オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

雨の田舎で・・・

2019-03-19 | Weblog

3/19(火) 昨日15時前に高知空港に降り立った。晴れて暖かった東京だったが、空港を出るとひんやりとした空気が漂い、薄曇りの空と黄砂か?霞が掛かったような風景が広がっていた。何時ものように妹夫妻に迎えてもらい、実家へと戻った。

               

天気予報どおり、夜更けから雨となり一時は強い雨脚が聞こえた。そして夜が明けたが、雨は降り続いている。まるで、今日はゆっくりと休めと私に語りかけるような雨が。午後から上がりそうだとのことだが、昼を過ぎた今も緩やかに雨は落ちつづけているのだ・・・。

こんな一日に思うのは過ぎ去りし日々のことか、捨てることができなかったちっぽけな情念や、埃りならぬ誇りのような我欲のことが甦る。先行きのことだけは何も浮かばぬが・・・。

帰る場所が、ところがある故にこうして戻ってくる。何もない暮らし、思い至ることがない人生、そんな生き方が理想だっが、いまだにそれができない。過去に、至らなかった人生に未だ縛られていきているのが我が現状である。ならば、それを抱きて今しばらく生きるしか術がない。

しっとりとながら、何かもの悲しげに降る雨を見ながら、過ぎ去りし日の、恥ずかしいばかりの日々の一ページを振り返ることにしてみたい。暇にあかせて。

 — 思い出酒場(1)—

アルコールには弱いが、なぜかそれはタバコと同じように大人への入り口、憧憬のようなものが幼いころから有ったようだ。小さいころから酒やビールを口にしては真っ赤な顔をしていた。

我が家の前に未だ商店があった頃のことだが、そこにお爺さんが居り何時も晩酌をしていた。未だ、2~3歳だったろうがそのお爺さんの膝の中で、晩酌の酒を舐めてフラフラしながら帰ってきたそうだ。微かにその記憶がある。

そんな子供時代を過ごした所為か。或いは何もない時代のこと、お客さんがあれば一杯振る舞うのが当たり前の時代に育ったからか。酒は常に身辺にあった。そういえば、七回忌が済んだが、親父は飲んでも顔色が変わらない酒飲みだった。

そんな育ちをした所為か、初めて自分で酒場に入ったのは19歳になる前のことで、静岡・三島市に下宿をした初夏の頃でなかろうか。三島・広小路にその店はあった。「BAR リラ」である。学生になって間もない頃のことである。

親元を離れ、ちょっと大人の気分を味わいたくて。その当時のリラは女性を何人かおり接待をする店であった。マスターは三十歳前後で、店を開いて何年も経っていなかったようだ。

田舎での若者を「学生さんかね!」と安いお金で飲ませてくれた。一番安い酒がトリスのショットグラスで100円だった。流石に百円だけ持って行くことは私にはできなかったが・・・。それができたのは、同じ下宿で長い付き合いとなるHOSOKAWAだった。

台風で大雨の降るある夜、やつは百円玉一枚を持ってリラに行った。ママの顔を見たい一心である。マスターは、いいよと飲ませてくれたそうだ。『馬鹿だねぇ~お前は。ママはマスターの奥さんに決まってるだろう!』と、百円一枚のことと合わせて奴を叱った。富山の出身と土佐出身の方が少しは世間が分っていたようだ。

それ以来僕らは、リラへは客(ともいえぬが)として毎月のように顔を出して遊んでもらった。マスターは兄貴のようで、ママさんは優しかった。世間知らずでお金のない学生に、お姐さんたちや他のお客からも親切にしてもらった。

三月に三島から東京の本校に移る。その時期が近づく年が明けてから、何かのきっかけでリラでバイトを始めた。カウンターの中に入ると、見える景色が変わる。変わるけれど、マスターもママさんも、お姐さんやお客さんも変わらず優しかった。短い間であったが、その中で様々な人間模様を知る。言ってはいけないこと、見ても見えないことを自然と知る。

東京に移っても年に何度か三島のリラに通った。何か居心地のいい空間と人々であった。それは、社会人になっても続いた。仕事が面白くないとき、東海道線に乗り向かう。リラで一杯やり、新幹線の最終で東京に戻ることも何どかした。

或る夏の休日前の一晩、遅くまで飲み、マスターの家に泊めて貰い、翌日海水浴に行くマスターの一家と牛臥の海辺で一日を過ごしたこともあった。子供たち二人は、小学の低学年であった時代のことだ。

その後、マスターは三島市の飲食業組合の理事長になった。組合創立25周年だったと思うが、記念祝賀会で歌手を呼びたいが、ギャラがと相談を受けた。うまい具合に、あのHOSOKAWAがTV業界に入っていた。その手蔓で、ちょっと売れた歌手を事務所抜きで呼ぶことができた。二人してその祝賀会に行くことになった。少しは役立ことが出来たか。

私の結婚披露の時には三島から来てくれた。その時の司会は、かの世間知らずだったHOSOKAWAだったが、奴もすっかり世慣れしていた。

          

上の軟式ボールのサインは、1976年1月に未だBAR だったリラを訪れて結婚する旨を報告した折に、マスターと当時バーテンだった裕二さんが記念に書いてくれたものだ。裕二さんも早くに亡くなった。この記念ボールは大事にしており、今も書籍棚に鎮座している。

「熱海の夜」という演歌がヒットしたときに、マスターから 聞かされたのは「歌ってる歌手、覚えてるだろう。よく流しにきてたけど」だったが、当時は歌に興味がなかったのか覚えていなかった。                        

そうして何年か経ち、BARリラはスナックに衣替えした。沼津から高速を下りた国道沿いに出来たショッピングセンターにカフェを開き、ママが切り盛りをするようになった。伊豆に遊びに行く途中、一度だけ立寄りママと話ができた。暫く振りであった。

そして何年かが経ったある日、ママさんからの便りが届いた。それには「癌で声を無くして亡くなりました」と書かれていた。ご無沙汰をしているうちに、闘病生活をされた末に逝去されたのであった。

伊豆急修善寺線の沿線にあると聞いていたが、そのお寺(竹林寺であっ経ってか)に墓参できたのはそれから数年が経っていた。沿線を通るたびにお墓の形が浮かぶ・・・。

マスターの名は、田村勝利さんと云う。三島田町駅前に喫茶「赤城」を、広小路に「BARリラ」を、そしてショッピイングセンターにカフェを開いた。喫茶店の名を赤城といったが、群馬県の出身との故である。

我が十八歳から十九歳、今はすっかり変わった三島・広小路にあったBARリラから、我が酒場巡りと世間を知る旅がスタートしたと云えるのだ。いい人に巡り合いスタートした我が酒場旅ながら、紆余曲折の待つスタートでもあったか?



 

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銀座~日本橋~人形町・散歩

2019-03-17 | Weblog

3/17(日) 今日は午後から天気が崩れるとの予報。柔らかな朝日の輝きからは、そんな気配を微塵も感じないが。されど、近頃の天気予報の精度が向上している。特に、一日単位であれば。

そこで、外出は午前中に済ますことにして十時前に家を出た。昨日は駅前まで出ただけで殆どの時間を部屋で過ごした。そんなこともあり、今日は買い物がてらの散歩をすべく先ずは銀座へと出た。

予定は銀座から日本橋、そして人形町である。銀座一丁目の福井県のショップで水羊羹を買い、日本橋の榮太楼本店で「有平糖」を、そこから日本橋橋詰で三越側にある富山県のショップで「マスずし」を買い、最後に人形町「日山」で豚バラの塊を買う。これが今日の買い物&散歩計画であった。

以上ながら、折角なので銀座でちょいと寄り道しJRAのチケット売り場に寄ることにした。チケットといっても、乗り物は乗り物でも、電車じゃなくお馬さんである。そこから外堀通りに近い福井のアンテナショップへと向かう。午前中の銀座は歩行者天国も未だで、落ち着いた街並みであった。

JRAの直ぐそばに、かつてナチュラル社が入っていたビルがある。私がナチュラルに入る前のことであるが、事務所には何度か顔出ししており、そばを通るたびに懐かしく思う。人形町へと移る前のことで、二十年も前になろうか・・・・。

「水羊羹」を買い、日本橋に向かう。銀座一丁目から日本橋は同じ中央通りにあり指呼の間と云ってよかろう。ちょっと気になっていたのは日曜日なので榮太楼本店の営業であった。榮太楼の大きな缶入り飴はデパートの売り場に置いてない。田舎の人が好きなこの飴をお土産にと思い立ち向かったのだが・・・。

心配したとおり、シャッターは降りていた。その閉まったシャッターに、休日閉業とデパートでの営業の張紙があった。三越デパートに出店しているのは承知jだが、求めている品がないんだよ~。だが、致しかたない。すぐそばの日本橋へと向かう。

         

未だ午前中のことで、観光客の姿も少ない。天下の日本橋、ここを起点にして地方までの距離が測られているのだから。久々に写真を何枚か撮った。この西詰?三越側の袂で、関端さん、OISHI君と写真を撮ってから十年近く経つであろか。関端さんが亡くなれられて早や三年になるか・・・。

            

「富山館」で首尾よくマスずしをゲット(残り二つしかなかった)。目の前の三越別館から本館に渡り、地下一階の榮太楼の売り場に行ったが目指す品はなく、ちっちゃい飴を三袋買う。田舎の土産は、何時もの「源吉兆案庵」で贖い送った。

         

コレド室町を抜けて人形町へと向かうが、コレドを抜けた処を横切る通りに「豆桜」の並木がある。ピンクと云うよりは紅桃色という感じの小さな花びらの桜だ。早咲きなので花の盛りを過ぎ、そろそろ散ってしまう時期になっていた。この桜が咲き始める二月の下旬になるとこの通りに来るのが楽しみであったが・・・。

                

 昭和通りを渡って堀留町へと入る。この辺りは商店が少なく中小のオフィスビルと、最近はマンションが並ぶ。人どおりはまばらで閑散としているのは、何時もの休日と同じである。

人形町交差点を渡り「日山」へ。ここで豚バラ肉と弁当用の牛小間肉などを買い今日の散歩が終わった。豚バラ肉を買ったのは、夕食に「ポトフ」を作ろうと思い立った故だ。朝のTVを見ていて、酒場仲間に頂いたSUTOUB鍋でポトフを作ろうと思い立った次第。

上空には未だ青空が残っている。見慣れた町、休日ながら、私が居る場所は既にない。夜の酒場すらも今日は休みだ。

 

そこかしこと歩くも、懐かしき場所になっていくのは人の世の常、宿命であろう。そんなことを思いながら駅の階段を下りたのであった・・・・。

明日からしばらくの間、田舎暮らし。お馴染みの田舎の風景など届けます!。桜の写真や来高の三人の姿も一緒に・・・・。

 

 

 

 

 

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飯づくり疲れ?

2019-03-16 | Weblog

3/16(土)夕方から人形町に出たが、昨夜の帰宅は23時過ぎと早かった。五時頃から飲み始めて「ちょっぷく」「高松」「こま吉」「ちょっぷく」「セイジュ」と回ったが、最後の「ローカーボ」へはHOYA兄いの誘いを草臥れと眠気で断った。

何もしていないのに疲れるとはこれ如何に?であるが、帰りのメトロでも眠りこけていた。

昨日は朝の弁当作り「ホタテフライ他」を終え、次いで夕食のおかずに「丸大根と手羽先煮」「白菜の甘酢煮」をたっぷりと作った。

      

 フライは、ホタテの他に茄子・タマネギを少々。挽肉と茄子のみそ炒め、菜花・ほうれん草のお浸しと、前夜のキーマカレーの残り。これが昨日の弁当だ。

                

 白菜の甘酢煮は、朝日新聞に出ていたものをやってみた。白菜・干しシイタケ・豚肉で醤油-酢に砂糖などに仕上げで片栗粉の餡かけ風に。蕪を買ってきて、改めて千枚漬けを仕込んだが・・・出来栄えは如何に?。これも新聞で見たのを参考にしている。 

夕方には人形町に行き、22日に来高する高松夫妻、USUI老と最終の打ち合わせをすることにした。と云うのも、自分は18日から帰省し東京を離れるので。

先ずは、「ちょっぷく」でUSUI老と合流し一杯やり、それから「高松」で飲みながら、人形町を発つ時間や羽田空港の手続きなどについて説明する。何分にも夫妻は飛行機に乗るのも何十年ぶりとかで不案内なこと甚だしいのだ。

そんな後で、老と「こま吉」へと移動、HOYA兄いとMAMIYAさんが合流した。そして「ちょっぷく」に再度ながれて、最後は兄いと二人で「セイジュ」でカラオケに興じた。「ちょっぷく」で飲んでるうちから睡魔が襲い、居眠りをするほどであったのだ。

体調はあまり宜しくないようだが、今月末までの帰省で体調を戻すしかない。18日の午後から29日の午後まで帰省するが、もう少し長くいて、県議選に出馬のNISHIUCHI君の応援をできればと思っていた。処が、OB会の監査や知人との花見会などのスケジュールが入り、月末に帰京することにした次第。

USUI老が来高するのは四度目になるが、夏にも会社のメンバーを誘って来ると言う。その時には四万十川へ行くと勝手に決めて、はしゃいでいるのだ。たしかに四万十川は有名だからね、行ってみたいのはわかる。私は高校生の時にオートバイで走ったぐらいで、全く知らないとこだが。

高知県は太平洋に面して横に長いので、足摺岬や四万十川の流れる西部と室戸岬方面の東部では言葉も違う。我が家の方からすると異国同様の距離でもある。今回の三人の来高では、日程的にも我が家の在る東部と高知市内を見てもらうことしかできない。

そんな分けで、今回の帰省ではお彼岸の祀りに三人の観光案内、とミカン畑で今年一回目の草刈りや有機肥料散布、柿の剪定となろう。それと、NISHIUCHI君の激励か・・・ 。

 

 

 

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蕪と思いきや

2019-03-14 | Weblog

3/14(木)火曜日に千枚漬けにしようと薄切りにした蕪(?)を塩漬けにし、昨日の朝、甘酢に漬けた。それを今朝、そろそろよかろうと試食した。ところが、その味は蕪にあらず大根そのものの味であった。千枚漬けにする前日、厚揚げと煮た時は蕪そのものの味と思っていたのに!。

俺の舌もあてにならぬ、家人も蕪の味と思いこんでいたが・・・。千枚漬けにするため、わざわざ東急ハンズで漬物用に圧力できる器を買ったのに。思い込みはいかんねぇ~!。八百屋で聖護院蕪を探して、再度千枚漬けに挑むしかないようだ。

 

そんな次第で、朝から出鼻をくじかれたようなスタートになったが、今日も弁当作りだ。

昨日の午後、銀座「モナリザ」で友人とお茶をした後、人形町に向かいドトールにてYOSHIOとのコーヒータイム。それから文教堂書店で文庫本を買い、目の前にある「日山」で弁当用に肉を少しだけ買った。その味付け肉が、今日のメイン食材である。プルコギ風の焼肉にした。

紅サケを焼き、小松菜と薄上げの煮びたし、卵焼きを作る。味噌汁を作りそれで、今朝の遊びはお終い。

            

 

昨夜の帰宅は、丁度、零時になっていた。五時前に「ちょっぷく」に入り六時までYAMAちゃん店長を相手に遊び、それから予約した「うまし」へ。

                

「うまし」のカウンターでTOKIOさんを待ち、先ずはご母堂のお悔やみを伝えてから献杯。ハイボールを飲みながら近況を聞き、お互いの田舎の実家をどうすべきかと悩みを分かち合うのであった。

「うまし」の後は、一人で「ローカーボ」へ。八時過ぎにNAKAMURAさんが来るとFBに伝言があった。店に入るとNKAMURAさんはお客さんと一緒に居た。そしてHOYA兄いも・・・。一緒に飲み、二人で「こま吉」へと流れたが・・・。

「こま吉」からであったか、この日は貸し切りになっていた「高松」の女将も来てくれたが、記憶が定かでない。最後は「セイジュ」でカラオケになったが、この店では証拠写真を撮ったので歴然だが。HOYA兄い、NAKAMURA大将と女将とも映っている。

            

「セイジュ」のママンさんは、今月初旬から背骨の手術とかで、マッチャン(悪徳不動産じゃなく、女性の方)が店を預かって切り盛りしている。ボランティアだから偉いよ。セイジュを開ける前の時間は「ちょっぷく」の手伝いまでしているのだから。

俺たちゃ、酒くらってうだうだ言ってるだけだから頭が下がるよ・・・・。

そんな昨夜は、電車があるうちにお開き。尤も、マッチャンから、店仕舞いを宣告されたこともあるが・・・・。学芸大学駅の改札を抜けると零時に三分前であった。午前様でなくてよかった!。然し、五時前から十一時まで飲んでると草臥れるネ!。

 

 

 

 

 

 

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カツ煮

2019-03-13 | Weblog

3/13(水)昨日は前夜の深酒ですっきりとしない一日を過ごす羽目になった。反省ばかりの人生であるが、同じことを繰り返すのは凡人の極みであろう。今更治るわけもねぇか・・・。おまけに、朝食代わりにビールを飲むというご丁寧な仕上げである。

そんな一日であったが、午後に蕪の甘酢漬けの下準備をし、夕食用に「うのはな「」とカボチャを煮た。夕方に渋谷の教室までSORAを送り、終えるまでの間に東急ハンズで漬物器を買う。重石代わりにネジを締めて漬物を作ると云う器だ。そして、奈加野に顔を出して生ビールを一杯やり店主との雑談。そんなことで、一日が終わった。

 

今朝の弁当は一つだけであった。朝になって、家人が研修で要らないと言うので、長女の分だけとなった。、暇なオヤジは前夜にメニューを決めてる。急に一つと言われても、作る量は何時もと同じさ。

タマネギ・シメジ・ネギ入りの「カツ煮」を作る。ほうれん草は胡麻和えに、自家製ギンダラ最後の一切れを焼き、明太子も一つ焼く。最後に卵焼きを作って弁当に入れる菜が完成。加えて、義母用に追加のベーコン&タマネギ炒めを!。

           

私の朝食はサラダと前夜のスープの残りを頂く。今朝はビールを控えた!。未だ反省が効いてるか?。

 

今日は久々にT物産のOKAZAKI社長とお茶をすることになった。これまた何時ものように、銀座三越のライオン像で待ち合わせ、お茶は閉店を控えた「モナリザ」でと思っている。そして人形町に行き、TOKIOさんのご母堂逝去のお悔やみと、献杯を予定している。その後は、月曜日の轍を踏まないように・・・飲むか!。

 

 

 

 

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チャーハン弁当

2019-03-12 | Weblog

3/12(火) 昨夜は些か飲みすぎのきらいあり。孫のSORAを渋谷の教室に送ったあとで銀座に向かった。異業種交流会「モナリザ会」に参加するためだが、時間が早いので高知県のアンテナショップに立ち寄り観光案内パンフなどを入手し、文旦を二個買った。

観光案内は次週末に来高する高松の夫妻に渡し、文旦はローカーボの常連、NAKAMURA王子に試食さすためである。これで、モナリザ会後の行先が決まった。人形町に向かうことになる。

モナリザ会の方は時間通りに始まった。この夜の参会者は24名で、その大半と顔見知りになっている。順番に自己紹介があり、それから歓談と名刺交換などの時間があり、会の最後に主宰のTKAHASHIさんが時節の話題について話す。ここまでは何時も通りだが、最後にモナリザ会の解散を伝えたのだ。

                 

会が始まる前に、事務局のNAKAJIMA氏から聞いていたので驚かなかったが、他のメンバーには衝撃であったろう。26年間に渡り会があっさり、解散と告げられたのだから。

ことの真相は、喫茶モナリザのビルの売却により会場が無くなるとのことであった。銀座のど真ん中で、会費3千円で摘みが四品、ビール・焼酎・ワイン飲み放題で開けたのはTKAHASHIさんとモナリザのオーナーとの付き合いによるところだが、そのビルが無くなればこれまでの条件で会場の確保が覚束ない。これが真相であったが、あまりにも突然だった。残念なことである。

会がお開きになり、後に残ったTAKAHASHIさんと事務局NAKAJIMAさん、それと懇意にしているSAITOさんを誘って人形町「うまし」へと流れた。この店はTKAHASHIさんもよく利用している店なのだ。

一杯やりながら諸々話していると、三人とも学生時代にバレーボールをやっていたとのこと。TAKAHASHIさんがやっていたことや、小学生の東京都の副会長をされていることは承知していたが。それぞれのバレーボール現役時代のことで盛り上がった。

ゴルフで朝が早いというTさんと別れ、三人で「ローカーボ」へと流れたが、この店も売却で今月末で締めるという・・・。音楽好きな面々が集まるので、Sさんを案内するいい機会となった。店は、常連客でカウンターは一杯だったが詰めてもらい、居合わせた王子に文旦を渡した。そこから先は殆ど覚えていない・・・。

高松の女将さんが観光案内を取りに来て、一緒に飲んだ。女将を送り、そこにマッチャンが来て、最後は「高松」で店飲みをした。電車は既にない時間になっていた。マッチャンに昭和通まで送ってもらい、タクシーに手を挙げた。帰宅は25時か26時か?定かでない。

             

それでも朝の弁当は作る。今日は残り飯があったのでチャーハンにした。茄子と豚肉のみそ炒め、ホウレン草の胡麻和え、秋刀魚と鯖塩を焼いた。義母のためにベーコンエッグを作る。

                

以上であるが、手抜きの感は否めない。深酒はいかんねぇ~と、反省するのであった。

              

 

 

 

 

 

 

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春嵐?

2019-03-11 | Weblog

3/11(月)ネットの天気予報で今朝は春嵐があるかもと出ている。道理で昨日は暖かい一日で、夕方になって雨が降り出した。その雨も今朝方は未だ残ったままである。

我が河津桜もそろそろ終わりを迎え、ジャスミンが咲きはじめボケは蕾を膨らしはじめている。そして豊後梅は満開となった。季節は着実に変わりつつある・・・時の流れとともに。・・・されど、我が先行は未だ定まらず。

穏やかな昨日、友人や知人が届けてくれた野菜や若布を使い夕食を作った。野菜は先日函南で会い、三島「桜家」に同行してくれたNARA氏が作った無農薬野菜の数々から煮物・サラダ・お浸しなどに。若布は横須賀・三春町の「埼玉家」の先代ONO夫妻からであった。

ONOさんからは、若布やヒジキ・昆布などの所謂、育毛に利くと云われる海藻類をシャレで頂くが、残念なことにその効果は未だ現れてこない。昨夜は、その若布を野菜と一緒のサラダにして頂いた。

 

今朝は、最近にしては珍しく早くに布団から出た。、外に出ると鈍色の空から雨粒が落ちているが風は未だない。春嵐は来るのか?。そんな朝を迎えてBLOGを記している。

とは言え、記す内容もないので昨夕の食事メニューを六緒目の紹介する。

夕方に駅前まで買い物に出掛けた。その中から「シジミ味噌汁」、届いた野菜の中から「蕪と厚揚げの煮物」「春菊の胡麻和え」「サラダ」を作った。他にはどでかいアジ開きを焼き、パスタ「カルボナーラ」を作った。カルボナーラのために開けた白ワインと缶ビールを食事の友にした。

そんな穏やかな一日の〆のは、ボートレースの結果と友人たちのFBのチェックであった。段々と曜日の感覚がなくなっている。日付の方は辛うじてあるが、これも僅かなスケジュールを確認するが故である。

今日の予定と云えば、夕方に孫のSORAを渋谷の教室に届けてから銀座に向かう。銀座四丁目の喫茶店・モナリザにて月例の異業種交流会「モナリザ会」があるので出席する。さて、この後がどう展開するかは?。

気分次第であるが、今月初めが開店記念と連絡があった六丁目の「順」にもご無沙汰している・・・。はたまた人形町に向かうか、学芸大学駅に戻るか・・・。その時の流れ、気分次第になろう。

 

夜のことを心配する前に、そろそろ弁当作りに入ろう・・・・。今日は「ハンバーグ」に、土曜日に仕入れてきた鮭を焼き、鶏と大根の煮物、卵焼きの予定である。

 

予定通りの弁当ができあがった。ちょっと違うのは「鮭まぶしご飯」と、チキンソテーが加わったことと明太子焼きが追加されたことだ。

鮭は銀鮭の方を焼いたが、厚みは店売りの三倍くらいの厚さである。鮭は厚く切ったほうが美味しいのだ。鶏モモ肉と大根煮を準備しながら、身の方を少しソテーする気になったのは目先を変える思ひである。

         

 

 

 

 

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二度めの豊洲市場

2019-03-09 | Weblog

3/9(土)昨夜は少々飲みすぎだつたようだ。午後に同じ沿線の綱島に出掛けた。確定申告書類の作成をお願いしていた税理士さんの事務所兼自宅で話を聞き書類に印鑑を押した。これで一安心であるが、私にとっては多額の税金というやつを払わねばならない。国税は口座引き落としだが、他にも地方税が掛かってくるので、今年は(も)貧乏生活が待っていると云う次第だ。

四月になれば与論島に出掛けるつもりでいたがどうなることやら。それに弘前の友人も訪ねたいと思ったりしている。

長年の夢であった日本列島桜を追う旅も実現しそうにないし、退職後の願望であった全国ボートレース場巡り・・・ 札束を一つ持って、それが無くなるまで旅をつづける・・・も実現が危うい。現実と云う前に、我がささやかな希望は泡沫と消えそうだ。せめて近場の平和島にでも通うことにしよう・・・。

税理士さんのところで用を済ませ、人形町へ。四時半から歯の治療を受け、その後「ちょっぷく」で下旬に来高するUSUI老と合流してチケットを渡した。HOYA兄いも来て、更に友人のHOSOKAWAも久々に姿をみせて飲み会となった。

更にもう一人、四月から会社に来てもらうことになったFUKAO氏から人形町に来ていると連絡が入った。五人となり、「こま吉」へと移動した。そこから「高松」「ローカーボ」と渡って、最後に再び「ちょっぷく」でお開きになったが、些か酔ってしまった。

そんな次第で、今朝はすっきりしない目覚めと体調であった。が、豊洲の魚市場に鮭を買いに行くことにした。弁当の鮭が無くなり、田舎で猪を頂くのでその御礼に鮭を送ろうと云うことで。

豊洲市場は二度目になるが、最初の時は「うまし」の夫妻に同行した。何時も買う店の場所が分るか心配であった。一般の客は入れない一階に、整理をしているガードマン「ごくろうさん」と声を掛けて堂々と降りた。

時刻は既に十時になっており、大方の店はシャッターを下ろしていたが、目指す「北田本店」のシャッターは降りてなく、何時ものおじさんが弁当を食べ、帳場は〆の電卓を入れていた。そんなところに顔をだしたが、なんとか鮭を贖うことができた。

目的を果たして、小腹が空いたので三階の飲食店フロアーに上がった。寿司屋が圧倒的に多いが、どの店も長蛇の列ができていた。長い時間を並ぶほどの価値があるとも思えないが、ご苦労なことだと呟きながら自分が入る店を探した。と、緑明軒の看板がの・・・。

築地場内のはずれでカウンターだけの店でフライ系を中心にして遅い時間に店を開けていたが、時折ここに立ち寄ってポテサラやハムサラ、アジフライを食べてビールを飲んだものだ。豊洲に移っていたとは・・・。ここに入ることにした。

残念ながら、もうサラダ系はやってなく、フライ中心になっていた。ライス抜きのカキフライをオーダし、中瓶のビールを2本。店内は二人掛けテーブル4席と小さく、前にいた婆さんはいなくなり色白の店主が一人で切り盛りしていた。食事を終え、前に「うまし」夫妻と入った隣の軽食カフェでコーヒーを飲んで帰宅した。

                 

然し、新市場は整然としてはいるが市場らしい雑多さが消えて、面白味が消えてしまった。廻りの建物といい、その先の豊洲の高層マンション群と云い、味気ない街と思うのは私だけであろうか・・・。

            

    観光客は、2階から下を見ることはできるが1階に降りることはできないシステム 

新市場も買い出しの商売人の姿が減っていると聞く・・・。遠くなって、私も買い出しに行くのが面倒だ、。どの店も画一的になったし、通路は狭い。ゆっくり魚を見て歩く楽しみのようなものが消えたのは残念である。

 

 

 

 

 

 

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人間ドッグ~鰻「桜家」 

2019-03-07 | Weblog

3/7(木)昨夜の十時ごろからであったろうか、伊豆病院の宿泊棟で雨音を聞いたのは。東京を出た朝から、何時雨になってもおかしくない空模様であったが。六時過ぎ、二階の窓のカーテンを開けるとシトシトと降り続いていた。

大腸CTと胃内視鏡が朝の内にあり、それが済むと検診結果と保健指導とつづいて昨日からの入院ドックは終わる。午前にある二つの検査が面倒だが、どちらかと云えばこの二つが一番重要ともいえる。大腸検査のために1,8ℓもの薬剤入りの水を飲んだ。

九時半、大腸CTのために台に上がって穴からガスを注入される。これが徐々に腹痛を起こすのだ。参ったね~、これなら内視鏡にしとけばよかったかと、思えた。三万五千ものオプション検査フィを払うのだ!。後からガスが抜けるまで、腹が落ち着かない。

最後に胃カメラを飲んで検査はお仕舞いとなった。「綺麗な胃ですよ、上部にちょっとした腫れと胃酸潰瘍の跡がありますが」と言われる。そりゃそうさ、おいらの腹は真っ白さ・・・なんて腹の中で呟いていたが。

検査結果の所見を聞くと「胆嚢にちょっとした出来物があるので、これはもう一度検査をしたほうがいいです。紹介状を書いておきます」とのことだった。三週間後ぐらいに全て結果が届くので、その中にこの件も入ってくる。その上で五反田の病院でもう一度CTを撮ることになろう。

概ね想定した範疇の結果である。それにしても、オプション検査が多いとは云え188460円までかける必要があったかと反省である。

ドックに来ている、そのほとんどはかつて所属した会社の従業員であろう。知った顔がないかと見渡したが・・・、最後に宿泊した部屋のキーを返しに受付に行ったところで、座っている男から声を掛けらた。剣道部の後輩であった。

会計を済ませて、迎えに来てくれた地元のNARA君と大場駅に向かい、三島・広小路駅に出た。「桜家」で鰻を食べながら一杯やろうと誘ったのだ。店に行くと流石、人気店らしく平日なれど十人ほどが待っていた。小雨の中を店横のタバコが吸える待合所で十五分ばかり待った。  

              

三階に通された。満席だった座敷が直ぐに空いたので、昼が終わる時刻と思いきや、後から後から予約らしい団体がぞろぞろと席を占めて満席になった。

NARA君はドコモ支店を最後に退職して5~6年経つ。かつての仕事のことや、同じ職場であったという私の旧知の人を話題に、一杯やりながら旧交を温めた次第。

鰻の方は、いつかこの店で食した二段重ねのうな丼(7800円)を食べる気力はなく、一匹半の鰻重(5400円)で抑えたが、ご飯は相当残した。最近、菜食中心にしている所為か、ウナギの味がちょっと辛く思えた。

広小路駅から一駅、三島駅にでて駅前の駐車場脇の喫煙所で傘をさして一服。JRで熱海駅で乗り換えて帰京した。学芸大学駅に着いたのは丁度五時であった。妙に疲れているが、昨晩夜中に二度も目覚めた所為か?。

           

      三島駅の駅舎は、富士山の形を模した屋根だ。駅前は昔とさほど変わりない。

かくして二十年ぶりの人間ドックが終わった。どうってことはないが、どうも無駄な出費をしたような気がするよ!。現時点では。

 

 

 

 

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入院ドック

2019-03-06 | Weblog

3/6(水)朝の弁当を作り、家を出たのが八時だった。東急線で横浜に出て、JRで函南駅に着いたのは10:06のはず。伊豆病院の送迎バスに乗ったのは十人程度だったが、殆どがドックに入る人であろう。荷物や雰囲気でわかる。

相も変わらずに寂れた駅と駅前。それでも、病院以外にもここのゴルフ場に何度か来たことがある。函南スプリングスや函南ゴルフである。今や遥かなことになったが。

                 

病院では最終の受付組であろう。受付前には沢山の人が検査待ちをしていた。病院も周囲も昔の面影がない。緑に囲まれた病院だったが、売却したのか目の前は大きな団地になろうとしていた。

                 

検査の方は順調に進む(当たり前だが)。病院食の弁当を頂き、ゆるゆるとながら着実にコースは進む。オプションの検査が八項目あるが、検査を受けながら必要なかったと思う項目が多い。

一泊するほどのこともないかと思いつつ、五時過ぎに終わった初日の検査後は大きな風呂(温泉)に浸かり、晩飯は食堂ながらビールも酒も飲めるのだ。嬉しいことに、500㏄の缶ビールが300円とは、福利厚生だよね!。

                

食後のコーヒーに、食後の一服ができれば最高だが、此処の敷地内は全面禁煙だとのこと。こんな差別が許されるのか?、可笑しいだろう!と、俺は思うよ。世間で販売されている商品を使っちゃいけない、それも全てでとは区別じゃなくて差別と云うのさ。差別をしちゃいかんと、教わったよね!。悔しいが、病院の敷地外まで出て吸う気力もない・・・・。

こんな馬鹿野郎~な病院だが、明日の、多分午前中で終わるだろう。が、大腸CT(三万五千円)と胃カメラが検査項目なのだ。一番嫌な奴を受け、診断結果や生活指導までして下さるようだ。余計なお世話と云いたいが、これも支払う銭のうちと思えばだね!。受付時に、支払金額が188,600円とか宣告されてるからね。オプション検査が半分以上締めてるが。

 

ついでも、今朝の弁当を紹介すると「かつ丼」と、予定通りでした。今朝の時間にゆとりが欲しかったので、昨夜の夕食後にトンカツを揚げておいた。下拵えの時間を節約のために。

              

他には「明太子焼き」と「小松菜の煮びたし」、以上でした。

              

 

 

 

 

 

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