マイmy巷話

マイMy巷話(かんわ)は「私にはそう見える!」ものを儘に書いているだけの話です。

ひなまつり人形を作る

2019-02-24 | 日常

現在、居候中のお宅のおかあさんが、1階の居間でひなまつり人形作りをひとに教えていました。
面白そうなので、ちょっと私も覗きにいってみることにします。。。







先日は、公共施設のイベントで講師として教えてきただけありまして、材料のキットも本格的なのです。
さすが!おかあさんっ。







おまけに、お人形の着物の生地だって、本格的な古布の帯をパッチワークにアレンジして、各々1点づつ違う模様で用意をしているんですよっ。
私のお内裏様は、この生地を選んでみました。

作り方は、わりと本格的な針仕事なのです。
職場で行うような、いつもの子ども用の工作と違って、結構真剣になっちゃいました。







向かいのテーブルの方に、縫い方を教えるおかあさん。
細かい手仕事に、途中で面倒になって退散しては、再び戻ったり、、、と、いい加減な居候者の私なのです( ̄(工) ̄)









それでも、こんな感じに完成に至りました。
ありがとー!おかあさんっ。







とにかく、このお宅は、人の出入りが多い!
先週までは一時帰国のフランス人一家が、1階のおかあさんのスペースに滞在していたり、、、と、賑やかなんてものじゃないんですからっ。



そんな不思議な一家と過ごす不思議な時間は、いよいよ家のリフォームが竣工する来月いっぱいまでかな、、、。
あと少し、この暮らしを楽しみたいと思ってますけどっ。






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避難先での かたつむり

2019-02-07 | いきもの(かたつむり)

昨夏の火災で避難を余儀なくされて、4ヶ月。







うちの貝どもの青いプラケースも、我々夫婦同様に知人宅で避難の下にある。


しかし、上階の火災から5ヶ月を過ぎたというものの、どれもこれもまったく死なない…
フツウ、災難を間一髪逃れて(つか、飼い主は見捨てて逃げた!)避難した生き物らって、弱ったりするものじゃないのだろうか。
種類によって寿命は違えど、遥かにコヤツらもう死んでもいいんじゃないかっ!?という個体も、何故かしぶとく生き続けているのである。



例えば、、、






これ、睡眠中に落下して殻の大半を無くしてしまった後期高齢のかたつむり。
殻が壊れて、かなりのパニックになっていますっ。








かたつむりは、歳をとると、殻も薄く壊れやすくなり、足(腹足)にも筋力がなくなってしまうものなのよ…ヒトと同じってわけ( ̄ェ ̄)
この老貝も、とうとう終わりだねぇ、、、なんて思いながらも、しばらくICU用のカップに入れていたのね。

すると、、、







しれ〜っと元気になってるぞっ( ̄Д ̄)ノ
殻が破れて肉が盛り上がってしまったところにも、新たに殻が形成されていますね〜大したものだ、、、。


このままいけば、来月あたりにはみんなで我が家に帰ることが出来るかも?







そうそう。



先日の長崎街道歩きの途中で、面白いマイマイを見つけました。
殻の周りに毛の生えたその名も、ケマイマイ。
思わずあたりを探してみると、落ち葉や石の下で冬眠中のケマイマイがいるいる!

ケマイマイは、日本のあちこちに分布しているはずですが、東京ではなかなか見れないレア貝。
長崎あたりはきっとこの貝の好環境だったりするのかな…。





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長崎・日見街道を歩いてみる その5

2019-02-04 | 街歩き・歴史散歩

 

 

難所の日見峠を越えて、いよいよ長崎の街はあとひと息。。

自分の足を使うとよくわかりましたが、この日見隧道が出来たことで辛い山越えもなくなり、市街への陸路が圧倒的に短縮されたわけだから、当時は歓迎一色の大ニュースだったろうよ💧

 

 

国道の高架橋を渡って小さな橋を渡ります。

その先のお堂の脇道がこれから歩く古道になります。

今回、長崎西国八十八箇所霊場のお堂がたびたび現れるのも、街道歩きのアクセントになっていますねっ。


  

街道は山道からいよいよ街なかの風情に。。とはいえ、やはり人影はありません。

 

国道34号の崖下を、古い石積みの壁に沿って歩きます🐾


今ではただ寂しいだけの道ですが、昔ここを歩いたシーボルトは江戸への紀行文のなかで、このあたりの景色を、モミの並木が日見峠の麓まで続いていた、と印象を書き残しています。

きっと昔は美しい道だったのでしょう。。。

 

そんなモミの並木が続いた街道の風景はすっかり失われて、代わりに広いダム湖が出来ていました👀


ダム湖を抜けると、道は国道34号線に再び合流します。

 

 

山の斜面に張り付くように、軒を並べる長崎らしい風景が現れてきました。いよいよ長崎の街はもうすぐだっ❗️


 

国道歩きはつまらないので、すぐに松島稲荷の鳥居を抜けて裏道へと入ります。

  

なかなか風情のある、裏路地です。

   

長崎の街の名物❗️市電が見えてきました。いよいよ蛍茶屋に到着です。

蛍茶屋は、文字通り蛍の飛び交う名所のお茶屋があったことに因んだもので、その手前の一ノ瀬橋も、江戸時代初期の1653年に架けられた石橋だとか。。

 ちなみに長崎の街の主だった石橋群は、中国の橋梁技術を用いて、鎖国当時の高僧や中国語通訳人、出島へ出入りをしていた豪商ら個人の財力で建造されているんですって!

 

蛍茶屋の広い共同墓地下に居座る猫は、岩合さん好みのデカ顔でした。

 

街道は、国道から一段高いところに伸びているので、遊歩道のように長崎の街を眺めながら歩けるのがなかなかおもしろい。

  

中川八幡神社に着きました👀

まさにここが長崎街道玄関口にあたる場所なんですねー❗️おそらく旅の安全祈願でむかしはかなりの賑わいを見せていたのでしょうね。その証に長崎奉行の奉納した石灯篭が残っていました。

  

その先、またまた年季の入った石橋が現れましたねー👀

傍の説明板を読んでみると、1654年に中国語通訳人によって架けられたこちらの古橋は、明治期に人力車や人馬がスムーズに通れるように、橋の欄干を残したままに石を積み上げて段差をなくしたのだとか。。

で、改めて横からよく見ると旧欄干が石組みのなかに確かにハマっていますが、そこから察すると建造当時の橋はかなり薄っぺらだったのがわかりますね。。

 

 

振り返ると、写真左手の細い石畳が辿ってきた道になります。

因みにこの石畳は、旧街道当時から残されている敷石。

いよいよ長崎街道の玄関口 桜馬場までやってきました!

道端の説明板には、ここには二本の夫婦杉と治安維持のための木戸が立っていたことが書かれています。

 


 最後に、桜馬場に到着した伊能忠敬の測量日記を再度見てみます。

 

《桜馬場郷の限り。長崎市中、新大工入り口の木戸、八月十九日の測り始めのイの印に繋げて終る。街道一里一十七町ニ間(5,785.45m)》


と、佐賀との藩境石から始まった長崎街道の測量記録はまさにこの辺りで締めくくっています。

 

  

新大工町と桜馬場の道境に建つ、長崎街道はじまりの碑。


狭い日本とはいえ、西のハズレからのお江戸は地球の反対くらいに当時の人には思えたかもしれませんね!


そして、この碑にタッチ✋して、今回の街道歩きはおしまいにしたのでした。

 

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