聖霊の賜物を追究することを旗印にしている教会がたくさんあります。イエス様は「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(マタイ 22:14)と語られ、パウロも「多くの人」が「神の言を売物に」(Ⅱコリント 2:17)するのを見てきました。また使徒ヨハネも、「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神からでたものであるかどうか、ためしなさい」(Ⅰヨハネ 4:1)と言いました。もちろんそれだからといって、聖霊の賜物を追及する教会が全て偽物だというわけではありません。そうではなく、ただ、神様の御言葉によって全ての教会、全ての宗教体験を吟味していかなければならないということなのです。パウロが言ったように、「すべてのものを識別して、良いものを守」(Ⅰテサロニケ 5:21)るために、私たちは霊的賜物を強調している教会や、その教会の教えを、聖書の真理と比較し調べたうえで、もしそれらが聖書と一致していたなら、安心して受け入れればよいのです。
しかし、ある人やグループが、神様の言葉を聞いたとか、神様の姿を見た、人がバタバタと倒れたとか、全身を電流のようなものが走って涙が流れたというような感情的興奮によって、自分が救われたのだとか、聖霊を受けた、天国が保証されたなどという場合には気を付けてください。神様の御言葉は真理であり、全ての経験を試すものです(ヨハネ14:16,17, 15:26, 16:13)。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(Ⅱテモテ 3:16)と言われています。イザヤも神様の民に、神様の御言葉ですべての霊を判断せよと諭しました。「ただ律法とあかしとに求めよ。もし彼らがこの言葉によって語らなければ、そこには夜明けがないのである(新欽定訳)」(イザヤ 8:20)。この同じ試験基準が、ヨハネの黙示録にも出ていることに注目して下さい。最終的に救われる人たちとは、「神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たち」(黙示録 12:17)、「神のいましめを守り、イエスの信仰を持ちつづける聖徒(新欽定訳)」(黙示録14:12)であるということです。使徒ヨハネも、一つの試験基準を付け加えました。彼が提示したのは、「キリストが肉体を取って来られたことを告白する霊」(Ⅰヨハネ 4:2)かどうかということです。