SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

異言とは何か  第9回

2016年05月27日 | 日記

 2.聖霊の賜物を追究する人にどう接するか?

 

今日、聖霊体験を追究するほとんどの教会では、没我の状態で意味の分からない言葉をしゃべることを、初代教会の人々が受けた異言の賜物と同じものだと見なし、教会にそのような賜物があることを自分たちが真実な教会であることの証明としています。そのような教会ではよく、コリント人への第一の手紙14章が引用されます。しかし、聖霊の賜物の理解についての論争が、何年にもわたって教会の間に存在しています。

 

コリント教会に具体的にどのような事が起きていたのか、すべての事情や背景を知ることはできませんが、大まかな問題点ははっきりしています。コリント教会の新しく生まれたばかりのクリスチャンたちは、当時の圧倒的な異教世界に対抗して戦うにはあまりにも貧弱な、わずか数十名の男女でした。そのため、神様は福音を広く効果的に伝えるために必要な、強力な意思疎通の道具としての聖霊の賜物を彼らに与えられました。その結果、まだ未熟なキリストの弟子たちは、新しく得た言語能力を最大限用いて伝道したいという情熱をもって、当時の神秘宗教に凝り固まっている異教徒たちに、素晴らしい神様の力と恵みを紹介したのです。

今日、ある教会では異言を語る方法、すなわち意味のない音節を語る方法を教えることもあります。それを学んだ人が、最終的に、自然に子音と母音を組合わせながら語り出すようになると、その人は「聖霊の賜物」を受けたと認められます。このようにして異言を語るようになった初心者たちは、異言や聖霊の賜物を強調する礼拝や集会に参席することによって心が高揚し満足感を持ちます。その集会の雰囲気を通して感情が高まり、その頂点に達すると自動的に異言をとなえるようになります。


異言とは何か? 第8回

2016年05月26日 | 日記

さらに、聖霊の奇跡を行う人たちには、必ず聖霊の実が結ばなければなりません。彼らには愛、深く神聖な自己犠牲的な愛が現れるでしょう。ペンテコステの日に、豊かな聖霊の賜物が下ったのは、弟子たちが、互いに罪を告白し合って謙遜になり、真の兄弟姉妹の愛に一致した時でした。ですから、聖霊の豊かな賜物は、教会に真の果実がある時に与えられるのです。「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ 5:22,23)などの聖霊の実は、「神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている」残りの民の特性となるのです(黙示録 12:17)

 

私たちは間違った奇跡を行う人たちを理解し、彼らの真剣さを認めることが出来ます。しかし、真理を離れたこのような形の礼拝は、結局、人々を恐ろしい破滅へと導くものであることを、きちんと指摘し説明しなければなりません。サタンによる偽りの賜物が教会に入ってきている時、自分たちでそれが偽りだと気づくことはとても難しいのです。

 

昔、トロイの住民たちは、町の門前に置かれた平和の贈り物を非常に喜びました。住民たちがその巨大な木馬を、城壁の中へ運び入れると、やがて、ギリシャの軍人たちがその木馬の中から出て来て、トロイの町を占領してしまいました。トロイの人々は、前にも何度か贈り物をもらっていました。ですから今回も外見だけ見て、素敵な新しい贈り物を大きな祝福と考え、受け取りました。不幸にも、彼らの敵の策略を過小評価したため、結局その贈り物のせいで滅亡してしまいました。トロイの人々とは異なり、私たちは聖書に記録されている十分な警告を持っています。「また見ると、龍の口から、獣の口から、にせ預言者の口から、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。これらは、しるしを行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に、戦いをするためであった」(黙示録 16:13,14)

 

かえるのような霊が口から出てくるという言葉に注目してください。かつて、言葉の混乱によってバベルの塔は滅亡しました。しかし同じようなことが現代の私たちの時代にも存在します。この言葉の混乱は、ノアの洪水から間もなく、人々が自分たちを高め神様のようになろうとした結果起きたものです(創世記 11:4-9)。彼らの反逆と同じ精神が、異言という意味不明の言葉や混乱(バビロン)した偽りの教理という形で、今日でも繰り返されているのです。そして警告の言葉は今の時代にも響いています。「彼は力強い声で叫んで言った、倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。…わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた、わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ」(黙示録 18:2,4)。今日、神様の民はこの警告の声に注意を傾けているでしょうか?果たして彼らはこの警告を受け入れるでしょうか?


異言とは何か? 第7回

2016年05月25日 | 日記

世界には、クリスチャンを名乗って聖霊の超自然的な働きを行うことが出来ると主張していても、罪に対する深い悔い改めと、神様に対する真の屈服を教えない教会がたくさんあります。

「耳をそむけて律法を聞かない者は、その祈でさえも憎まれる」(箴言28:9)という事実に気付かなければなりません。神様の民が、聖書の教えを無視して従わないなら、神様が聖霊を通して彼らに働かれることはないというのはあまりにも当然なことではないでしょうか?自分自身を偽ることはやめましょう!神様への愛は、当然神様のご要求に対する忠誠と服従を生み出すのです。イエス様は明白に、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ 7:21)と教えられました。その御言葉は、ソロモンを通して与えられた聖霊の教訓と一致しています。「み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、戒めを重んじる者は報いを得る」(箴言 13:13)。もちろん、私たちに従順な心を持たせたものは、私たち自身ではありません。それは、私たちの中に住んでおられるキリストです(コロサイ 1:27-29)。私たちが聖霊の力を体験したいのであれば、まず、私たち自身の心と生活が、キリストの真理や御言葉と一致しなければなりません。キリストの品性が私たちの生活の中に反映されるようになることが、私たちに神様が働いて下さる確実な道なのです。パウロを通して聖霊はこのように語られました。「わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」(ヘブル 8:10)

 心にこのような聖霊の働きを経験するなら、私たちは賜物を得ようとして必死に努力したりしないでしょう。

賜物はそれを得ようとする熱心さや努力によってではなく、賜物を妨げている物を取り除くことによって与えられるのです。「贈り物をすると偽って誇る人は、雨のない雲や風のようだ(新欽定訳)」(箴言 25:14)。まず、神様がすでに私たちに与えておられる様々な能力や才能を、謙遜と感謝の心を持って用いなければなりません。そして最も良い賜物は、それが必要な時、私たちに与えられるという確信を持ちながら、クリスチャンの生涯を力一杯生きていくことこそ、聖書が勧めていることです。

 私たちが聖霊の満たしを切に求め、毎日の生活の中で神様の力が現されることを祈る時、私たちは自分の聖霊理解が浅いために、聖霊の働きを認めなかったり、過小評価しないようにしなければなりません。実は、多くの人が聖霊の導きをすでに受けているのに、それに気づかず感謝もしていないということがたくさんあるのです。聖霊は目立たない所で、問題を解決したり、祈りに応えてくださっておられることもあります。また時には、福音を伝えるために、言葉の壁を乗り越えさせて下さったり、超自然的な方法で助けを与えてくださったりします。聖霊による奇跡は今も起きているのです。天の力によって起きる奇跡は、それによって神様に栄光を帰すようにさせ、全ての聖書の言葉と一致しています。それに対して、サタンが行う奇跡的な出来事は、福音のための目的も意味もなく、ただ人を驚かせたり、人間をたたえるようにするだけで、真の敬虔と服従へと導かないのです。


異言とは何か? 第7回

2016年05月25日 | 日記

世界には、クリスチャンを名乗って聖霊の超自然的な働きを行うことが出来ると主張していても、罪に対する深い悔い改めと、神様に対する真の屈服を教えない教会がたくさんあります。

「耳をそむけて律法を聞かない者は、その祈でさえも憎まれる」(箴言28:9)という事実に気付かなければなりません。神様の民が、聖書の教えを無視して従わないなら、神様が聖霊を通して彼らに働かれることはないというのはあまりにも当然なことではないでしょうか?自分自身を偽ることはやめましょう!神様への愛は、当然神様のご要求に対する忠誠と服従を生み出すのです。イエス様は明白に、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ 7:21)と教えられました。その御言葉は、ソロモンを通して与えられた聖霊の教訓と一致しています。「み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、戒めを重んじる者は報いを得る」(箴言 13:13)。もちろん、私たちに従順な心を持たせたものは、私たち自身ではありません。それは、私たちの中に住んでおられるキリストです(コロサイ 1:27-29)。私たちが聖霊の力を体験したいのであれば、まず、私たち自身の心と生活が、キリストの真理や御言葉と一致しなければなりません。キリストの品性が私たちの生活の中に反映されるようになることが、私たちに神様が働いて下さる確実な道なのです。パウロを通して聖霊はこのように語られました。「わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」(ヘブル 8:10)

 心にこのような聖霊の働きを経験するなら、私たちは賜物を得ようとして必死に努力したりしないでしょう。

賜物はそれを得ようとする熱心さや努力によってではなく、賜物を妨げている物を取り除くことによって与えられるのです。「贈り物をすると偽って誇る人は、雨のない雲や風のようだ(新欽定訳)」(箴言 25:14)。まず、神様がすでに私たちに与えておられる様々な能力や才能を、謙遜と感謝の心を持って用いなければなりません。そして最も良い賜物は、それが必要な時、私たちに与えられるという確信を持ちながら、クリスチャンの生涯を力一杯生きていくことこそ、聖書が勧めていることです。

 私たちが聖霊の満たしを切に求め、毎日の生活の中で神様の力が現されることを祈る時、私たちは自分の聖霊理解が浅いために、聖霊の働きを認めなかったり、過小評価しないようにしなければなりません。実は、多くの人が聖霊の導きをすでに受けているのに、それに気づかず感謝もしていないということがたくさんあるのです。聖霊は目立たない所で、問題を解決したり、祈りに応えてくださっておられることもあります。また時には、福音を伝えるために、言葉の壁を乗り越えさせて下さったり、超自然的な方法で助けを与えてくださったりします。聖霊による奇跡は今も起きているのです。天の力によって起きる奇跡は、それによって神様に栄光を帰すようにさせ、全ての聖書の言葉と一致しています。それに対して、サタンが行う奇跡的な出来事は、福音のための目的も意味もなく、ただ人を驚かせたり、人間をたたえるようにするだけで、真の敬虔と服従へと導かないのです。


異言とは何か? 第6回

2016年05月24日 | 日記

不思議なことに、現代の聖霊の賜物を追求する多くの教会が、神様の十戒は十字架で廃止されたと信じています。今日、ほとんどの教会では、愛が神様の十戒を守ることの代わりになっています。しかしイエス様は、愛と服従は分けることが出来ないものであることを認め、そのことを条件に、聖霊の約束を与えられました。「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」(ヨハネ 14:15-17)。ぺテロはイエス様の御言葉をよく理解していました。彼は、聖霊は「神がご自身に従う者に賜わ」るものだと言いました(使徒行伝 5:32)。イエス様に最も愛された弟子ヨハネは、「彼を知っていると言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない」(Ⅰヨハネ 2:4)と言いました。

 

けれどもある人たちは、新約聖書に出てくる戒めとは、神様がシナイ山で与えられた十戒ではなく、「互に愛し合いなさい」(ヨハネ 13:34)と言われた、イエス様の新しい戒めを指すのだと考えています。イエス様が「新しいいましめをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい」と言われので、新しい戒めによって十戒は不要なものになったのだと言います。しかしここでイエス様は、今までとは全く違う新しい戒めを立てられたのではなく、昔から常に存在していた十戒の中心思想である愛を再度強調されたのだという事実に気付かなければなりません。「新しい戒め」とは、「神様を愛し人を愛する」という十戒の本質そのものなのです。イエス様は十戒の本質が厳格な規則やめんどうな戒律でなく、神様の愛に対する愛の応答であることを明らかにされたのです(Ⅰヨハネ 2:3-8)。そこでヤコブは、十戒の中の一つでも犯せば、全ての戒めを犯すことと同じであることをはっきりと述べています(ヤコブ 2:10,11)。これは十字架以後、ペンテコステから数十年が過ぎた時でも相変わらず十戒の教えが有効であることを証明しています。

 

ではどうして神様は、戒めを守る者に聖霊の賜物を与えられるのでしょうか?それは聖霊の賜物が個人の証に力を与えるためです。イエス様は昇天される前に、弟子たちに「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝 1:8)と言われました。神様は、戒めに従わないで不従順の生活をしている罪人に聖霊の能力をお与えになられるでしょうか?決してそのようなことはありません。イエス様は、聖霊を受ける条件として「いましめを守るべき」(Ⅰヨハネ 14:15)であると明言されたことを覚えてください。サタンは神様の奇跡を真似することはできますが、神様の「戒め」に完全に従うことはできません。もしある人が、神様の戒めや聖書の教えに従うこともなく、キリストの名前で奇跡を行っていたら、それはサタンの働きであり、キリストの霊によるものではないということが、聖書によって明らかになります。