当然素面じゃない。
NAKAMURA大将は、この日の午前便で佐賀に帰った。次は、一週間後に上京する予定とか。これで残留メンバー三人が雁首を揃えちまった。我等の会話は、他愛もないことばかりだが、脳味噌の凝りをほぐすには持って来いだ。ハイボール二杯で切り上げ、ひと足先にと失礼をした。歯痛のこともあるので、珍しく大事を取った次第。そんなことで、帰宅は目茶早やの22時であった。
- 愈々、湯煙と演歌が登場 -
日曜日の五時、修善寺駅から修善寺温泉へとタクシーで向かった。駅前から温泉場の入り口にある宿泊のホテル「滝亭」まで十分程であったか。大型のマンションを思わせるようなホテルは、情緒に欠けるが贅沢は云えない。宿代の安さで選んだのだから。このホテルは、中国資本に買収されていた。そのことから、外人観光客で一杯、落ち着いて温泉に入れないのではと危惧していたが・・・・・。
合理化の所為か? 夕方のフロントには女性の受け付けが一人だけ。「お部屋まで案内します」の声を丁重に辞退し、自分たちで部屋に上った。ネットの写真で見たとおりの部屋、期待以上も以下もない。それでいいのだ。ロビーにも客の姿を見なかったが…、到着時間の違いか。
桜家で食した鰻丼がこなれきれてない。夕食までの一時間ほどを、HOYA兄いと二人で、湯の町を散策することにした。NAKAさんは湯に入るとのこと。泊まっている宿から川上へと十分弱、幅狭になった道を上っていくと、弘法大師が発見したとの云い伝えの「独鈷の湯」が、道路下の川床に見えた。記憶にある独鈷の湯とは佇まいが違っていた。それも道理、何時だかの大洪水に浸かり、大改修されたと聞いている。
独鈷の湯に足先を浸し、その上の道路脇あった足湯で本格的に浸けながら、暫し川沿いの景色を楽しんだ。川を挟んで向かい合って建つ宿は、夫々に趣向を凝らした和風の作り。湯の宿の風情を醸して、山あいの出湯の宿だ。川沿いに設えられた散歩用の小道、せせらぎの音と朱塗りの橋。木立と手入れの行き届いた竹林の小道を抜けて「修善寺」の門前に出た。
「修善寺」は、ここで暗殺された源頼家の悲劇物語「修善寺物語」(岡本綺堂作)で知られるが、八百年代の始めに空海の開山によるとあった。和風作りの落ち着いた旅館を横目にしながら四十分ほどの散策を終えた。
修善寺温泉にはこれまで、三度は来ているが・・・・。初めて訪れた学生の時には、温泉街を流れる桂川の「独鈷の湯」に入った。日本手ぬぐいを一本だけ持っていた記憶がある。おそらく、夏の夕暮れ時のことだったろう。湯壺の周りは、腰までの高さの葭簀で囲ってあった。
「いい温泉場だ」と、HOYA兄いも考えを新たにした様子。泊まっているホテルの周りにゃあ、なんの情緒も感じないからね。鼻緒の緩い宿の下駄にぶつくさ言いながら、なだらかな坂道を下ってホテルの近くまで来た。すると兄いが、目敏くスナック「みんなの家」に灯りが点いたのを発見。三島の鰻屋の一件は勿論、界隈パトロールにおいても目敏さと行動の早さは人後に落ちない。
早速、灯りが点いたばかりのスナックのドアをそっと押しながら「偵察・偵察、リサーチ」とか言う。そろりそろり、夕日が沈むほどのスピードで店内へ。処が店内に人影なし、声を掛けても返事は返ってこない。それでも、兄いの店作りのチェックと、勘定書きのチェックは素早かった。
「しょうがねえな、縁がないんだ」と、ドアを閉めて七八歩離れた処に後ろから声が、ドアを開けて大年増の姉さんが顔を出して呼んだ。
こうなりゃ黙って去る分けにゃイカンザキと、引き返して店に戻った。俺たちは浴衣姿に下駄の二人連れ。どう見たって、どっから見ても観光客・湯あみ客だ。「今晩どうしようかと思って、ちょっと覗いたんだけど。値段はどうなっているの?」と兄いは、本格的なリサーチ&チェックだ。訊くと、飲み代は手頃、あるいはお安かった。焼酎やウイスキーは600円から、カラオケは100円/曲、お通し代300円と判明した。店のマッチを貰い「来る時は電話するから」と、店を後にした。
もう直ぐ七時、夕食の時間が近い。宿に戻り、大急ぎでひとっ風呂浴びて、指定されている四階のレストランへ。テーブル席でお定まりのコース料理が供される。この階の客は、我らの他に三組だけだった。
ビールを飲み、酒が少々進んだのみで一向に箸が進まぬ。未だ鰻の残骸と御霊が、腹の中で成仏してないのだ・・・・。
大半の料理を残したままで、夜の饗宴第一部はお開きとなった。愈々二部だが、ホテル内のラウンジか、リサーチを済ませた「みんなの家」か。二者択一となった。が、論議もせめぎ合いもなく、明るい農村のようなネーミングの「みんなの家」に軍配が上った。
下駄を鳴らしてホテルの坂を下り、道路を渡って「みんなの家」になだれ込んだ? この短い距離の間に、海の向こうからお見えになった方々に十数人会った。だが、店には先客の姿なし。これなら唄い放題・ワンマンショーだぜ!
ドリンクは面倒が無かろうと、ボトルを一本頼んだ。黒霧焼酎だ。後は唄うのみ。口火を切るのは旅の提唱者、NAKAさん。待望の「おんなの宿」がオープニング曲で、修善寺温泉「湯煙演歌旅」大公演の幕が上った。兄いはラブミーテンダーなんぞを甘い声で唄い、NAKAさんは青春時代の歌と尽きることなし。世話掛かりの出番はなかなか来ない・・・・。
結果だけを伝えると、三人で二十数曲は唄ったか。途中、地元のオジサンと姉さんが二人参加したが、マイクを奪い合うこともなく、喜寿過ぎとおぼしきママさんには「湯の町エレジー」なんぞも披露して頂いた。学校飼育動物の世話係は、専ら焼酎ボトルを抱いて空けることに集中していた。が。第四コ-ナーを廻った辺りから鞭が入った。ゴール前で一気抜きとばかりに、末脚の強さを発揮した。つもり?
誰だ?このオヤジは?
やがて、時計の針が23時30分を指した。頃合いだ。ボトルも空いた、カボチャの馬車が発つ前に「修善寺温泉・演歌旅」の幕が下りた。お代は、少しもお高くない! そこで気持ち良く遊ばせてもらったと、心付けを置いたのであった。
と云うことで、修善寺温泉の夜に幕を下ろしたが、部屋にて・・・・・。続きは、何れまた。