日頃からふらふらと歩いている道の途中に、むかし城砦があったことを近頃知りました😮知ったキッカケは、毎度おなじみのアプリ「東京時層地図」。いつものように古地図を眺めながら暇つぶしをしていて、なんだか不思議な形状の表記を見つけたのです。
それがこれ👆大正5年~昭和2年の古地図を見ると、等高線が詰まった舌状台地の上に不思議なL字状の土塁のマークがありますよね。(地図1〜3)
どうやらこの位置は現在の世田谷区立多聞小学校あたり(地図上の黄色い四角部分)だとわかりました。
そこでもうすこし調べてみると、中世期に多聞小学校あたりには世田谷城の砦があって、多聞寺砦(三宿城)と呼ばれていたらしいことも判明しました😯
…ということは、このL字の記号はまさかの土塁でしょうか⁉️
で、早速その場所に行ってみることにしたのです🐾
まずは三宿の城砦?の北西部にあたる北澤川の暗渠からはじまります。
古地図をよくみると、、👀 むかしの北澤川はかなり蛇行していたようですが、この川と南側の烏山川に挟まれた地形はまさに舌状台地。
見ればみるほど中世のお城そのものだと改めて気付かされました。
台地の上を目指して、急な坂道を上がっていきます。
ピークまで上がり、その先の路地を右折します。
果たして、今も土塁の跡?は残っているのでしょうか。。
このあたりが、おそらくその場所のはず。。おや👀❓
よく見ると左側に続く路地が確かに盛ってありますよね❓
突き当たりはT字路。。 土塁らしき線とその先に続く赤い破線の小径(地図2)。。。
と、古地図の道と確かに一致しているようです❗️
もちろん、ここがホントにお城の土塁のあとかどうか?はわかりませんが、道が盛られていたのはちょっと驚きかな、、🫢
思いがけない発見で気をよくして、城砦の西側の土塁跡(地図の3番)も覗いてみましたが、、👀 ここは建て替え中の多聞小学校の敷地に沿って、平坦な道がただ続いているだけでした。。
隙間から改修工事中の小学校をながめて見る👀(地図の4番)
車線のある道路を南下してから、古地図の道に従って右へと入っていきます(古地図5番)
その先に大きな門が見えてきました。 この三宿の森緑地公園の広大な敷地は、昭和初期頃は個人の住居だったとか 。。
ポッカリと開けたような公園です(8番地点)
古地図では、道は公園内の石垣に沿って崖下へと続いていますが、、(地図の7番)
残念ながら、今は遮られているため、となりの墓地(旧多聞寺墓地)の路地を下ることにします。(地図の6番)
三宿城は別名、多聞寺砦といわれたそうですが、お城は滅びてからも江戸時代までお寺としての多聞寺は存続していたのだとか。。 そして今はお寺も失われて墓所名だけがここに残っているようです。
でも、取り残されたのが幸いしたのか、この墓地には江戸初期の年号が刻まれた、将棋の駒型の板石墓碑が意外なほど残っています。
江戸初期に板状の墓碑を建てることが出来た身分は限られるため、もしかすると、この多聞寺墓地は三宿城と関わりのある家のお墓かな…。
墓地を下りると三宿神社に出てきました。
ここは明治の宗教政策で出来た新しいお宮さんのようです。
先程の公園から神社を見下ろしてみる👀
再び三宿城のあった高台から、246号線方向を眺めてみます(地図の9番)
ここにむか~しお城があったとはさすがにピンとはきませんが、改めて、古地図を片手に歩いてみると、なんだかそんな気がしてきたような?ご近所散歩になりました。