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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

黙示録の獣の刻印とは  第9回

2016年05月13日 | 日記

   律法の変更

この写真の左上の十字架についているのは、イエス・キリストではなくマリヤです。いろいろなこういった概念が教えられるのです。写真の洞窟の中に置かれているマリヤ像、これも異教の礼拝と何ら変わりがありません。次の写真では、多くの聖人の彫刻が飾られています。神様が彼らを聖人、聖徒として任命されたのではありません。神様は彼らを聖なる者として聖別するようにと言われませんでした。それは、教会の権威によってなされました。そして、教会員たちにその像を拝むように要求するわけです。

ローマカトリックは自らの権力について何と言っているでしょうか。1895年11月11日、ギボンズ枢機卿が次のように述べました。「むろん、カトリック教会は、変化は自らの行為によるものであったと主張するものである。他の方法では起こり得ないし、教会が行動しなければ、当時の人々が霊的な教会の宗教的事柄において何らかの行動を起こそうとは夢にも思わなかったであろう。そしてこの行為が、宗教の事柄においては、カトリックの聖職者に権威があることのしるし、または、印、または刻印なのである」と述べました。

何を言っているのでしょうか、ここで。ローマカトリック教会が自らの権威によって、第七日安息日から日曜日に聖日を変えたことについて述べているのです。そして、それが自らの権威のしるし、印であり刻印であると言っているのです。この地上では、教会に対して法王が神の権威と権力を振るうことが出来ると主張しているのです。ですから第二の戒めを破壊しました。「刻んだ像を造ってはならない、偶像を拝んではならない」、という戒めを破壊したのです。さらに、礼拝日を変えることによって第四条を犯しました。ローマカトリックの枢機卿が、このことがカトリック教会の権威のしるし、印だと宣言したのです。

1923年9月11日の、カトリック記録文書にこのように書いてあります。「教会は聖書の上に位置する」。とんでもないことを言っています。「そして、この安息日を日曜日に移したことが、その事実を裏付ける証拠である」と、そのようなことを言っているのです。「あなたが教会の権威を否定するならば、神の戒めの第三条、すなわち、プロテスタントの第四条に於ける土曜日を日曜日にとって代わらせたことを、適切に道理にかなって説明したり正当化したりすることはできない」。なんという大胆な主張でしょう。自分たちが神様の律法を変えたと言ってはばからないのです。

神様の律法に禁じられているにもかかわらず、偶像を建てて、それを拝ませることは、拝んでもいいと言っているわけです。自分たちが礼拝日を土曜日から日曜日に替えたと宣言しているわけです。戒めが教えている礼拝日は、もはや土曜日でなくて、日曜日である、われわれがそれを変えたと言っています。「今、見てみなさい。プロテスタント諸教会は我々に従って土曜日ではなく、日曜日に教会へ行っているではないか。我々の権威を彼らは受け入れているのである。そのことは、彼らは、「はい、あなたこそ、この神の律法、戒めを変える権威がありますと認めていることなのである。そして、これこそが我々の権威の印(しるし)であると言っているのです。

日曜礼拝を勧めている、教えている所は聖書のどこにもありません。しかし、聖書が預言している通り、彼らが礼拝の日を変えてしまいました。カトリックの1923年9月11日の記録文書によると、このように書かれています。そこには、「日曜礼拝こそ、彼らの権力の印である」と。しかし今もなお、神様の戒めは、聖書にこのように述べられています。

「安息日を覚えて、これを聖とせよ。……主は六日の内に天と地と、その中のすべてのものを造って七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」。

また、エゼキエル書20章12節にこのように書かれています。

「わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らの間のしるしとした。これは主なるわたしが、彼らを聖別したことを彼らに知らせるためである」。

私たちが、人間の戒めではなく神様の戒めに従うようにと、神様は私たちに求めておられます。イエス様が言われました。「もしあなたが私を愛するならば、私の戒めを守りなさい」と。神を愛するとはすなわちその戒めを守ることである。そしてその戒めは難しいものではない。神様の戒めの中央である第4条には、神の印が押されています。この印と言うのは権威を証明するものです。

 


 黙示録の獣の刻印とは  第8回

2016年05月12日 | 日記

 新しい法王と獣の刻印

先日新しい法王が任命されましたね。南米アルゼンチンから選出された、始めての法王でした。彼はフランシスコ一世と名乗りました。そして、ローマカトリック史上最初のイエズス会出身の法王です。

聖書によると、「全地の人々は驚きおそれてその獣に従い」とあります。このことについて、以前の法王レオ13世は「我々は地上で全能の神の座につくものである」と宣言しました。これは神様への冒涜ではないでしょうか。その通りです。法王は罪を赦す権威があると主張しているでしょうか。その通りです。なぜ多くのカトリック信者が、直接キリストに行くのではなく、ローマ法王教の司祭たちに罪を告白するのでしょうか。こういった状態を考えてみて下さい。

獣の刻印とは何でしょうか。アメリカの社会保障制度であると考える人もいます。コンピューターのバーコードだと考える人もいます。クレジットカードだと考えている人もいます。運転免許証だと考える人もいます。マイクロチップと考えている人もいます。これは、非常に小さい物体ですね。ごまのタネよりも小さい者を人間の体を始め、いろいろなものに埋め込むというものです。

ローマカトリック教会から発行物されている『日曜日の訪問者』と言う印刷物の、1945年4月18日号に、興味深いことが書かれていました。法王の公式な名称は「ビカリウス・フィリ・ディ」であると言うわけです。聖書によると、先ほどの獣の刻印というのは人間の数字、名前の数字であると言われています。実は、聖書の預言の中の、書かれている特徴の全てがこのローマ法王教にあてはまるのです。では、そのローマ法王の公式名を見てみましょう。

歴史上大勢のローマ法王がいました。法王一人につき公式の個人名が一つありますが、法王の公式名は、ラテン語で「ビカリウス・フィリ・ディ(Vicarius Filee Dei)」ですが、こののラテン語は数字で表すことが出来ます。。これらのアルファベットがあらわす数字を足していくと、Vと言うローマ数字は5を表し、Iというローマ数字は、1です。Cは100、こうして全部を足すと、666になります。

「この数字とは、人間をさすものである」とあります(黙示録13:18)。非常に興味深いですね。この獣の刻印というのは、字義通りのものでしょうか、象徴的なものなのでしょうか。多くの人は獣は象徴で、刻印は字義通りであると考えています。頭や角は象徴だけれども、刻印は字義通り、それではつじつまが合いません。矛盾した解釈になります。獣の権力は霊的な象徴です。獣の像も、霊的象徴です。名前も霊的象徴です。数字も霊的象徴です。封印も霊的象徴です。それなら、当然、刻印も霊的な象徴と言うことになります。

この点を理解しなくてはいけないのです。獣の刻印の主な争点は、礼拝ということです。第2の獣はこのように言うわけですね。“お前たちは、第1の獣を伏し拝みなさい。礼拝しなさい。さもなければ私があなた方を殺す”と。“第1の獣を伏し拝まないならば、売り買いが出来なくなるぞと。経済活動が出来なくなるぞ”と脅かされるわけです。

なぜ私たちは神様を礼拝するのでしょう。礼拝する理由は何でしょう。黙示録4章11節によると、神様が私たちをお造りになったからです。創造主であられる神様だけが、私たちの礼拝を受けるにふさわしい方なのです。それは教会の権威によるものではなく、聖書の権威によるものです。

十戒にそのように書かれています。神様の指によって書かれた十戒ですが、その十戒を法王教は破壊しようとしました。

十戒第二条に、「刻んだ像を造ってはならない、拝んではならない」と命じられています。しかしローマ教会は、ありとあらゆる偶像を生み出して来ました。マリヤの像、赤ん坊イエスの像、まるで異教の宗教と、変わらないですね。異教の宗教にこういった偶像がたくさんあります。そして、ローマ教会に行っても、こういう偶像が至る所で見られます。


黙示録の獣の刻印とは  第7回

2016年05月11日 | 日記

2の獣とは?

そして黙示録13章11節では第2の獣が海からではなく、地から上がってきます。13章1節の、最初の獣が出現したのは海でしたが、海とか水というのは多くの民衆を表わしています。そして、ローマ法王教は多くの人々が住んでいたヨーロッパの国々の中から興りました。ところが第2の獣は地から上ってくると描写されています。これは、ほとんど人口のない場所から現れて頭角を現してきたというのです。あまり人の住んでいない場所から現れたということで、地から上ってきたと表現されているわけです。

第1の獣はその姿が野獣のような獣でした。しかし、第2の獣は、おとなしい何も攻撃しないような獣に見えました。小羊のような角のある獣と表現されています。非常に温和でおとなしそうに見えたわけです。小羊と言うのはキリストも表わしていますね。この国はイエス・キリストの教会、またはクリスチャンの特徴を帯びた形で建国されたわけです。またこの獣には、1本でなくて2本の角がありました。これは、独裁政治、一人の王を立てたのではなくて、この国の政治形態は共和制であるということを象徴しています。アメリカ合衆国は、聖書の原則にのっとって建国されました。

ここに牛のような獣の写真があります。アメリカを代表する動物ですけれども、こういう生き物を見たことありますか?バッファローですね。この生き物はアメリカ合衆国にしか見られません。ここに興味深いことがありまして、このバッファローの赤ちゃんは実に小羊そっくりなのです。もしかしたら、黙示録を書いた、ヨハネが幻に見た獣と言うのは、小羊に似たバッファローの赤ちゃんだったのかもしれません。バッファロー、その赤ん坊を見て、小羊のような獣と表現したのかもしれません。

この第2の獣が起こったのは、第1の獣が死ぬほどの傷を受けた1798年頃ということになります。聖書に言われている通りにちょうどその頃、第2の獣が現れてきたのです。

アメリカ合衆国の建国は1796年ですから、非常に近いですね、年代的に。そしてアメリカ合衆国が国家として台頭してきた、そのすぐ後で、第1の獣が復活を遂げました。死ぬほどの傷を受けたのに、その傷が治ってしまったのですね。それは、いつ起こりましたか。1929年2月11日、ラテラン条約によってカトリック教会は復活したのですね。ムッソリーニという独裁者が、ローマカトリック教会に108エーカーの土地を与えて、そこに独立したバチカンの国を建てることを認め許可したのです。

そのとき、第1の獣の権力が復活を遂げたわけです。なぜでしょうか。聖書がそのように述べているからです。「そこで全地の人々は驚きおそれて、その獣に従」ったとあります(黙示録13:3)。バチカンが、全世界のローマカトリック信徒に対して与えている影響、立場というものを、皆さんもご覧になったことがあると思います。多くの人々がローマ法王をたたえ、驚き恐れ、彼に従おうとしています。

 


 黙示録の獣の刻印とは  第6回

2016年05月10日 | 日記

第1の獣とは?

ここで、黙示録13章に戻りますけれども、黙示録13章では、第1の獣が、ここにあるような姿で海から上ってきました。この獣の権力を研究していると、この海から上って来た獣によって、実際にここに描写されている預言通りのことが、ヨーロッパの国々の歴史の中で成就したということがわかってきます。

私が申し上げていることを、実際に宗教改革者、著名な宗教改革者マルチン・ルターやツゥイングリー、ジョン・ノックス、ジョン・ウエスレー、そういった人たちもまた、同様の解釈をしていました。この獣について、同様の考えを持っていました。つまり、私がこの解釈を持ち出したわけではないのです。これは、私より以前の宗教改革者たちによって確立された解釈なのです。このヒョウの体をした獣は、7つの頭を持っています。しかも10本の角がありまして、体はヒョウのようで、頭はライオンのようで、鉄の牙、爪を持っていてダニエル書7章に出てきた4つの獣の特徴を、そっくりこの獣が帯びているのです。

そしてこの獣の権力というのはこの4つの獣に続いてヨーロッパの国の中から興りました。ですからこれはバビロニヤ権力でなくて、メド・ペルシャの時代に起こったのでなくて、ギリシャ帝国の時代に起こったのでなくて、ローマ帝国時代に台頭してきました。実際にローマ帝国と言うのは10の国に分裂していまいました。実際にローマ帝国が滅びて10の国が興ったその最中に、この獣の権力は台頭してきたのであります。どうしてそのことが分かるでしょうか。

聖書の預言の記述を深く研究していけば、そのことが分かってきます。そしてこの終末時代に、獣の刻印が強要されるその背後で、糸を引いているのがこの7つの頭、10の角を持つ獣なのです。冠はどこにあるのでしょうか。この冠と言うのは、7つの頭に乗っかっているのか、10本の角に乗っかっているのかよく見て下さい(図参照)。冠が見えますか。角の上にありますね。頭の上ではありません。

ダニエル書7章の4つの獣は水の中から現れてきました。バビロンは1つの頭でした。メド・ペルシャも1つの頭、ギリシャを表わした獣はいくつ頭がありましたか?4つでしたね。合わせて6つの頭となります。あと1つ、ローマ帝国を表わす獣はいくつありましたか?1人の王で1つの頭でした。そういう意味で、後から続いてきたものを合わせて7つの頭となったわけです。しかし歴史によるとローマ帝国も滅びて、やがて10の国に分割されました。

ちょうどその頃に、この黙示録13章に出てくる第1の獣が登場したのです。ローマ帝国が滅びて10の国に分割され、そしてそれらの国が冠をかぶって主権を持っている最中に、黙示録13章の獣が登場したのです。

聖書に立ち返った宗教改革者たちは、ローマ法王を反キリストを呼びました。それは歴史を学べば、はっきりしていることです。宗教改革者たちは皆、この黙示録13章の第1の獣がローマ法王教であることで一致しています。そして、ローマ法王を不法の者、反キリストと呼んでいるわけです。

ところが、今日の多くのプロテスタント教会がローマカトリック教会の圧力に屈してしまって、その立場を翻してしまったのです。宗教改革の第一人者として知られる、ウイックリフはこう言いました。「法王はこの地上における反キリストであると」。

マルチン・ルターはこのように言いました。「私は聖書の言葉を味方につけていたが、あえて法王に対抗して、たった一人で立ち上がり、彼は反キリストであるとの立場をとることはどれほどの痛みを伴ったことか。キリストが御自身の無謬(むびゅう)の御言葉により、これらの疑念に対して私の心に要塞を築いて下さるまで、私は自分自身、また、サタンと戦い続けていた」。

『キリスト教会の歴史』という本の3巻327ページにこのような言葉があります。「ベリサリュウスの軍事的保護のもと、西暦583年にビジリュウスが法王の座についた。ローマ帝国が衰退していったときに、その権力の座にぽっかり穴が開いていたが、その頃に彼らは、ローマカトリック教会の司教を法王として立ち上げ、権力を握らせ、軍隊までも支配するようになった。カトリック教会は宗教権力、政治権力も同時に握ることとなった。

聖書はきわめて正確に預言している。そして、この反キリストの権力が、紀元538年から至上権をにぎった。その期間がどれだけ続いたかと言うと、1260年間であった。538年から1798年まで、1260年間勢力を振るうであろうと聖書は述べていて、実際にその預言が正確に成就した」。

『アメリカーナ』という百科事典の1941年版にこのような記述があります。「1798年にベルテイエ将軍がローマに進攻して法王教を粉砕し、新たな政体を確立した。当時の法王であったピウス6世が捕えられて、フランスで幽閉されて結局獄死した。聖書が預言した通りに、反キリストの権力であるローマ法王教が、死ぬほどの傷を受けることとなった事件である」。

この時も、聖書の預言がその通りに成就したわけです。1260年もの長い間、権力を振るった期間、ローマ法王教は多くの善良なクリスチャンたちを迫害し、そして、死に至らしめました。剣で殺したり、獄死させたり、火あぶりの刑にしたりしました。猛獣に食べられたクリスチャンたちもいました。


黙示録の獣の刻印とは  第5回

2016年05月09日 | 日記

十人の王ともう一人の王

聖書の幻で、頭と言うのは王国または王様を表わしています。この帝国に4人の王様がいたということでしょうか。その通りなんですね。アレキサンダー大王が、インドのガンジス河のあたりまで、征服したときに、そこまで征服を成し遂げて、地面をたたいてこう言ったそうです。「もう、これ以上征服すべき国がない」と。しかし彼は、自分の国に戻る途中で、お酒を飲みすぎて倒れて死んでしまいました。

彼はまだ33歳で若かったのですけれども、部下の将軍たちが、死にかけている彼に質問しました。「王様、あなたはこれだけの広大な場所を占領なさいました。今死なれたら、誰がその後を継ぐのでしょうか」。その時のアレキサンダーの有名な言葉が残っています。「最も強い者が後を継ぐ」と。そして彼は死にました。アレキサンダーには4人の将軍がいて、互いに後継争いをした結果、ギリシャ帝国は4つの国に分裂しました。4人の王、まさに聖書の通りでした聖書の言葉が歴史的に成就したんです。

第4の獣は、非常に恐ろしい姿をした獣でした。鉄の歯、鉄の爪を持っていました。何でも壊し砕いて、人々を八つ裂きにしていきました。非常に乱暴で残酷な獣でした。これは、歴史的に見て、ローマ帝国以外の何者でもありません。

イエス様はローマ兵の鉄の釘によって磔(はりつけ)にされました。十字架刑に処せられました。しかしやがて、そのローマ帝国を表わす獣の頭から、10本の角が生えてきました。つまりそれは、このローマ帝国が後に10の地域、あるいは国に分裂するという事を表していました。実際にその通りに歴史は成就して行きました。さらに別の小さい角が生えてきました。それによって以前の10本の角のうち、3本の角が根こそぎ抜かれてしまいました。

そして、この小さい角の権力は、人間のような姿、顔をしていました。神に対する冒涜を吐いて、大言壮語したのです。ほかの角とは様子が違っていました。これは神の民を迫害し、神に対して汚しごとを語る宗教権力でした。

ダニエル書7章を読み進めていきますと、この小さい角の権力についてさらなる描写を読むことができます。24節にこう書かれています。「十の角はこの国から興る十人の王である。その後にまた一人の王が起こる。彼は先の獣と異なり、かつ、その三人の王を倒す」。これは宗教権力でありながら、政治権力を握っており、そして他の10人の権力とは違っていたのですが、この小さな権力が台頭すると、他の3つの王たち、もしくは王国が倒されてしまいました。この小さい権力に対抗した3つの国、地域は、その小さい角によって結局制圧されて倒されてしまったのです。

25節によりますとその小さい角の権力は、いと高き者に対して言葉を出すとあります。そして、時と律法を変えようと望むとあります。これは、特に礼拝の時を変えようとする権力ということです。