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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

異言とは何か? 第5回

2016年05月23日 | 日記

聖霊の賜物を追究することを旗印にしている教会がたくさんあります。イエス様は「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(マタイ 22:14)と語られ、パウロも「多くの人」が「神の言を売物に」(Ⅱコリント 2:17)するのを見てきました。また使徒ヨハネも、「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神からでたものであるかどうか、ためしなさい」(Ⅰヨハネ 4:1)と言いました。もちろんそれだからといって、聖霊の賜物を追及する教会が全て偽物だというわけではありません。そうではなく、ただ、神様の御言葉によって全ての教会、全ての宗教体験を吟味していかなければならないということなのです。パウロが言ったように、「すべてのものを識別して、良いものを守」(Ⅰテサロニケ 5:21)るために、私たちは霊的賜物を強調している教会や、その教会の教えを、聖書の真理と比較し調べたうえで、もしそれらが聖書と一致していたなら、安心して受け入れればよいのです。

 

しかし、ある人やグループが、神様の言葉を聞いたとか、神様の姿を見た、人がバタバタと倒れたとか、全身を電流のようなものが走って涙が流れたというような感情的興奮によって、自分が救われたのだとか、聖霊を受けた、天国が保証されたなどという場合には気を付けてください。神様の御言葉は真理であり、全ての経験を試すものです(ヨハネ14:16,17, 15:26, 16:13)。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(Ⅱテモテ 3:16)と言われています。イザヤも神様の民に、神様の御言葉ですべての霊を判断せよと諭しました。「ただ律法とあかしとに求めよ。もし彼らがこの言葉によって語らなければ、そこには夜明けがないのである(新欽定訳)」(イザヤ 8:20)。この同じ試験基準が、ヨハネの黙示録にも出ていることに注目して下さい。最終的に救われる人たちとは、「神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たち」(黙示録 12:17)、「神のいましめを守り、イエスの信仰を持ちつづける聖徒(新欽定訳)」(黙示録14:12)であるということです。使徒ヨハネも、一つの試験基準を付け加えました。彼が提示したのは、「キリストが肉体を取って来られたことを告白する霊」(Ⅰヨハネ 4:2)かどうかということです。


異言とは何か? 第4回

2016年05月22日 | 日記

では、どのようにしてクリスチャンと公言する多くの人が(イエス様が「多くの者」と明言されました)間違った方向に導かれ、結局他の人々をだます、サタンの代理人の役割を果たすようになってしまうのでしょうか?これは、今日キリストに従う全ての人々が、自分の魂を深く探らなければならない、厳粛な質問です。この質問に答えるために、私たちは聖書の真理と個人の経験についての正しい理解をしていなければなりません。この二つの関係を、すべてのクリスチャンははっきりと理解しなければなりません。真理と経験の関係を正確に理解できないクリスチャンは、サタンの偽りと惑わしに対して門を開いている状態なのです。イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ 14:6)と言われました。キリストのみ言葉の中にあるすべての真理は、クリスチャンを常に正しい経験に導きますが、私たちの経験がいつでも聖霊の導きによる正しいものではないのです。

 なぜでしょうか?それは、いつでも真理自体は変わらないのに、真理を理解する私たちの知識と経験は、間違う可能性があるからです。ところが多くの場合、人々は自分たちの間違った知識と経験を根拠に、真理の方を変更しようとします。そして自分たちの体験を正当化するような聖句を集め、自分たちに都合の良い神学を作り上げたりするのです。そのために、現代では、同じ聖書を持ちながら、多くの神学が出来上がってしまったのです。しかし、真理は不変の権威を持っていて、矛盾しません。ですから、それはすべて経験の判断基準となるべきなのです。ただ真理だけが経験を判断し、評価できるのです。私たちの経験を通して真理を判断するのではなく、真理を通して私たちの経験と知識を評価、判断しなければならないのです。

 人間の経験によっては、何も定義することができません。それにもかかわらず、サタンの精神は、経験が非常に重要だと人に思わせますが、経験は聖書の教えの枠内でだけ意味を持つものとなるのです。たとえば、何人かの人が同じ出来事を観察するとします。そうすると、各々まったく異なる見方や経験をするようになるでしょう。そのように一つのことを見ても、それぞれ受け取り方が違うように、私たちの経験は、先入観や個性、価値観、偏見などによって大きく違って来ます。ですから私たちは、ある人の経験や考えを絶対視することは出来ないのです。私たちはただ、聖書、聖書によってのみその経験を評価、判断しなければなりません。

 そこで、聖霊の賜物を強調する運動が批評を受けなければならない最も大きな問題は、真理によって経験を判断するのではなく、経験を根拠に真理を論じていく傾向があるということです。聖霊の賜物を受けたと主張する人たちの立場や過程はおおよそ次のようなものです。

 ① 私はある驚くべき経験をした。

 ② 私は私の経験と非常によく似た経験を聖書の記録で発見した。

 ③ そのため私の経験は真理である。

 これは、非常にもっともらしい論理の展開ですが、似ているからといってその経験が本物であるかどうかは確認できないのです。その人の経験が、初代教会のクリスチャンの経験と似ているからといっても、サタンも本物そっくりの経験を作り出すことが出来、奇跡や、癒しや感情の高揚、異言を語らせることも出来るからです。そのため、自分の経験を冷静に聖書で吟味しなかったり、経験があるからといってそれ以上聖書の学びを深めようとしなかったりする人はとても危険だと言えます。経験を信仰の土台や目標にしている人は、結局、真理や信仰を土台にしていないために、偽りの経験の上に立ち、最後になって、「あなたを知らない」と言われる人になってしまうかもしれないのです。パウロは「真理に対する愛を受けいれなかった」人々について、「そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送る」(Ⅱテサロニケ 2:10,11)と言いました。


 異言とは何か? 第3回

2016年05月21日 | 日記

サタンの活動は、よくテレビなどで紹介されるマジックのような底の浅いものではありません。サタンが与える「霊的賜物」は本物の「霊的賜物」とあまりにもよく似ているため、イエス様は何度も繰り返し、「人に惑わされないように気をつけなさい」(マタイ 24:4)と警告されたのです。これは「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとする」(マタイ24:24)ためです。このことをしっかり念頭に置いておかなければなりません。ここで言われている選民とは、普通の人たちや、適当に教会に通っている人々を指しているのではありません。熱心で誠実なクリスチャンです。そのような人たちが、最後の時代にはサタンの惑わしのターゲットとなるでしょう。

 ある人々は、サタンだけが直接偽装して現れ、「大いなるしるしと奇跡」を行うと考えているかもしれません。しかしこれは間違った考えです。これまでの聖書の歴史の中でも、周囲からは真のクリスチャンと思われているような人たちによって、偽りの奇跡や超自然的な現象がもたらされたのです。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイ 7:22,23)。

 この聖書の言葉を見れば、私たちは、最後の時にキリストから拒まれる人たちが、主の名を用いながら、実際には主のみ心を行っていなかった事実を知ることが出来ます。「多くの力あるわざを行った」からといって、それらの奇跡が、神様のみ心に従っていることの証明にはならないのです。反対に、この教えを通して私たちは、イエス様の名による奇跡の行為が、それを行う人たちに偽りの確信を与えてしまう恐れがあることを見なければなりません。


異言とは何か?  第2回

2016年05月20日 | 日記

そこで使徒パウロは、次のように真剣に問いかけました。「みんなが使徒だろうか。みんなが預言者だろうか。みんなが教師だろうか。みんなが力あるわざを行う者だろうか。みんながいやしの賜物を持っているのだろうか。みんなが異言を語るのだろうか。みんなが異言を解くのだろうか」(Ⅰコリント 12:29,30)。答えは明らかに「いいえ!」です。従って、ある奇跡や賜物があるからといって、その人が、真実のクリスチャン信仰を持っている、と救われていることの証拠としてはならないのです。イエス様は「このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである」(マタイ 7:20)と言われました。そして聖霊の実は「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ 5:22,23)なのです。しかし、教会はもちろんですが、個人でも、異言などのある特別な賜物を持っているかどうかで、互いを評価したり判断したりしています。

 

おそらく、異言ほど教会の中で、問題を引き起こすものはないでしょう。本来、霊的賜物が教会に与えられる主な目的は、「神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致」(エペソ 4:13)に導くためなのですが、現代の異言は、逆に教会の不一致と混乱の要因となっているのです。今日、異言を語るクリスチャンたちは、異言を語れない人たちの信仰を未熟なものとみなしています。反対に、異言を語らない多数のクリスチャンたちは、異言を行う人たちに対して劣等感を持ったり、あるいは、狂信的な人々と見なして軽蔑する傾向があります。

 

もちろん、聖書には正しい異言の賜物があることは約束されていますから、全ての異言を否定することは、明らかに間違っています。イエス様は昇天される前に、「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、・・・」(マルコ 16:17)と語られました。この賜物はペンテコステの日に初代教会に与えられ、伝道のための非常に効果的な賜物となりました。聖霊は、人間が一生頑張っても達成できないようなことを、一瞬にして彼らのために行ってくださいました。その日から彼らは各地を訪れて福音を伝え、その地域の言語を簡単に話すことができました。この奇跡的な賜物は、彼らが天で承認された者たちであるという事実を、世界の人々に伝える強力な証拠となりました。

 

聖書のどこを見ても、このような異言の賜物が、最後の時代には無価値なものになるという暗示はありません。むしろ私たちは「こうして、あなたがたは恵みの賜物にいささかも欠けることがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れるのを待ち望」まなければなりません(Ⅰコリント 1:7)。そしてすべての霊的賜物は、教会が「キリストの満ちみちた徳の高さにまで至る」(エペソ 4:13)よう教会の中で正しく用いられなければなりません。しかし、すべてのクリスチャンが霊的賜物を用いたり、見分けたりする時に忘れてはならないことがあります。聖書は最後の時代に、サタンが、真理の上にしっかりと錨を下ろしていない人たちを惑わすために、偽りの霊を送って偽りの体験を与えることをはっきりと警告しています。サタンもまた「あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議」(Ⅱテサロニケ 2:9)を行うと言われています。「こういう人々はにせ使徒、人をだます働き人であって、キリストの使徒に擬装しているにすぎないからである。しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから」(Ⅱコリント 11:13,14)と言う警告を覚え、正しい判断をしていかなければなりません。


異言とは何か? 第1回

2016年05月19日 | 日記

 第1部:奇跡と賜物を求めますか?

 1.序論

 

夏休み、信一は休暇を過ごすため、実家へ向かっていました。無宗教であった母親が、最近クリスチャンになり、祈祷会にも出席していることを聞き、彼は道中、心弾んでいました。これから母との信仰の壁がなくなり、クリスチャンとして話し合うことができるようになったことが、とても嬉しかったのです。家の玄関に着くとすぐ、「主よ、感謝します」という母の喜びに溢れた大きな声が聞こえてきました。それは、旅の疲れを吹き飛ばしてくれました。そんな言葉を、これまで一度も聞いたことはありませんでした。その日の夜、疲れてはいましたが、信一は、母と共に祈祷会に出席できる喜びを、諦めることなどできませんでした。

 

信一は、母と他のクリスチャンたちが賛美歌を歌い、互いに自分たちの体験を証し合う姿に見とれていました。様々な人々が、自発的に信仰の喜びや感謝をあらわしました。罪の告白と感情のこもった祈り、両手を上げて熱心に祈る姿は、聖書的なものだと思えました。しかし次の瞬間、彼はとても驚きました。人々が異言を語りだし、「神様の聖母マリアがこのようにおっしゃいました・・・」という異言の解説が続きました。

 

信一のこの経験は、現代の多くのクリスチャンが直面している問題を、よく表しています。今日多くのキリスト教会では、聖霊の賜物を真剣に信じているため、異言や預言、病気の癒しなどの超自然的現象が、本当に神様から来たものであるかどうかを疑ってみることさえしていません。もちろんそのような人たちも、全ての奇跡的な現象を、神様から来たものとして受け入れてはならず、聖書のみ言葉に完全に一致していなければならないことを知っていますが、自分が経験していることについては、そのような原則を適用しません。とても素敵に包装された箱であっても、その中にプレゼントが入っていないかもしれないのです。きれいに包装された物が、すべて良いものとは限りません。もしかしたら、悪意のある人が危険物を入れているかもしれません。霊的賜物と呼ばれる感情的興奮や奇跡の裏に、神様からのものではない何かが隠されているということはないでしょうか?

このような非常に重大な質問の答えを探すために、私たちはまず、神様からの真の賜物は、「すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである」(Ⅰコリント 12:11)という事実を覚える必要があります。自分たちが、自由に思いのままに聖霊を用いるのではなく、聖霊ご自身が、福音事業を進めるために、あなたの祈りや願いに応じて、人を通して働かれるのです。聖霊の賜物は、人間が自分の必要に応じて選ぶのではなく、聖霊が主導権を取って、人の必要性と目的に沿って、準備された人に与えてくださるという聖書的真理を忘れてはいけません。